拙著『戦前の少年犯罪』の参考文献にも使った江森一郎『体罰の社会史』なんかを基に、欧米のように殴ったりせず子どもをのびのび育てる日本の江戸時代からの伝統をまとめた「日本の体罰の前史」というページがあるんですが、途中で戦前には体罰がなかったとかあったとかいう妙な話になっています。
我が国の歴史の基本的な処がこうも混乱したままで、正しい日本像が日本人に共有されていない状態では困りますので、整理しておきます。
戦前にも体罰はありましたが、戦前は体罰が絶対悪で、明確に「犯罪」として処理されていたのです。
なんか、戦中は違うと読み取る方が多いみたいなので、念のため書き加えておきますが、戦時中も体罰が絶対悪で、明確に「犯罪」として処理されていたのです。
変わったのは戦後になってからです。
戦前の新聞を読んでいる方なら、教師が生徒を殴ったりすると警察が出てきて傷害罪で取り調べをすることはご存じのはずです。
学校内での生徒同士の傷害事件や、戦前にはよくあった生徒が教師を殴るような事件には警察はまず手を出しませんが、教師には厳しく臨みます。新聞が体罰事件を大きくあつかって、常に教師を袋叩きにしていたことも影響しているのでしょう。
戦前は生徒たちも自尊心がやたらと高くて反逆的で、小学生でさえ何かというと徒党を組んで同盟休校や教師の吊し上げをし、体罰教師のクビを要求します。
戦前の親は権利意識が強くてすぐに学校に怒鳴り込んできますし、訴訟を起こします。学校側は平謝りで、治療費を出したり加害者教師を他校に追いやったりすることでなんとか示談に済ませようとします。
法律で体罰は禁止されているのですから、訴訟となると教師に勝ち目はありません。校長も責任を取らされるので平身低頭してもなんとか訴訟まで行かないで収めようとするのです。
このあたりは、拙著『戦前の少年犯罪』を参照していただければ。
『職工事情』では、明治時代の工員を虐待する事件が数多く掲載されていますが、加害者である経営者はみんな逮捕されて、禁固刑などの刑罰を食らっていることが記録されてます。
陸軍で体罰が発覚すれば、傷害罪で軍法会議に掛けられ戦時中は罰金20円ほどを取られました。(陸軍法務官で軍法会議の判事を務めていた原秀男の『二・二六事件軍法会議』参照)
伍長の給料一ヶ月分、上等兵の二ヶ月分です。兵隊は衣食住が支給で、給料はこずかいみたいなもんですから安く、当時の銀行員大卒初任給75円で換算すれば、いまの5-6万円の罰金と云ったところでしょうか。実際に取られるとなると結構痛い額です。
現代も、体罰教師や従業員を虐待する経営者を、戦前のように「犯罪者」としてきちんと罰すればそれでいいんですけど、なぜやらなくなってしまったのか。そこが問題なのです。
日本の軍隊がなにゆえ体罰に厳しいかと云いますと、明治維新で徴兵制をはじめたときにあちこちで暴動とか起って大変なことになったからです。死人が大勢出ています。
徴兵制の軍隊が国民からそっぽを向かれては成り立ちませんから、「軍隊というところは、家族的で暖かくてとってもいいとこなんですよ。体罰なんてとんでもございません」と一生懸命宣伝したのです。口先だけで内容が伴ってないと、若者たちが故郷に帰って「あれ嘘だったよ」って云われてまた暴動とか起きたら大変ですので、国民に愛される軍隊目指して頑張ったのです。
頑張ったからと云って体罰を完全に無くせたわけではないんですが、ともかく体罰は絶対禁止で「犯罪」として厳しく取り締まったのです。やってたのは、あくまでも不法な「私的制裁」であり、つまりは「いじめ」です。
明治維新で小学校ができたときにも、あちこちで暴動が起きて校舎焼き討ちとかされたんですけど、戦前は何かというと父兄が学校に怒鳴り込んできて、生徒も徒党を組んで同盟休校とかするのは、この流れなのだろうと思います。
学校も軍隊も、父兄にものすごく気を遣っていたことが、戦前の新聞を読むと判ります。いまの父兄のように甘くはないので、へたすれば暴動で焼き討ちですから。
