ウィキペディアからプラトンの「国家篇」の一部を転載。
マルクスの「資本主義から社会主義(あるいは共産主義)への『歴史的(科学的)必然性』」の思想が、このプラトンの「国家篇」の焼き直しであることは明白だろう。そして、マルクスよりプラトンが卓越しているのは、「資本主義→民主主義→革命→独裁制社会」という道筋を予言していることだ。これはソ連や初期中国(人によっては現在の中国も)の革命後の有様を見れば、プラトンの思考の卓抜さが分かる。また、資本主義から民主主義(私はこれを「偽装民主主義」と見ているが、民主主義の本質が「自由主義」で、倫理の退廃を招く、というのは卓見である。)に進む、という説は、他の誰も言っていないのではないか。
は、まさに現在の世界の姿なのではないか。
(以下引用)場合によっては途中省略。
マルクスの「資本主義から社会主義(あるいは共産主義)への『歴史的(科学的)必然性』」の思想が、このプラトンの「国家篇」の焼き直しであることは明白だろう。そして、マルクスよりプラトンが卓越しているのは、「資本主義→民主主義→革命→独裁制社会」という道筋を予言していることだ。これはソ連や初期中国(人によっては現在の中国も)の革命後の有様を見れば、プラトンの思考の卓抜さが分かる。また、資本主義から民主主義(私はこれを「偽装民主主義」と見ているが、民主主義の本質が「自由主義」で、倫理の退廃を招く、というのは卓見である。)に進む、という説は、他の誰も言っていないのではないか。
- 政治的な「支配者/被支配者」の関係だけでなく、「父親/息子」「市民/居留民/外国人」「先生/生徒」「年長者/若者」「主人/奴隷」「男/女」「人間/家畜」といった関係性/区分/秩序/規範もまた、「自由の風潮」の下で「平等化/平準化/無効化/無政府化」されて行き、最後には「法律」(成文法であれ、不文律/慣習であれ) すら省みられなくなる。
は、まさに現在の世界の姿なのではないか。
(以下引用)場合によっては途中省略。
- 3-3.「寡頭制」的な「個人」の「成立/性格」
続いてソクラテスは、この国制に対応 (相応) する「個人」について、まずは、それが生まれる仕組みを、
- (名誉支配制的な) 父親が、国家と衝突するなどして、「地位/財産/命を失ってしまう」のを目撃したり、自身も辛い目に遭い、「財産を失う」などした息子が、
- 「恐れ」によって、「自分の魂の玉座」から「名誉愛」や「気概」を突き落とし、
- 「貧乏」による「卑下した心」や「金儲け/節約」によって、「金銭を愛する欲望」を「魂の玉座」に「大王」として据え、「理知」や「気概」をその足下に「召使い」として侍らせることになる。
- すなわち、「理知」には「どうすれば金がもっと増えるか」以外を計算/考察することを許さず、「気概」には「富/富者」以外を讃嘆/尊敬することや、「財貨の所有」や「それに役立つこと」以外で名誉心を満たすことを許さない。
と説明しつつ、その性格を、
- 「金銭」を愛し、「ケチ」で「働き者」。
- 「浅まし」く、どんなことからも「利益」を挙げては倉を建てる。
- 「無教養」であるがゆえに、「魂」の中に「雄蜂」のような様々な「悪い欲望」を生み持っているが、それらは、「自分の財産/取引/利益」(を維持するための「評判/世間体」) を失う「心配/恐れ」が、「自制力/抑制力」となり、抑えられている。
- しかし、「孤児の後見人」になった場合など、「不正を行い、他人の財産を消費できる機会」が与えられると、そうした「欲望 (雄蜂)」が露呈することになる。
- したがって、「金銭に対する欲望」(という「比較的良い欲望」) が、他の様々な「悪い欲望」を支配/統御してはいるが、「内部の分裂/抗争」を抱えた、「二重人格」な人間である。
- また、多くの人々よりは、「端正」な振る舞いをするが、「真実の徳」は、彼からどこか遠くへと逃げ去ってしまう。
