ロシアvs西側&ウクライナの情報戦争で、顕著な違いの一つとなっているものがある。それはロシアの政府とマスメディアの観点からするところの、ウクライナの新たな政界の中心的存在「バンデラ派」と「ネオナチ」だ。ウクライナの革命政府とそれを支持する西側諸国は、ロシアの主張を「クレムリン宣伝者の嘘」とし、皮肉にあしらっている。革命に参加した「愛国的」、「親欧的」勢力を、「バンデラ派」と呼ぶことは、はたして正しいことなのだろうか。
ボリシェヴィキによる人工国家
ウクライナは、ウクライナ人の民族自決の結果ではなく、ボリシェヴィキによってさまざまな地域が統合された結果生じた国家だ。ウクライナの政治は長年、有権者数で同等な2地域、すなわちウクライナ西部と、西部寄りの中部vs南東部の対立で決まってきた。これらの地域の住民は文化的に異なり、東部ではロシア語が圧倒的に優勢で、西部ではウクライナ語の方が普及している。また経済的にも異なり、東部では主に工業、西部では主に農業が盛んだ。
現在の欧州広場の参加者は、ほとんどが西部の住民。そのイデオロギーは東部との意見の一致を促すものではなく、唯一かつ完全なウクライナの民族主義のイデオロギーである。
ウクライナ民族主義
ウクライナの民族主義がイデオロギーとして生じたのは1900年代初めで、ドイツのナチズムや当時の他の極右イデオロギーと似た特徴を持つ。このイデオロギーには忍耐力の欠如、直接的な政治活動、暴力、少数派の権利無視の傾向がある。ウクライナの民族主義者は、社会の非ウクライナ的な要素を厳しく抑圧しながら、厳しい支配下での建国が必要だと考えている。問題は、そのような非ウクライナ的な要素が、ウクライナのほとんどを占めているということだ。ウクライナ色がもっとも強い、西部ハルィチナでさえも、これは少なくない。
ヨーロッパのように、ウクライナの民族主義者についても、穏健派と過激派にわけようとする動きが時々生じるが、これは正しくない。ヨーロッパのどの民族主義も最初は穏健派から始まり、その後過激派が形成されていくのである。ウクライナでは、最初から過激なイデオロギーが存在している。
敵の敵は味方
第二次世界大戦中、主にウクライナ西部で、ステパン・バンデラとその右腕ロマン・シュヘヴィチ率いるウクライナ蜂起軍が活動していた。これはウクライナの民族主義史でもっとも有名な部分だ。
バンデラ主義者とナチスドイツ占領軍の関係は困難なものだったが、主な敵はソ連であるという点で一致していた。この姿勢はウクライナ民族主義のすべてのイデオロギー(ウクライナ人の主な敵はあくまでもロシア人)で共通していた。バンデラ主義者の活動が活発化したのは1944~1945年と、冷戦開始によってイギリスとアメリカの特殊機関とバンデラ主義者との共同作業が整えられた戦後しばらく。
だが1950年代半ばまでに破壊活動はほぼなくなり、大多数が平和的な生活に移行することに合意した。バンデラ自身は戦後、イギリスの諜報機関の保護のもと、ドイツ・ミュンヘンに暮らしていたが、1959年にKGBのスパイであるボグダン・スタシンスキーによって、シアン化カリウム入り注射器の仕込まれた特別な銃で暗殺された。
今年4月、ロシア連邦国防省が保管する極秘文書から、当時のバンデラ主義者の活動について、より多くが明らかになった。文書には、ナチスドイツの占領勢力への後方支援や、民族浄化などの活動実態について記されている。ユダヤ人だけでなく、他の民族の代表も根絶させようとしていた。バンデラ主義者のテロは、ウクライナの民族主義のイデオロギーに反対するウクライナ人にも向けられていた。ウクライナの子どもは現在、これらの人々を民族の英雄として崇拝するよう教えられている。
民族主義的な教育
ソ連崩壊後のウクライナ南東部は、西部と異なり、独自のアイデンティティやイデオロギーを持ち合わせてなかった。そのため、ウクライナ政府に南東部の代表がいた時でさえ、政治の人文分野すべてが、ハルィチナのウクライナ民族主義者にまかされていた。このため、教育システムや情報政策の運営は、統一された民族主義的な傾向にしたがっていた。ウクライナの子どもは、極右的な視点のウクライナ史が書かれた歴史教科書で学んでいる。テレビでもウクライナの過激な民族主義的プロパガンダが流されている。ウクライナでまかれた学校・情報教育の芽は、今収穫の時期を迎え、南東部でさえも、ウクライナ化された30歳以下の若者がたくさんいる。そしてその親も、ウクライナ人としての強いアイデンティティを持っている。
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