西洋的な学校だとか軍隊だとかの日本の伝統に反するシステムを庶民に受け入れてもらうだけでも流血の騒ぎになったのに、さらに日本の伝統に反する体罰が受け入れられるはずもなく、絶対禁止にせざるを得なかったわけです。
体罰を軍隊を弱くする犯罪として嫌い、徹底的な調査や対策を取っていた陸軍も、戦前は一部の者だけがやっていると認識していたようで、ある程度の封じ込めには成功していたようです。
国民皆兵というのはまったくの嘘で、戦前の徴兵率は極めて低く、徴兵検査を受けた男子の二割しか実際には軍隊に入っていないので、いずれにしても一般社会への影響はあまりありませんでした。
ところが、日中戦争がはじまると「支那事変下に於ける軍隊の内務は遺憾なから極めて不振」「私的制裁其の跡を絶たざる」と、体罰が日常化して軍紀が乱れているのでなんとかやめさせろと陸軍上層部が全連隊に警告する事態になります。(陸軍省『支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策』。『軍紀・風紀に関する資料 十五年戦争重要文献シリーズ6』収録)
これは戦前にはいなかった三年兵以上が出てきたためです。徴兵は二年なのでその間はある程度おとなしくしているものなのですが、やっと兵役が終ったと思っても日中戦争が泥沼化するとまた続けて召集され、いつ故郷に帰れるのか判らなくなって不満が爆発し、無茶苦茶をやりはじめたのです。
強姦や強盗なんかをやるようになったのもほとんどは三年兵以上。新兵を殴るだけではなく、上官を殴ったり刃物で刺したりする事件が続発するようになり、軍隊が学級崩壊しました。(陸軍省『大東亜戦後ニ於ケル対上官犯ノ状況』。上記シリーズ6収録)
兵隊が増えると将校や下士官も足りなくなったために、大卒の<幹部候補生>が促成栽培で仕立て上げられ、しかしこんな即席の素人将校や素人下士官が反抗的な部下を制御なんかできませんから、安易に殴るようにもなります。
学徒出陣が始まる前の大卒の<幹部候補生>は歳も食ってて、妻子や仕事を抱えてるのに強制的に将校にされて、三年兵以上と同じ不満を抱えて、彼ら自身が上官殴ったりの非行を働いたりしますし。
そのために、体罰が「犯罪」だという観念が将兵全員からなくなってしまいました。
陸軍上層部は、「体罰はなにより大切な軍の団結を挫き、民間人の軍隊忌避感情を掻き立て、軍を弱くする」「部下には慈愛を持てという軍人勅諭の教えにも反する」「天皇陛下の股肱たる兵を殴るとは何事か」と、体罰が軍にも天皇にも反逆する恐ろしい「犯罪」であることを説いてなんとかやめさせようとしたのですが、誰も聞かなくなってしまったのです。ほとんど全員が関わるようになってくるので、軍法会議も追っつきません。
最後には東條英機陸軍大臣が出てきて、『戦陣訓』で軍紀を正して、強姦や強盗、体罰もやめるように呼び掛けますが、まったく効果がありません。
軍隊経験者でも、体罰が軍に反逆する「犯罪」であることを知らず、軍の正式な制度だと思い込んでいる人が結構います。ほとんどがそうですかね。軍ヲタも、あんまり理解していないんじゃないでしょうか。
海軍も士族出身者しかいなかった創設当初は、お手本であるイギリス海軍流の体罰を導入することに抵抗したようですが、やがて完全なる西洋かぶれとなり果てて、日本の伝統に反する体罰を制度として正式にやるようになりました。
徴兵された一般国民がほとんどで体罰は絶対に受け入れられずに禁止された陸軍とは違い、海軍は極めて少数のためほぼ全員が志願兵で、また海軍に志願する者は西洋的なものに憧れてやってくるので、そういう西洋的な体罰も受け入れたのでした。
「俺を恨むな。恨むなら英国海軍を恨め」(阿川弘之『軍艦長門の生涯』)と云いながら殴ったり、英語で「バッター」と呼んでたり、<精神注入棒>が日本の伝統にはない西洋伝来のものだということは強調されてました。
志願兵だけで一般社会とあまり接点がなかったので、海軍が体罰を受け入れても世の中への影響はなかったのです。
しかし、そんな閉じた組織だった海軍が、戦争末期には肥大化して徴兵された一般人や少年志願兵を大量に迎えるようになって、西洋的な「正しい体罰」を経験させたことは大きかったかも知れません。