- 「富の確保」を優先する「ケチ」であるため、「勝利/名誉」のための競争においては、(支配下にある)「浪費的な欲望」を目覚めさせることを恐れ、金を費やす気にならず、「取るに足らぬ競争者」にしかならない。
といったものであると指摘する。アデイマントスも同意する。
「自由への欲望」と「民主制」(的な国家/個人)[編集]
- 4-1.「民主制」的な「国家」の「成立」
続いてソクラテスは、「寡頭制」(オリガルキア) から、「民主制」(デモクラティア) が生じる仕組みについて、
- 「寡頭制」(オリガルキア) においては、支配者たちが「自分たちの富を増やすこと」にしか関心が無いので、「若者の中に放埒な人間が出てきて、浪費によって財産を失うのを、法で取締/禁止する」だとか、「貸借契約を、貸手の危険責任のみに制限する」といった対策をせず、むしろ「そうした人々の財産を買い取ったり、そうした人々に彼らの財産を担保にして金を貸す」といった行為で、「自身の富を増やそうとする」し、また「「富」の尊重という社会体質ゆえに、「節制の徳」を、国民の内に浸透/維持させることもできない」こともあって、(「非凡な生まれの者」も含め) 多くの「貧困者/落伍者」を生むことになる。
- こうして「貧乏になった人々」は、「借金を背負ったり、市民権を奪われたり」しながら、(「雄蜂」のように)「針」で身を武装して、国の中で為すことも無く坐しつつ、「彼らの財産を奪った者」や「他の国民」を憎悪し、「陰謀/革命」に思いを寄せることになる。
- 他方で、支配者たちは、「自分の子供たち」は贅沢に甘やかして、「身体的/精神的な苦労を嫌がり、快楽/苦痛に対して抵抗力が無い、柔弱な怠け者」にしてしまうし、「自分たち自身」もまた、「「金儲け」以外に関心を持たず、「徳への配慮」において、「貧しい人々」に何ら勝るところの無い者」にしてしまう。
- そんな「支配者 (金持ち)」と「被支配者 (貧乏人)」が、戦場などで一緒になり、互いに観察するような機会を得ると、「貧しい人々」は、「金持ちたち」が「大した人々ではない」ことを知り、「武装蜂起/革命」に対する「自信/確信」を、深めていくようになる。
- こうした「病的な状態」にある国家に、「双方の勢力のどちらかが、外国勢力を呼び込む」だとか、「内部のちょっとしたきっかけ」などが加わると、それが引き金となり、「本格的な病気」としての「内部抗争/内乱」が生じる。
- そして「貧しい人々」が勝利し、「相手側の人々の内、ある者は殺し、ある者は追放し、残りの人々を平等に国制/支配に参与させるようになる」と、「民主制」(デモクラティア) が成立する。(そして、大抵の場合、その国の役職は、「くじ引き」で決められることになる。)
と説明する。
- 4-2.「民主制」的な「国家」の「性格」
そしてソクラテスは、その国制の性格を、
- 国家を「自由」(エレウテリア) が支配していて、何でも話せる「言論の自由」(パレーシア) が行き渡っており、何でも思い通りのことができる「放任」(エクスーシア) が原則となっている。
- そうした環境下で、人それぞれが、それぞれに気に入る「自分なりの生活」を設計するので、他のどの国制よりも「美しく華やか/多彩」であり、同時に、「あらゆる種類の国制」を内部に持っている。
- 「支配/被支配」「戦争/平和」「職業」「裁判判決」などに関する「強制/規範」がうまく機能しない、「無政府的な寛容さ」を持ち、そういった意味で、皆に一種の「平等」が与えられている。
と説明する。アデイマントスも同意する。
- 4-3.「民主制」的な「個人」の「成立/性格」
続いてソクラテスは、この国制に対応 (相応) する「個人」について、まずは、それが生まれる仕組みを、
- (寡頭制的な) ケチな父親の影響で、若い頃には「金儲けの役に立たない (消費的な) 欲望」を、「不必要な欲望」と呼んで、(「金儲けの欲望」に支配させて) 統御していた息子が、
