外国人労働者の受け入れを拡大する出入国管理法改正案が、12月8日、参議院本会議で可決、成立した。新たな在留資格を設け、幅広い業種で外国人労働者の受け入れを拡大することになるが、業種や受け入れの規模・人数も決まっていないなど、さまざまな問題が指摘されており、実質的に「移民法案」となっているとの声もある。
本稿では、「アラブの春」やシリア内戦以降、欧州が大量の移民受け入れによってどのような深刻な問題が生じたかを描いた『西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム』を、『日本の没落』著者の中野剛志氏が解説する。
欧州の指導者たちの決断が招いた事態
『西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム』は、英国のジャーナリストであるダグラス・マレーの問題作にしてベストセラー、『The Strange Death of Europe: Immigration, Identity, Islam』の邦訳である。
その書き出しからして衝撃的だ。
「欧州は自死を遂げつつある。少なくとも欧州の指導者たちは、自死することを決意した」
そして、恐るべきことに、この書き出しが単なるあおり文句ではなく、否定しがたい事実であることが、読むほどに明らかになってゆくのである。
「欧州が自死を遂げつつある」というのは、欧州の文化が変容し、近い将来には、かつて西洋的と見なされてきた文化や価値観が失われてしまうであろう、ということである。つまり、われわれがイメージする欧州というものが、この世からなくなってしまうというのである。
なぜ、そうなってしまうのか。それは、欧州が大量の移民を積極的かつ急激に受け入れてきたことによってである。
本書には、移民の受け入れによって、欧州の社会や文化が壊死しつつある姿が克明に描かれている。1つの偉大な文化が絶滅しつつあるその様には、身の毛がよだつ思いがするであろう。しかも恐ろしいことに、この欧州の文化的絶滅は、欧州の指導者たちの決断が招いた事態なのである。
もっとも、この移民の受け入れによる文化的な自死という戦慄すべき事態は、対岸の火事などではない。これは、日本の問題でもある。
「保守」のねじれが招いた日本の「自死」
日本は、移民に対しては閉ざされた国であると考えられてきた。しかし、経済協力開発機構(OECD)加盟35カ国の外国人移住者統計(2015年)によれば、日本は2015年に約39万人の移民を受け入れており、すでに世界第4位の地位を得ているのである。
さらに、2018年6月、日本政府は、2019年4月から一定の業種で外国人の単純労働者を受け入れることを決定した。その受け入れ人数は、2025年までに50万人超を想定しているという。そして、11月2日には、新たな在留資格を創設する出入国管理法改正案が閣議決定され、12月7日、参議院本会議で可決・成立した。
ついに日本政府は、本格的な移民の受け入れへと、大きく舵を切ったのである。しかも、国民的な議論がほとんどなされぬままに、である。
皮肉なことに、本書が日本で刊行されるのは、本格的な移民受け入れのための出入国管理法の改正案が臨時国会で成立した直後、すなわち、日本の指導者たちが欧州の後を追って自死を決意した直後ということになる。
はなはだ遺憾ではあるが、われわれ日本人は、本書を「日本の自死」として読み換えなければならなくなったのである。
本書が日本人にとって必読である理由がもう1つある。それは、移民やアイデンティティという政治的に極めてセンシティブな問題を考えるにあたり、本書の著者マレーに匹敵するような優れた書き手が、残念ながら日本にはいないということである。
マレーは、保守系雑誌『スペクテイター』のアソシエート・エディターを務めていることからもわかるように、保守派のジャーナリストである。しかし、彼の筆致は、日本におけるいわゆる「保守系」の論壇誌に登場する論者たちとは、まったくもって比較にならない。