戦後はこういう体罰体験をした大勢の若者が社会にあふれ、学校などでも体罰が「犯罪」であるという観念がなくなってしまったわけです。軍隊の影響とは、体罰そのものを覚えたことではなく、日本伝統の正しい善悪の基準が崩壊してしまったところにあるのです。
戦後すぐは、体罰というのは若い教師がやることだということになってまして、軍隊の秩序崩壊を直接経験した世代から価値観が変わったことが判ります。
自由をはき違えたアプレ世代がこういう軍の学級崩壊の「いじめ」である体罰が当たり前だと主張するようになって、戦前のきちんとした規律と伝統を壊してしまったのでした。まともな規律も守れず、日本の伝統に無知蒙昧なる輩がはびこるのはまったく嘆かわしい限りです。
その価値観の転換によって歯止めが無くなり、実際に戦前より戦後は学校内の体罰が激しく日常的になったと云っていいと思います。
日中戦争勃発時に30歳以上で軍隊に行っていない世代が学校でもマスコミでも現役だった昭和30年代くらいまでは、まだ体罰が「犯罪」だという観念は残っていたと思いますが。
なお、師範学校出の<短期現役兵>制度についてですけど、昭和2~14年の制度ではわずか五ヶ月間だけの訓練で伍長となって小学校に帰ってしまい、しかも予備役ではなく第一国民兵役になるので、本土決戦でもやらない限りは軍への再招集も絶対にないという、ものすごい特権でした(空襲の時だけ駆け付ける義務を持つ「防衛召集」の対象になる可能性は後にできた)。
すでに日中戦争も始まって、同世代は戦地に送られてるというのに。
大恐慌の頃に疲弊した農村では給料が何ヶ月も払われず、逆に戦争で好景気になるとほかにいい仕事がいっぱいあるので、これくらいの特権がないと小学校教師のなり手がいないのです。
高等小学校を出たあとに師範学校で5年も勉強するよりも、高等小学校だけ卒業してすぐに就職したほうがいい給料をもらえるんですから。昭和14年にこの制度を廃止したときも、小学校教師志望者がいなくなるのではないかとずいぶん論議になりました。
つまりは実際の戦力になることをまったく期待されていない、たんなる体験入隊のお客さんのようなもので、それでいて一応はエリートの下士官養成で一ヶ月毎にどんどん昇級しますし、平和な内地ですし、体罰とは無縁の軍隊生活だったでしょう。
海軍で五ヶ月間の訓練を受けた人もいるみたいですけど、さすがの海軍も下士官養成コースで、しかもお客さんにイギリス海軍流の体罰を加えたりしましたかね。
このあたりの体験談は読んだことがないので、知りたいところですが。
戦前の教師については、軍隊よりも師範学校の寄宿舎でのいじめのほうが大きい問題だったでしょう。
じつは小学校教師で師範学校出は少数派で、中学や女学校卒、代用教員なんかのほうが二倍くらい多かったんですけどね。
ともかく、戦前の学校では、教師の体罰は絶対悪の「犯罪」だという観念が揺らいだことはないと思います。
生徒同士のリンチは、イギリスのパブリックスクールの伝統をマネようとしたところがありますが、不思議とパブリックスクール流の教師の体罰には生徒も猛反発して、学校も絶対禁止の姿勢を崩しませんでした。
明治時代から法律で禁じられていたので当たり前と云えば当たり前なのですが、いまでも法律はあるんですけどね。
東京高等師範学校の校長を24年も務め、戦前の教育界の元締めだった嘉納治五郎の教育哲学も影響していると思います。
このような体罰を絶対悪として決して赦さない日本の伝統については学者がきちんと説いて、私なんかが出る幕はないと思っていたんですが、誰もまだちゃんとした発言をしておりませんかね。
正しい日本像を日本人全員が共有するためには、私が『戦前は体罰が絶対禁止だった』というような新書の一冊も出しておいたほうがいいんでしょうか。いまはあんまり余裕がないので、できれば他の人にやっておいてもらいたいのですが。
学校と軍隊の両方の体罰について詳しい人というのはあんまりいなさそうでもありますが。
かく云う私も、海軍方面はちと弱い。とくに体罰問題となると、帝国海軍の源流である英国海軍、それも帆船時代まで遡らなくてはならないと思いますが、このあたりは徹底的に弱いというか、知識ゼロです。
