要するに、ヒトラーとナチスの根本的な誤り(痛恨の失敗)は、
1936年夏頃には外貨不足と2年連続の農業不振が重なって、ドイツ経済は深刻な原料危機を迎えており、景気失速の危険があった[31]。この危機を乗り越える方策としては協調外交と軍拡の減速に政策を切り替えるか、軍備拡大を続けて領土拡大によって占領地から収奪するかという二つの道があったが、ヒトラーとナチ党にとっては後者以外の選択はあり得なかった。
という判断にある、というのが私の考えだ。それ以外の経済政策は、むしろ優秀と言っていい。それは文中で赤字にした部分(その手法は「国家社会主義」であり、「共産主義」とはまったく別である。)でも分かるだろう。要するに、ヒトラーの中の「民族的プライド」と表裏を為す「戦争狂」部分(当時としてはどの先進国の政府もそうだった「帝国主義体質」)がすべての失敗の根本原因だったということだ。これは大日本帝国の失敗もほぼ同様だろう。
(以下引用)
政権獲得から第二次大戦まで[編集]
前史[編集]
第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によって莫大な賠償金を負わされたドイツの経済はきわめて不安定であった。フランスのルール占領に対する抵抗が引き起こしたインフレーションは天文学的な規模におよんだが、ライヒスマルク(以下、マルクと表記)の新規発行で終息した。その後は黄金の20年代と呼ばれる好景気期を実現したが、1928年頃から次第に景気は後退し、1928年半ば頃には159万人だった失業者が、1929年半ば頃までに20万人増加した[11]。1929年10月に世界恐慌が始まると、アメリカをはじめとする外資によって支えられていたドイツ経済はたちまち破綻した。国内の需要は極端に減少し、財・サービスの輸出入は落ち込んだ。産業構造は第一次世界大戦期からの重工業・化学製品重視政策が継続されていた[12]。
1930年に首相となったハインリヒ・ブリューニング首相は金融安定化策で不況に対応しようとした。景気悪化状況での経済対策には財源が必要であり、増税が不可避であった。しかし増税策は議会の反対で否決され、ブリューニングは大統領緊急令や複数化の選挙による強行突破で予算や金融政令を成立させた。ブリューニングが選択した政策は税収増加・福祉予算等の政府支出の削減・物価の抑制を主眼としたデフレ政策であり[13]、彼は「飢餓の首相」と国内から批判を受けた[13]。一方でハインリヒ・ブラウンス前労相の指揮の元、外国融資を資金として大規模な公共事業計画を立案した[13]。
1931年3月23日にはオーストリアとの関税同盟(独墺関税同盟)を結んだ。しかしこれはヴェルサイユ条約の「ドイツ・オーストリア合邦禁止」規定に抵触するとして連合国諸国から強い反発を受け、フランスは制裁としてオーストリアの資本を引き揚げた。これを受けてオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタルトが破綻し、ヨーロッパの金融危機を招いた。1931年7月にはドイツ第2位の大銀行ダナート銀行が支払い停止で閉鎖され、大統領令で8月までドイツ全土の銀行が閉鎖されたものの金融危機は収まらず、不況はさらに悪化した。外資もあてに出来ない状況となり、インフレの再来を恐れる世論やライヒスバンクが大規模な財政出動に反対したため、公共事業計画は縮小された上に実施されなかった[14]。1932年2月には登録失業者が600万人、非登録失業者を加えた推計が778万人に達してピークを迎えた[15]。産業総失業者割合は40%を超え、同時期のイギリスやアメリカの2倍近くに達している[11]。金・外貨準備も減少が止まらず、すべての金・外貨管理をライヒスバンクが監督するよう制限を行ったが[16]、1932年2月には10億マルクを割り込んでいる[17]。