最近も、『新潮45』という雑誌にLGBTに関する下品な駄文を発表し、同誌を休刊に追い込んだ自称「保守」の評論家がいた。ろう劣な偏見への固執を「保守」と勘違いし、しかもそれを臆面もなくさらけ出したために、ひんしゅくを買ったのである。
昨今の日本では、この評論家と同様に「保守」を自称する連中が書籍やSNSを通じて、ヘイトスピーチまがいの言説を垂れ流すようになっている。
さらにややこしいことに、保守系の論者たちがこぞって支持する安倍晋三政権こそが、本格的な移民の受け入れを決定し、日本人のアイデンティティーを脅かしているのである。これに対して、彼らは何の批判もしようとしない。こうなっては、日本において「保守」と呼ばれる論者に何を期待しても無駄である。
いずれにしても、すでに移民国家への道を歩み始めてしまった以上、今後、日本においても、本書に描かれているような問題が顕在化するであろう。その時、おそらく、この問題を巡る論争は決着のつかない不毛な対立となり、議論はまったく深まることなく、ただいたずらに社会が分断されていくであろう。
移民受け入れはどのように正当化されていくのか
具体的には、こうである。
一方には、移民の流入により賃金の低下や失業を余儀なくされたり、移民の多い貧しい地域に居住せざるをえないために治安の悪化やアイデンティティーの危機にさらされたりする中低所得者層がいる。
他方には、移民という低賃金労働力の恩恵を享受しながら、自らは移民の少ない豊かで安全な地域に居住し、グローバルに活動する富裕者層や、多文化主義を理想とする知識人がいる。彼らエリート層は、移民国家化は避けられない時代の流れであると説き、それを受け入れられない人々を軽蔑する。そして、移民の受け入れに批判的な政治家や知識人に対しては、「極右」「人種差別主義者」「排外主義者」といった烙印を押して公の場から追放する。
その結果、政治や言論の場において、移民の受け入れによって苦しむ国民の声は一切代弁されず、中低所得者層の困窮は放置されたままとなる。
これは、単なる悲観的なディストピアの未来像ではない。マレーが詳細に報告するように、すでに欧州で実際に起きていることなのである。
イギリスの世論調査によれば、イギリス国民の過半数が移民の受け入れに否定的である。しかし、公の場においては、一般国民の声は一切反映されず、移民の受け入れを当然視し、歓迎しさえする言説であふれている。移民の受け入れは既定路線として粛々と進んでいく。
欧州において、移民の受け入れは、次のような論理によって正当化された(第3章)。
「移民は経済成長に必要だ」
「高齢化社会では移民を受け入れるしかない」
「移民は文化を多様で豊かなものとする」
「どっちにしても、グローバル化の時代では、移民の流入は止められないのだ」
これらの主張はいずれも、日本の移民推進論者たちにも踏襲されている。もっとも、マレーが鮮やかに論証するように、どの主張も論拠を欠いている。ところが欧州のエリートたちは、この主張のうちの1つが破綻すると、別の主張で置き換えつつ、移民の受け入れの正当化を続けてきたのである。
こうした一見もっともらしい浅はかな主張の後押しを受けて、おびただしい数の移民が欧州に流入した。その結果、欧州各地で文化的な風景が失われ、いくつかの町や都市は、まるで中東やアフリカのようになっていった。それだけではない。治安は明らかに悪化し、テロが頻発するようになったのである。
政府やメディアが隠蔽した移民による犯罪
もっと深刻なのは、西洋的な価値観が侵害されたことであろう。
エリートたちは、宗教的・文化的多様性に対する寛容という、西洋的なリベラルな価値観を掲げて、移民の受け入れを正当化してきた。しかし、皮肉なことに、こうして受け入れられたイスラム系の移民の中には、非イスラム教徒あるいは女性やLGBTに対する差別意識を改めようとしない者たちも少なくなかった。このため、移民による強姦、女子割礼、少女の人身売買といった蛮行が欧州で頻発するようになってしまったのである。
ところが、ここからが私たちを最も驚愕させる点なのだが、欧州の政府機関やマスメディアは、移民による犯罪の事実を極力隠蔽しようとしたのである。それどころか、犯罪の被害者すらもが、加害者である移民を告発することをためらった。というのも、そうすることによって、人種差別主義者の烙印を押されることを恐れたからである。