- 青年となり、一度「雄蜂」(としての様々な「消費的/不必要な欲望」) がもたらす、多彩多様なあらゆる種類の「蜜の味」(快楽) を覚えてしまうと、「内なる寡頭制」において、(勢い付いた「雄蜂」による)「内乱/反乱」の機運が生じ、
- 「金儲けの欲望 (寡頭制)」を支援する「父親/身内の者」と、様々な「消費的な欲望 (雄蜂)」を支援する「交際仲間」といった「外部勢力」を巻き込みつつ、「内なる (魂の中の) 内乱」が生じて、
- (仮に一時的に「金儲けの欲望 (寡頭制)」側が勝利して、「秩序が回復」したとしても、父親の「教育」に関する無知によって、そうした状態を維持することはできず、何度も、様々な「消費的な欲望 (雄蜂)」の「勢力回復/拡大」と「内乱」は繰り返され)
- ついには、様々な「消費的な欲望 (雄蜂)」が、(神に愛される「魂」の状態を守るための、「最も優れた監視者/守護者」である、「学問/美しい仕事/真実の言論」などが、そこに無く、「空っぽ」な状態になっている) 青年の「魂の城砦 (アクロポリス)」を占領し、「偽り/まやかしの言論/思わく」を呼び込んで占有させ、
- 「金儲けの欲望 (寡頭制)」を支援する「身内の者」の言説を、「内なる城壁の門」を閉ざして通さず、「年長者」の個人的な忠告も、「使節」として受け入れるのを拒み、
- 「慎み」は「お人好しの愚かしさ」、「節制」は「勇気の無さ」、「程良さ」「適度な金の使い方」は「野暮」「自由人らしからぬ賤(いや)しさ」と呼んで追放し、
- 「傲慢」を「育ちの良さ」、「無統制」を「自由」、「浪費」を「度量の大きさ」、「無恥」を「勇敢」と呼んで、誉め讃え、
- 若い頃の (寡頭制的な) 人間から変化して、「不必要/無益な快楽」を「自由に解放」していく (民主制的な) 人間となる。
と説明しつつ、その性格を、
- 「必要/有益な快楽」のみならず、「不必要/無益な快楽」のためにも、「金/労力/時間」を費やしながら生きていく。
- そして幸運にも、「度外れの熱狂」に駆られることなく年を取り、「大きな騒ぎ」が過ぎ去った後、かつて追放した「徳」の一部を迎え入れ、侵入してきた様々な「欲望 (雄蜂)」に自分自身を「全面的に委ねる」ようなことが無ければ、彼は「諸々の快楽」に「平等な権利」を与えて、暮らして行くことになる。
- すなわち、「くじ引き」のように、その都度やって来る「快楽」に対して、「自分が満たされる」までの間、自分自身の「支配権」を委ね、次また別の「快楽」に対してそうする、といったように、どのような「快楽」も「平等」に養いながら、生活する。
- 他方で、「ある「快楽」は「立派で善い欲望」からもたらされ、求め尊重しなければならないものだが、別のある「快楽」は「悪い欲望」からもたらされ、懲らしめ屈従させなければならない」と説くような「真実の言論 (理)」は、決して受け入れず、「城砦」の中へ通そうとしない。
- こうして、「その時々に訪れる欲望」に耽(ふけ)って、それを「満足」させながら、生きて行く。
- すなわち、ある時は「酒に酔いしれて、笛に聞き惚れ」、次には「水しか飲まずに、体を痩せさせ」、ある時は「体育に勤(いそ)しみ」、ある時は「全てを放り出して、ひたすら怠け」、ある時は「哲学に没頭して、時を忘れ」、また「しばしば国政に参加し、壇上で思いついたことを言ったり行なったり」、時には「軍人を羨ましく思い、その真似事をし」、また別の時には「商人を羨ましく思い、その真似事をする」といった具合に。
- こうした「秩序」も「必然性」も無い生活を、彼は「快く、自由で、幸福な生活」と呼び、一生涯それを守り続ける。
- こうした「あらゆる変様に富んだ、最も多様な習性に満たされた生活」を送る (民主制的な) 人間は、(国家の場合と同じく)「美しく、多彩な人間」であり、多くの人々の「羨望の的」となるし、その内には「様々な国制/性格の見本」を最も多く持っている。