5月にはブリューニングが失脚し、フランツ・フォン・パーペン内閣が成立した。パーペン政権では租税証券による実質的な企業減税策が策定され、新規雇用を行った企業には一人につき年400マルクの租税証券を公布することで雇用を増大させようとした。またブリューニング内閣時代の公共事業計画を拡大し、総額3億マルクに及ぶ公共事業計画(パーペン計画)を開始した[18]。また同年12月3日に首相となったシュライヒャーも雇用創出国家弁務官にギュンター・ゲーレケを任じ、雇用創出委員会を発足させた。この委員会は総額5億マルクにおよぶ雇用創出公共事業、緊急計画を決定し、ライヒスバンクによる部分的な同意も行われたが、翌1933年1月にシュライヒャー内閣が倒れたため実行されなかった。この両内閣はブリューニング内閣のデフレ政策を転換し、景気も反転ないし底入れした[19]。
政局はきわめて不安定であり、ドイツ共産党と国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は勢力を拡張した。特に企業経営者などには右派が多く、共産党に対抗するためナチスに対する資金援助を行った。1932年11月19日にライヒスバンク元総裁ヒャルマル・シャハト、合同製鋼社長フリッツ・ティッセン、ヴィルヘルム・クーノ元首相らケップラー・グループの政財界人が連名でヒトラーを首相にするよう請願書を送っている[注釈 2]。
1933年1月30日にはヒトラー内閣が成立した。経済対策に当たる経済相・農業食糧相にはナチ党と連立を組んだドイツ国家人民党のアルフレート・フーゲンベルクが就任した。ライヒスバンク総裁ハンス・ルター、ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務相はパーペン内閣、シュライヒャー内閣と続けて留任した。
経済分野の強制的同一化[編集]
政権獲得後の1933年2月1日にヒトラーは国民へのラジオ放送で「二つの偉大な四カ年計画」として第一次四カ年計画の開始を発表し、失業者の削減と自動車産業の拡大を訴えた。しかし、その後にナチ党は国会議事堂放火事件(2月27日)後の二つの大統領緊急令、全権委任法によってきわめて強力な独裁権力を確立した(ナチ党の権力掌握)。ナチ党がまず行った経済政策は、ナチ党の思想に基づくよう政治・経済・産業界を再構成する強制的同一化であった。失業対策は前政権のパーペン計画・緊急計画を踏襲するのみで、労働政策のとりまとめが開始されたのは5月1日になってからだった[20]。3月にはライヒスバンク総裁ルターがナチ党と対立して更迭され、ナチ党の支持者であったシャハトが再任された。シャハトは8月からは経済相も兼ね、1935年5月21日には戦争経済全権にも就任、この後の経済政策を主導することになる。
5月2日にはすべての労働組合は解散され、ロベルト・ライが率いるドイツ労働戦線に一本化された。これにより労使関係調整はナチ党の手中に落ちた。7月15日には強制カルテル法が施行され、新規企業設立の禁止、同業企業によるカルテル設立の強制と、国家による監視と規制が行われる体制が始まった。9月13日には帝国食糧団体暫定設立法によって分野別の経済団体が設立され、国がその指導者を任命することで経済活動を統制する仕組みが定められた[21]。指導者制度はナチズムの基本概念である指導者原理に基づくものであり、経済団体は国家の下部機構として動くようになった[21]。11月16日には価格停止令が布告され、商品の価格と原価の管理を国が行うこととになった[22]。
1934年2月には経済有機的構成準備法が施行され、企業は各分野の経済集団(Wirtschaftsgruppe)もしくはライヒ工業集団の地方組織に入ることが義務づけられた[23]。7月、シャハトは経済措置法によってから9月までの間、既存の法律の枠を超える権限を手に入れた。この権限に基づき8月20日には商工会議所令が発せられ、商工会議所の権限が拡大された上で、経済大臣が会頭・副会頭の任免権を含む監督権を持つこととなった[24]。これによって商工会議所の主要人事の大半はナチ党関連の人物が占めることとなり[25]、全国の中小企業もナチ党体制に組み込まれた。こうした企業統制化の影響で、株式会社数は1933年の9148社から1934年8618社、1935年7840社、1936年7204社と明確に減少し、資本集中が顕著となった[26]。