そして実際に、移民による犯罪を告発した被害者に対して人種差別主義者の汚名が着せられたり、あるいは告発した被害者のほうが良心の呵責を覚えたりといった、倒錯としか言いようのない現象が頻発したのである。
この異常事態は、もはや「全体主義的」と形容せざるをえない。寛容を旨とするリベラリズムがねじれて、非リベラルな文化に対しても寛容になり、ついには、人権、法の支配、言論の自由といったリベラリズムの中核的価値観を侵害するに至ったのである。まさに、「リベラリズムの自死」と言ってよい。
この「リベラリズムの自死」あるいは「リベラリズムによる全体主義」と言うべき異様な雰囲気の中で、保守派のマレーは本書を世に問うた。移民の受け入れを徹底的に批判し、それを欧州の「自死」であると堂々断罪してみせたのである。これは、ジャーナリストとしての政治生命を賭したレジスタンスと言っても過言ではない。
それだけに、本書の構成力、論証力そして文体は見事と言うほかない。日本の自称「保守」は、マレーの爪の垢を煎じて飲むといいだろう。
マレーは、膨大な調査結果を参照するだけでなく、数々の現地取材も重ねている。そして、移民問題という極めてデリケートな問題を扱うに当たり、冷静かつ公正に論証を積み上げつつも、決して曖昧な表現に逃げようとはせず、自らの主張を明確に断定している。
欧州人の精神的・哲学的な「疲れ」と「罪悪感」
なかでも圧巻なのは、本書の後半で論じられているように、欧州人の精神や思想にまで分析を施していることである。
たとえば、マレーは、欧州人が移民の受け入れに反対するのを極度にためらう心理の底に、かつての帝国主義に対する罪悪感が横たわっていると指摘する。この過去に対する罪悪感が現在の行動を支配し、歪めるという病理は、われわれ日本人にも大いに心当たりがあろう。
あるいは、マレーは、欧州人の精神的・哲学的な「疲れ」の問題を論じる。要約すれば、すべてを疑い、相対化し、脱構築する現代思想によって、欧州人は疲れ果て、燃え尽き症候群に陥ってしまい、もはや移民問題に取り組むエネルギーを失ってしまったというのである。
「欧州の哲学者たちは真実の精神や偉大な疑問の探索に奮い立つのではなく、いかにして疑問を避けるかに腐心するようになった。彼らは思想と言語を脱構築し、協調して哲学の道具にとどまろうとした。実際のところ、偉大な疑問を避けることが哲学の唯一の務めになったかに思えることもある。その代わりを果たすのが、言語の難しさへのこだわりと、固定化されたものすべてに対する疑念だ。まるでどこにもたどり着きたくなくて、すべてを問いたがっているかに見える。おそらく言葉と思想が導くものを恐れて、その両方の牙を抜こうとしているのだ。ここにも広漠たる自己不信が存在する」(同書344ページ)。
この「疲れ」の問題は、ニーチェやシュペングラー以来の西洋思想の難問である。
この西洋思想の難問を、移民という実際的な問題を論じる文脈の中に置くところに、深い教養に裏打ちされたイギリスの保守系ジャーナリズムの神髄が表れている。
とはいえ、過去に移民に対する懸念を少しでも口走った政治家や知識人は、軒並み公の場から追放されてきた。では、このような「過激」な書を世に問うたマレーの運命やいかに?
マレーによれば、本書はイギリスでベストセラーとなり、一般読者のみならず、意外にも批評家からも好評を得たようである。「政治的文筆、かくあるべし」と言うべき彼の優れた文章力の勝利であろう。これは、よく言えば、本書を受け入れる健全なリベラリズムがイギリスにまだ残っていたということを示している。だが、悪く言えば、欧州が自死を遂げつつあることを誰も否定できなくなったということでもある。
そして日本もまた、欧州の後を追うかのように、自死への道を歩んでいる。もっとも、1人のマレーも出さぬままにだが……。
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