といったものであると指摘する。アデイマントスも同意する。
「狂気」と「僭主制」(的な国家/個人)[編集]
- 5-1.「僭主制」的な「国家」の「成立」
最後にソクラテスは、「民主制」(デモクラティア) から、「僭主制」(テュランニス) が生じる仕組みについて、
- 「寡頭制」(オリガルキア) が、その「成立要因/目的/善」である「富」の「過度の追求」と、「他への無関心」によって崩壊し、「民主制」(デモクラティア) が生じたのと同じように、「民主制」(デモクラティア) が、その「成立要因/目的/善」である「自由」の「過度の追求」と、「他への無関心」によって崩壊すると、「僭主制」(テュランニス) が生じる。
- 「民主制」(デモクラティア) においては、政治的には、過激な民衆指導者/扇動家が煽る形で、「自由」をふんだんに提供してくれない「支配者」は国民に「寡頭制的」だと非難され、そんな「支配者」に「従順な人々」は「奴隷的」だと非難される、といった形で、「自由の風潮」が極限に至る。
- 政治的な「支配者/被支配者」の関係だけでなく、「父親/息子」「市民/居留民/外国人」「先生/生徒」「年長者/若者」「主人/奴隷」「男/女」「人間/家畜」といった関係性/区分/秩序/規範もまた、「自由の風潮」の下で「平等化/平準化/無効化/無政府化」されて行き、最後には「法律」(成文法であれ、不文律/慣習であれ) すら省みられなくなる。
- (何事も「度が過ぎる」と、その「反動」として、「反対方向」へと「大きな変化」を引き起こすのと同様に)「過度の自由」は、「過度の隷属状態」への変化を引き起こすのであり、上記したような「最高度の自由」としての「民主制」(デモクラティア) からこそ、「最高度の隷属」としての「僭主制」(テュランニス) は生まれる。
- そして、「寡頭制」(オリガルキア) において、「病気 (内乱)」を引き起こした、「怠け者/浪費家」としての「雄蜂」たちが、(針を持った勇敢な「雄蜂」の中の、最も勇敢な者が「指導者」となり、針の無い勇敢でない「雄蜂」たちも従える形で)「民主制」(デモクラティア) においても、「病気 (内乱)」を引き起こす。
- (こうした「雄蜂」たちは、(「身体」に「病気」を引き起こす「粘液/胆汁」のように) どのような「国制」においても、「騒動/内乱」を引き起こすことになるのであり、国の立法者は、「雄蜂」が発生したら「巣ごと切除」するよう、用心しなければならない。)
- すなわち、「民主制」(デモクラティア) の「階層/構成集団」を、行動的/喧騒的な「雄蜂」たちを中心とした「指導者層」、「蜜の供給源」としての「富裕層」、消極的/無気力な最多数派としての「民衆」の3つに分けると、「指導者層 (雄蜂)」は、「民衆」を味方に付けつつ、「富裕層」の財産を取り上げて、(一部は「民衆」へと分配しつつ) その大部分を着服できるよう画策する。
- すると「富裕層」側は、自己防衛のために、議会/法廷などで各種の対抗手段に出ることになり、心ならずも「寡頭制的」になるのに対して、「指導者層 (雄蜂)」側は、「民衆」を懐柔するための陰謀論/中傷などによる非難でそれに対抗し、対立が先鋭化する。
- そうした中で、「指導者層 (雄蜂)」の中の1人が、「僭主 (独裁者)」の萌芽である「民衆指導者」として、成長/台頭してくる。
- 「民衆指導者」は、「民衆」を掌握した上で、「負債の切り捨て」「土地の再配分」などをほのめかしつつ、敵対者たちに不正に罪を着せては法廷に引き出し、次々に死刑/追放へと追い込んでいくことになり、ここまで来ると彼にはもう、「敵対者たちに殺される」か、(「狼」になったアルカディアのリュカオンのように)「僭主 (独裁者) へと変貌する」かの二択しか、途は無くなってしまう運命となり、後戻りできなくなる。