シャハトの時代[編集]
5月31日にヒトラーは指導的経済人と会議を行い、この席で道路網整備と住宅増加が雇用増大の出発点であるとした。また大企業からの要請に基づき、租税の5年間据え置きと、社会政策支出削減によって予算を均整化する方針を固めた[27]。これ以降6月1日には第一次失業減少法(ラインハルト計画)、9月21日には第二次失業減少法(第二次ラインハルト計画)、9月23日からはアウトバーンの建設といった半奉仕活動的な雇用による失業抑制策がとられた。また結婚奨励金や家事手伝いの奨励により、女性を労働から家庭に送り込むことを奨励したが、生活消費を増加させる効果もあった[28]。これらの政策によって登録労働者は1933年のうちに200万人減少したが、奉仕活動的な雇用や統計操作を含むものであり、再軍備や軍需拡大による雇用創出が行われるまでの時間稼ぎ的な性質のものであった[29]。一方で企業に対して租税減免措置がとられ、自動車産業に対する保護育成策もとられた。また低調であった民間投資を集中するため、重点的事業でない繊維・紙パルプ・ラジオ・自動車部品製造などの分野には投資禁止措置がとられた[26]。
1934年3月をピークとして雇用創出での雇用は減少しはじめ、1935年には20万人程度まで低下した[6]。この間に生産財製造業や建築業、自動車産業での雇用が進んだ[30]。また1935年3月16日には正式に再軍備が開始され(ドイツ再軍備宣言)、徴兵制が再開されたことで国防軍に86万人が吸収されたこともあって失業問題は解決され、ほぼ完全雇用が達成された[31]。
また大規模な公共投資は直接的な雇用だけではなく、関連企業の投資を促して景気回復を促した[32]。1936年には国民総生産が1932年比で50%増加し、1936年には国民所得が42%、工商業各指数生産指数が88%、財・サービスへの公共支出が130%、民間消費指数が16%増加した[33]。しかし各種政策への出資にともない、1933年から1937年の期間で国家債務が110億マルク増大していた[34]。産業面では公共事業に直結する生産財製造業や建築業の活況が景気を支えた。特に自動車産業の成長が目立ち、1934年の生産額は過去最高の1928年比で148%、1935年には200%を超えた。さらに雇用数は1934年には過去最高の1928年の水準に達し、1935年にはこの水準をも超過した[35]。さらに石炭・冶金・機械工業企業では総利益が2倍になっている[36]。この一方でヴァイマル時代からの外貨不足状況は変わっておらず、原材料である生糸や綿の輸入が進まなかったため、消費財分野の主力である繊維工業は停滞し、消費財分野全体の雇用者もほとんど増加しなかった[37]。また、統制による賃金抑制は国内消費水準回復の遅滞を招いた[38]。また、同時期には食糧相リヒャルト・ヴァルター・ダレが推進した血と土のイデオロギーに基づく農本主義的農業政策が行われたが、自立小農民を保護する政策は経営合理化を妨げ、増産につながらなかった。また農地の長子単独相続を定めたために次男以下の離農が進み、農業振興とは逆行する事態が発生した[39]。このことと天候不順が重なり、食料輸入が1936年代の課題となる。
(中略)
ゲーリングの時代[編集]
1936年夏頃には外貨不足と2年連続の農業不振が重なって、ドイツ経済は深刻な原料危機を迎えており、景気失速の危険があった[31]。この危機を乗り越える方策としては協調外交と軍拡の減速に政策を切り替えるか、軍備拡大を続けて領土拡大によって占領地から収奪するかという二つの道があったが、ヒトラーとナチ党にとっては後者以外の選択はあり得なかった。このため前者の路線を志向するシャハトは放逐される運命であった[52]。さらに食糧輸入への外貨割当拡充をめぐってシャハトと食糧相ダレが深刻な対立を開始した。ヒトラーの命令でナチ党No2の航空相ヘルマン・ゲーリングが仲介に入り、彼は外貨・原料問題の全権を掌握した[53]。
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