まあ、オールドリベラリストとして、「世に倦む日々」氏は、現在のリベラルの惨状には目を覆いたい思いだろう。私はリベラリストではない(リベラリストとは要するに「自由主義者」であり、伝統破壊主義だからだ。)が、一種の「社会主義者」として、広義には(狭義にはか?)、氏と同じ軍列にいるので、下の記事には共感する部分が多い。
7/27、パリ五輪が開幕した。開会式の演出をめぐって議論が起き、余波がしばらく続く状況となっている。問題となったのは、(1) 演出ショー後半の青い裸体のディオニソスが登場する「最後の晩餐」のパロディとドラァグクイーンのパフォーマンスの部分であり、(2) マリー・アントワネットの生首がコンシェルジュリーで歌う冒頭の場面である。趣味が悪いという批判は同じだが、批判の中身に少し差があり、(1) は多様性の主張と表現の問題であり、(2) は歴史認識に関わる問題と言える。そう整理できる。最初に (2) について考えると、非常識で悪趣味という印象は私も同じだけれど、と同時に、この国がフランス革命を原点とする共和国で、国民と国家のアイデンティティの核に市民革命があるという基本を再認識させられる演出でもあった。その本質を看過してはいけないと思う。
通常、五輪開催国は自らの歴史物語を開会式演出ショーで盛大に披露し、世界の前で自己紹介する。シドニー五輪も、北京五輪も、ソチ冬季五輪もそうだった。その場合、多くは遠い昔に遡って始原的な地平から物語を始めていた。ところがパリ五輪はそうではなく、大革命以前のフランスが登場しない。フランスは長い歴史と伝統を持つ国で、特に18世紀はフランスの世紀と呼ばれるほど繁栄と栄華を誇った時代だった。欧州貴族世界の公用語はフランス語となり、そこは文化の中心地で発信源であり、誰もの関心がパリとヴェルサイユに集まっていた。今日、世界の耳目がNYとDCに集中しているのと同じで、当時は圧倒的な影響力を持っていた。だが、その過去が紹介されず、逆に否定されている。革命によって世界を近代市民社会へ導いたフランス。人権宣言とトリコロール。そこにこそ彼らの自我がある。
フランスの自画像をあらためて確認させられた演出だった。(2) についてはその観点をコメントすることができる。現在、世界はシステムも思想も資本主義(新自由主義)一色に純化され統合されていて、それを批判する社会主義の契機が完全に否定され封殺されている。が、資本主義批判である社会主義の思想と運動の端緒は、フランスの市民革命から始まっていて、赤旗はバスティーユ襲撃の革命派の標章に由来し、L'Internationale はパリコミューンのとき作曲されていた。それが近代世界史の真実である。大革命とそれに続く19世紀のフランス市民革命の意義と評価が、嘗てとは一変し、著しく貶価され矮小化され過小評価されてきたのが、この20年間の世界の潮流だった。英米、特にアメリカばかりが脚光を浴びて過大評価され、ロールズとアーレントが現代思想神殿の主神として鎮座したのが21世紀だった。
フランス革命史の意義の衰退は、世界を覆う新自由主義の仕業だったと分析できるが、(2) の問題の検討は別稿に持ち越そう。(1) の多様性の問題については、私も批判的な立場に傾くのを否めない。この多様性主義を強烈にアピールしたショーが、一般の劇場公演なりテレビ放映の作品であれば、普通に面白く、フランス的なエスプリを利かせた前衛芸術として娯楽鑑賞できただろう。だが、これは五輪開会式の演出の一部である。世界中が注目する五輪開会式のプレゼンテーションであり、パリ五輪委のメッセージの表現であり、半永久的に残る公式映像である。その点から鑑みて積極的な評価はできず、失敗で失態だと言わざるを得ない。
(中略)
制作者の意識の上では、今回の演出はフランスお得意の前衛芸術の投擲であり、ラディカルな手法での先端文化思想の啓発行為だったかもしれない。だが、現実には、それはEUと国連とWEFという「体制側」がキャリーする価値観のエバンェリズムであって、体制側にサポートされ、体制側が用意したステージで、体制側にギャラをもらって演じたショーにすぎない。この場合の「前衛」の意味は、多様性主義の流行に顔を顰める欧米の保守的キリスト教徒や、この傾向と風靡に困惑し忌避しているロシアや中国やイスラム圏に対するアンチテーゼという中身になる。WEFと資本主義体制に対する反逆や抵抗ではなく、ロシアや中国やイスラム圏に対する挑発であり、ロシアや中国やイスラム圏に対して自らの先端性と優越性を誇示する演出なのだ。先進国世界の左派は、ショーの文化的前衛性を嘗ての体制反逆の意味と被せて解釈し、錯覚し、自己同一化して正当視する。
それ以前に、すでに文化左翼とかポリコレ左翼とかウォーク左派の言葉があり、多様性主義は左派が担ぐ思想性だという認識が定着していて、その政治表象は大いなる影響力を持ち、先進国の政治と社会を現実に動かしている。ジェンダー・マイノリティ・LGBTの思想性が、実際にはWEFが推進するところの、新自由主義を補完するイデオロギーでありながら、社会主義から離れて迷子になった現代の左派は、その罠を察知しているのかしていないのか不明だが、新しい思想性に自らの生存と安息の地を見つけるのである。それを新しいレゾンデートルに据え直し、新しい神(価値観)として信仰する。ジェンダー・マイノリティ・LGBTの大義を振り翳していれば、右派(保守派)に対して前提的に優位的立場を確保でき、政治的自己満足を得られるご利益があるからだ。水戸黄門の印籠だからである。奇妙な脱GDPの環境主義も含めて、実際にはそれらは体制側のイデオロギーでしかない。
結局のところ、前衛芸術で文化的革新性をアピールしているように見せつつ、パリとフランスがEUとWEFとUSAに媚びへつらい、新自由主義のシステムとムーブメントに掉さし、調子よく便乗し、現行支配体制の思想を手先になってエバンジェリズムしている。私にはそう見えた。嘗てはあれほど思想分野で世界を領導したフランスが、今、オリジナリティを捨て、生き残りのために必死になってEUとWEFに傅いている。近代五輪の本来の理念は消え失せ、欧州貴族が世界から金と人を集めて儲けて悦ぶところの、商業主義と欧米中心主義の祭典をサイケデリックに奉祝する茶番劇を見せている。それでも、3年前のどこかの国よりずっと見る価値はあった。はるかに真面目に制作していた。そして何より、人類史の歩みを積み重ねてそこにある、パリ中心部の都市景観はどこまでも華麗でロマンチックで、老いにも若きにも夢を与え、心をわくわくさせてくれる。
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