しかし、この記事の後半、「ポストモダン思想が現在の世界のサル化を招いた」というのは案外に重要な指摘だと思う。長い記事なので、引用のみ。誤字は原文ママ。転載パパ。
(以下引用)
『真実の終わり』(ミチコ・カクタニ著・岡崎玲子訳・集英社・2019年)
これへの書評を頼まれて、内田氏が思考し、書き留めたものである。
>どうして、世界中の政治指導者たちが同時多発に
「真実」に対して冷笑的になったのか、ずっと不思議だった。
嘘つきというのは、もともと器質的なものである。
病的な虚言癖の人間は一定の比率で必ず登場する。
だから、「病的な嘘つきがもたらす災厄からどうやって逃れるのか」
…という実践課題に、早いものは小学生のうちに直面した。
そして、長く地道な訓練を通じて、
子どもたちは詐欺師やデマゴーグに簡単には騙されないように
「市民的成熟」を遂げていったのである。
>「真実」を軽んじる人たちがいること自体は、驚くには当たらない。
驚くべきは、
そのような人たちが今、世界各国で、同時多発的に、
政治的指導者やオピニオンリーダーになり、
多くの国民に支持されていることの方である。
(-∇-) まあ、このことについては、当ブログは見解を示している。
そもそも「大衆はバカの集まり」なのであり、
それが「民主主義」を極めることで露呈してきたのである。
世の中が理不尽なのは、サルばかり、ブタばかりが、のさばっているからである。
それで、その「バカ大衆」に「乗る」という選択をしているのが、欧米日であり、
「バカ大衆」を「管理」し、「導く」という選択をしているのが中露その他である。
そして、日本は「バカ大衆」に「乗る」という選択をしながら、
世界最速で「ファッショ化」してきた国なのである。
「何も決まらない政治」に耐えかねて、あべらが決断した結果である。
じゃあ、「反あべ」の「抵抗勢力」は、正しかったのか
…といえば、これもそうではなかった。
彼らの多くもまた「バカ」であり、「寄生虫」であった。
「何が正しいのか」が、わからなくなった大衆は、「わかりやすさ」を求め…
マスコミらが、その「需要」に応えていった…
だが、それは「わかったつもり」のバカを増やしただけだった。
そのうち、マスコミ自体も、わけがわからなくなってきて、今日に至っている。
>これまで生き延びてきた集団の多くが取ってきた意思決定プロセスは…
① 「何が起きたのか」について、まず「集団的合意」を形成する。
② それに基づき、過去の政策を精査し、具体的政策を起案する。
こうすることが、生存戦略上、有利だったのである。
(--)今回のウクライナ戦役では、
マスコミが勝手に「侵略だ」と初めから決めつけた。
以降も、②のプロセスも、まったく踏んでいない。
恐ろしい…
いま、ウクライナ戦争は「サルの思考」で行われているのだ!!
>だが、いま、
アメリカや日本、ロシアや中国でも「起きている」ことは、そうではない。
「真実」に対してはシニカルで懐疑的であることが「知的な構え」とされている。
次に、反対派との合意形成には、時間を割かず…
味方の頭数を集めて、数を恃んで一気に雌雄を決するのが「当世風」となった。
(-∇-) まさに、「あべ政治」が、これでした!!
でも、先述したように、あべにしてみれば「そうするしかなかった」のですよ…
>こういうスタイルが、世界同時に傍聴するのは、「変」である。
なぜ、こうなった?
ミチコ・カクタニは、これを「ポストモダニズム」の頽落態だと診断した。
ポストモダニストたちが全否定したものとは…たとえば…
「直線的な物語」としての歴史であり…
「普遍的で、超越的なメタな物語」であり、
「西欧中心主義」であった。
「自分がみているものの真正性を懐疑せよ」
…この厳しい知的態度が、半世紀もすると、逆に、
暴力的な「反知性主義」の郡を産みだしたのである。
連中は、次のように推論したのだ…
(1)人間の認識すべてにバイアスがかかっている。
(階級、性差、人種、宗教のバイアス。このこと自体は正しい)
ゆえに…
(2)「人間の知覚から独立して存在する<客観的実在>は存在しない。
(そう言えなくもないが、これは極端に過ぎる)
したがって、煎じ詰めれば、すべての知見は自民族中心主義的偏見であり、
(3)すべての世界観は等価である。
…であるので…万人は「客観的実在」のことなど気にかけず、
(4)自分の気に入った自民族中心主義的妄想のうちに安らぐ権利がある。
かくして、ポストモダニズムが全否定した自民族中心主義が、全肯定されるにいたった。
こんな結末は、レヴィ・ストロースも、ラカンも、デリダも想像しなかったであろう。
(-∇-)b まるで、「悪人正機説」を
「わるいことをすれば救われる」と解釈した連中そっくりですな~
>ポストモダニズムが、もうひとつ破壊したのが「言語への信頼」だとカクタニは言う。
デリダの哲学をアメリカに輸入したのは、
ポール・ド・マンとJ・ヒリス・ミラーだが、彼らは…
すべてのテクストは「不安定で諫言不可能なまでに複雑であり、
読者や観察者によって、ますます可変の意味が付与される」とした。
「極端な相対主義」の宣布である。
「なんだって、どんな意味でもあり得るのだ。
作者の意図は重要ではないし、そもそも識別できない。
明白な、あるいは常識的な解釈など存在しない。
なぜなら…
すべてが無限の意味合いを持つ。
真実など、存在しない。」
(-◇-)いやはや、これではワガママ、ジコチュウの哲学的正当化である。
うでづく、ちからづくで決めればよいというアメリカの態度そのまんまである!
>たしかに…
あらゆるテキストは無限の解釈に開かれている。
ゆえに、そこに首尾一貫した「一意的意図」を見出すのは難しい。
あらゆる言明について、
「本当に言いたかったこと」と、
「人々が解釈したこと」の間には、乗り越えられない「深淵」がある。
とはいえ、それをよいことに政治家たちが
「誤解を招いたとすれば遺憾である」と言い逃れている…
(つまり、「私の真意を取り違えたのは受け手の責任である」というわけである)
…ことを、忘れるわけにはいかない。
(-へ-)…とはいえ、
だからといって「深淵」の存在の可能性を無視するのもよくない。
だから、より丁寧な思考と議論、弁証法が求められる。
>どうしたら、再び「共通の現実認識」と「常識」に立ち戻ることができるのだろう?
原理的には、手立てがない。
そもそも「共通の現実認識」や「常識」に立ち戻るべきだという言明自体に、
何の「真理」の裏付けもない。
わたしが、そう思っているというだけのことである。
それでも…
「理屈では、そうかもしれないが、いくらなんでも、それは極論でしょう。非常識です」
…くらいのことは、言わせていただきたい。
もっとも、先方には「痛くも痒くもない」ことでしょうが…
(以上)
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