おぼろげで優雅な日本固有の景色であるとか、揺れ動くもたおやかな自分(日本人)の微妙な情緒なんぞ毛唐に伝えられるはずもないし、またおのがじしそれを他言語で伝えたいとも思わない。
ただし
もし伝えるべき要件があればなるべく正確に伝えたい。とくにこちらからの要望に於いておや、、、、、ただそれだけのことである。
一例を挙げれば
三島由紀夫はアメリカの放送局のインタビューに正しく英語で答えてはいるが、自分の小説においてはやや過剰なほど日本語でしか顕せないような「大和言葉」しか使わなかったのである。
しかるに
ドナルドキーンがいかに苦労したかが忍ばれる。
ところが
かって、現地司令官の既得権を死守したい大馬鹿卑劣漢の連中は進駐軍の隣にいることでやくざも警察も無視できるだけでなく自ら現地人(すなはち日本人)にたいする支配力をより強固にできたものだから、いまだに宦官たちの考え方が当時と変わっていないのである。
もとより
身をひさぐ以外に喰う道がなかったパンパンを責めても詮無いことではあるが、男性でありながら「宦官」になって
毛唐に身も心も売ることを何とも思はない日本人が「いまだに」いると思うにつけまことに情けない限りである。
つまり
それが彼らが戦後ずっと推し進めている「英語教育」なるものの本質が宦官主導体制の保持であることは言うまでもあるまい。
それゆえ
宦官たちが英語を介する人間と英語を介さない人間とを明確に差別化できる植民地社会を目指していることは明らかである。
ということは
かってのインドとかシンガポールとかと同じように毛唐すなはち神の言葉を宦官が預言者として神に成り代わって伝えるためには、どうしても通事「のようなもの」が必要でありそれが出来る者が同じ奴隷でも上位を占め、残りを死ぬまで貧者にとどめ置こうとする企みなのだ。
ちなみに
今回文科省宦官が出した英語教育に対する方針こそがそれを如実に顕している。
それは
今回安倍政権が打ち出した「英語教育改革実施計画」のことで、2020年、小学校5年から英語を正式教科にし、中学・高校の英語の授業はオール・イングリッシュ方式、つまり日本語を禁止し英語だけで授業を行うことを謳っているのである。
まだ
日本語も固まらない子供の時点で「思想の構築」とか「概念把握」とかいうことをできなくさせるため、文科省の宦官たちがこれを企み、極めて英語コンプレックスの強い安倍に持ちかけたのは「兵法」としても卑怯極まりない。
これが
もし宮沢喜一だったらそのようなことは提案しなかったはずである。
それはともかく
こんなことを進めれば、一知半解な少数のグローバル・エリート?のみが英語で会話し、土地に愛着を持たず、好きなように動き回り、英語が出来ずそれ故英語を畏怖している土着の庶民は学問からも疎外され、いい職にも就けず、収入格差も大きくなって自信さえ失い、ひいては国民を英語階級と現地語階級に分断することになるだろう。
つまり
相対的な日本語能力の低下もしくは日本語蔑視化は日本固有の文化や哲学の劣化につながり、なお一層の対米従属の格差社会につながることになりかねない。
どうして
情報だけは鎖国状態にして偏った英語教育だけを進めているのかぼくにはどうしても理解できないのである。
たしかに
知識は豊饒であるべきで、他国の言語を理解したり異邦人にモノを要求したりすることはあり得ることだろう。ただ
何故他言語を無視し「英語」だけに特化しなければならないのか全く分からない。
しかも
多様な知識がバランスよくあるという前提で、物理だとか数学だとか言語学(のひとつ「英語」)だとかを選択するのなら分かるけれど、なぜ日本語で知識の体系が出来上がる前にネイティブでない言語を頭にいれて子供の知識を混乱させる必要があるのだろうか。
やはり
一世紀遅れの植民地主義を日本に根付かせようとする宦官どもの悪巧みであるとしか考えなられない。
なぜならば
いまだに旧植民地の「英語力?」は子供のころから英語塾?に通わせている日本人よりはるかに習熟しているからである。(ゆえに自立できない?)
だから
僕は日本の文化や教育を破壊させる政府の方針に断固反対したい。
というのは
言語を理解することと納得することとは全く違うからである。
そのいい例が
全く英語が理解できない安倍晋三が辺野古新基地建設に納得しているということである。また、逆に英語を理解しているからこそ沖縄県知事は納得していないという皮肉な現象も起きている。
ことほど左様に
総理大臣ですら出来なくてもやって行けるような英語をなんで一生使わないかもしれない国民「すべて」に課すと言うのか理解できなのである。
第一、
中高すべてを英語で、いったい誰が教えるというのだろうか?
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