一応、以下のようなことは調べましたけど、ここで行き詰まっています。海軍に詳しい方はご教示いただけると幸いです。
朝日新聞昭和54年11月12日夕刊で、作家の宮内寒弥が「旧海軍バッタの由来を訪ねて」という手記を書いてます。戦争末期に徴兵された水兵の宮内さんは毎日<精神注入棒>(バッタ)で殴られたんですが、これを輸入したのは東郷平八郎だという話を確かめるためにイギリス国防省を訪れるのです。
そこの海軍中佐が云うことには、英海軍でも少年水兵を鞭やクリケットバットで殴っていたが、東郷元帥が留学した頃すでにクリケットバットは禁止されていた。パブリックスクールではいまでもクリケットバットでお尻を叩く体罰が残っているので、それを見て影響されたのではないかというのです。
東郷元帥が長期留学から帰った2年後の明治13年に、海軍省が『英国海軍条例』を翻訳していて、国会図書館サイトがアップしているので、こちらで読むことができますが、ご覧のように18歳以下の少年水兵のお尻を鞭で叩く体罰が規定されていて、クリケットバットや、大人の水兵を叩く規定はありません。
こちらの英海軍の体罰についての詳細なる英文サイトでも同様で、イギリス海軍中佐の話は正確なようです。
<精神注入棒>は平べったくてクリケットバットそっくりの形状ですので、パブリックスクールからの影響というのは説得力があります。
東郷元帥はイギリス海軍兵学校への入学は許可されず、商船学校に留学したので、そこでは使われてたのかも知れませんが。
いずれにしても、あくまで少年水兵に対して、軍紀違反への刑罰として艦長や士官など立ち合いのもとに正式にやっていたので、宮内さんのような大人の水兵が毎日のように意味なく殴られたのとはずいぶん違います。
阿川弘之『軍艦長門の生涯』では、第一次大戦後の軍縮で海軍では進級が遅くなって万年二等兵があふれ、この古参兵たちが士官に隠れて腹いせに意味なく殴るようになったと記されていて、ちょうど陸軍が日中戦争泥沼の古参兵ストレスから体罰が蔓延したように、海軍も古参兵ストレスのため大正末辺りから始まったたんなる「いじめ」の新しい現象なのかも知れません。
つまり、海軍では正式な制度としての体罰と、不法な<私的制裁>の二本立てで、戦後に回顧されるのは主にこの犯罪行為である「いじめ」のことらしいのです。米内光政海軍大臣が私的制裁禁止令を出すと、より一層に酷くなったとか。
この当りの切り分けや、時代による変化など、東郷元帥も含めて詳しい方はご教示いただければ。いきなり訪ねてきた外国人に正確な歴史を伝えることのできる英海軍と比べて、どうも日本の軍隊の歴史はあやふやで困ります。
宮内寒弥さんはもう一点、イギリス海軍兵学校のテキストには「下士官兵は動物にして人間に非ず」と明記されているという話を確認することが目的でした。
高塚篤『予科練 甲十三期生』でも先に記されていることで、これが当時の帝国海軍で噂としてあったのか、のちに高塚さんが個人的に耳にしたことなのかよく判らない書き方なんですが、ともかくおふたりとも、この士官は貴族、水兵は平民というイギリス海軍の階級社会意識を帝国海軍士官がそのまま身につけたために、海軍では体罰が横行して、自分たちも酷い目に遭ったと考えています。
実際に階級社会ではないはずの日本の海軍士官が、何故かイギリス貴族になったような妙なエリート意識があって、水兵を見下していたのは確かなことです。宮内さんも海軍についての著作を出すために元士官に取材しようとしても「水兵の分際で生意気千万」と何人にも罵声を浴びせられて拒否されたと云ってます。
ところが、イギリス国防省の海軍中佐は宮内さんにこう答えます。
「それは誤伝であると申し上げるより外ありません。何故なら、わが英国海軍士官の三分の一は、兵から昇進した特務士官でして、貴族出身の士官ばかりではないのですから、そういう人間差別は許されなかった筈なのです」