- こうして「民衆指導者」は、「富裕層」に対する反乱主謀者となり、仮に「富裕層」側によって一時的に「追放」されたとしても、より成長して帰って来ることになるし、「富裕層」側が「追放」にも「民衆との不和」へと追い込むことにも失敗し、「暗殺」を企てるようになると、「民衆指導者」は「民衆」に「護衛隊」の組織を要求し、誰も敵わない武力/防衛力を獲得することになる。
- こうして「富裕層」は、国外逃亡するなり、捕らえられて殺されるなりして、一掃されるが、「民衆指導者」はそこで終わりにせず、「他の数々の敵」もなぎ倒しつつ、国家全体を完全に掌握し、「民衆指導者」であることもやめて、完全なる「僭主 (独裁者)」となる。
と説明する。
- 5-2.「僭主制」的な「国家」の「性格」
そしてソクラテスは、その国制の性格を、
- 「僭主 (独裁者)」は、当初は「民衆」や「周囲の人々」に、「情深く穏やかな人間である」と思われるような振る舞いをしつつ、敵対者たちを攻略していく。
- しかし、敵対者を攻略した後も、「僭主 (独裁者)」は、1「民衆が、指導者を必要とする状態を、維持するため」、2「人々が、税金と仕事に追われ、謀反を起こしにくくするため」、3「潜在的な敵対分子を、戦場に送り込んで死なせるため」といった理由から、絶えず何らかの「戦争/戦乱」を引き起こし (創り出し) 続ける。
- そうして、次第に国民からも嫌われ、周囲の人々の中からも「勇気ある忠告者」が出てきたりする「逆風」の中で、「僭主 (独裁者)」は、己の支配権力を維持するために、敵味方問わず、「有能な人物」を1人残らず全て排除することを、画策/実行するようになる。
- こうして彼は、「最悪なものを取り除き、最善なものを残す」という形で「身体を浄化」する「医者」とは、「正反対」のことを、「国家」に対して行うことになるし、そうした粛清を行いながら、「くだらない人間たちに囲まれ、憎まれながら暮らして行く」か、「生きることをやめる」かの二択を迫られる、「必然」の運命の中に、縛り付けられることになる。
- そうして、ますます国民から嫌われていく中で、「僭主 (独裁者)」は、身辺警護のために、より多くの信頼できる「護衛兵」を必要とし、「報酬を払って外国から雇ったり、奴隷を解放して加入させる」などして、それを調達するようになる。
- こうして彼は、「滅ぼしてしまったかつての仲間」に代わって、「外国や元奴隷の者」を「友」とするようになるし、そうした仲間や新参市民 (更には、エウリピデスのように、僭主制や民主制の国々を巡って、金儲けのために讃美を捧げる悲劇詩人など) は、彼を讃嘆するが、「心ある優れた人々」は、彼を憎み避けることになる。
- そんな「僭主 (独裁者)」や「護衛隊」を養うために、まずは専ら「神殿の財宝」や「滅ぼされた人々の財産」が消費されるが、それで足りなくなった場合、「僭主 (独裁者)」の「生みの親」である「民衆」の財産 (税金) によって、それが賄(まかな)われることになる。
- これに対して「民衆」が腹を立て、「男盛りの息子 (僭主) が、父親 (民衆) に養われるのは、正しくない」「私 (民衆) がお前 (僭主) を擁立したのは、「富裕層/上流層」から解放されて自由になるためであり、息子 (僭主) を奴隷や外国の仲間ごと、養うためではない」「仲間と共に家 (国家) から出て行け」などと抗議しても、後の祭りであり、言わば、「「自由人への隷属」という「煙」を逃れようとして、「奴隷たちの専制支配」という「火」の中に落ち込んでしまった」ということになる。
- そして「僭主 (独裁者)」は、父親 (民衆) への暴行/虐待 (弾圧) も厭わない、「残酷な養い手」「父親殺し」である。
と説明する。アデイマントスも同意する。
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