しかし、英海軍は帝国海軍のように兵から昇進した特務士官を士官と明確に分けて差別してないんでしょうか。イギリス海軍兵学校のテキストとともに詳しい方はご教示いただければ。テキストはたぶん、ウェブにもアップされてるのではないかと思うのですが。
帝国海軍では特務士官だけでなく、大卒の予備学生もあくまで予備士官であって士官とは明確に身分差があるという、陸軍で大卒の幹部候補生が将校だったのとは違う階級差別社会でした。
日本では、兵学校の士官候補生に対しても体罰が横行していたようで、英海軍の士官はどうだったのかも気になります。
つまり、私的制裁とは違う、海軍公式の体罰のほうがよく判らんのですね。<精神注入棒>を目立つところにぶら下げてるのですから、公式の体罰はあったはずなんですが、規定がどうもはっきりしない。
このあたりは英国海軍の帆船時代まで遡らないとけないかと思うのですが、その手の本をちょっと見てみましたが、体罰に関する記述は見つけられませんでした。
文献がありましたらご教示をよろしく。的確なものがなければ、『ホーンブロワー』や『ジャック・オーブリー』などのシリーズで体罰や士官と下士官兵に対する階級意識に関する記述のある場所を教えていただければありがたい。これらは小説ですが、時代考証はしっかりしてるやに聞いております。全部読む時間も気力もありません。
平民の中から貴族に従順な者を引き上げて下士官の下っ端にして殴らせ、怨みはそちらに向け、平民同士でいがみ合わせるという支配構造の道具として体罰を利用したなんてのは考えすぎですかね。
長期間の航海を強いられ、なんせ冷蔵庫もないですから毎日腐ったものを喰わされた帆船時代は、なんらかの叛乱防止システムが必要だったことは確かだと思うのですが。
イギリスはパブリックスクールで貴族の子弟にも体罰を加えますし、海軍だけの問題でもないし、やはり勘ぐりすぎでしょうか。
また、英海軍の実態よりも帝国海軍がどのように考えて受け入れたのかのほうが重要で、なんであんな鼻持ちならない貴族意識ができてしまったのか、経緯をご存じの方はご教示をよろしく。8年も留学して、日本でも英語を使って嫌われた東郷元帥がやはり関わっているんでしょうか。留学と云っても、イギリス海軍兵学校へは入れなかったことが、妙な捻れを生んでるような気がしないでもないですが。
まあ、日本ではラグビーをやってる人たちのように、何故か自分がイギリス貴族になったような妙なエリート意識を持つおかしな人種がいるので、そう不思議でもないかも知れません。
宮内さんは、日本の海軍士官について「鵜の真似する烏」と形容しています。
なお、留学する前に日本の海軍兵学校へ入った東郷元帥は、気に入らない教官を袋叩きにしたりと、日本の伝統的な反逆的学生をやってました。
※教官を殴ってたのは山本権兵衛でした。勘違いしてました。恐縮至極です。
なお、乱暴の限りを尽していた山本らを英国流の体罰で押さえつけようとイギリス海軍少佐の教官が提案しましたが、中牟田倉之助校長は武士である生徒を殴れば日本刀で教官を斬り殺して切腹するだろうと断乎拒否しました。
山本が殴ってた日本人教官や他の生徒も士族出身なんですけどね。生徒が教師や他の生徒を殴るのはよくても、教師が生徒を殴るのは赦されないことだったようです。
戦前の学生が教師を殴りまくっていたことについては、拙著『戦前の少年犯罪』を読んでいただければ。
いずれにしても、体罰が日本の伝統に反する、海外から入ってきたものであることには変わりありません。
「美しい日本を取り戻しましょう」や「戦前の体罰論」も参照していただければ。
上記に記載のない参考文献
『帝国陸海軍事典』大浜徹也 小沢郁郎 編
『日本の海軍』池田清
我が国の歴史の基本的な処がこうも混乱したままで、正しい日本像が日本人に共有されていない状態では困りますので、整理しておきます。
戦前にも体罰はありましたが、戦前は体罰が絶対悪で、明確に「犯罪」として処理されていたのです。
なんか、戦中は違うと読み取る方が多いみたいなので、念のため書き加えておきますが、戦時中も体罰が絶対悪で、明確に「犯罪」として処理されていたのです。
変わったのは戦後になってからです。
戦前の新聞を読んでいる方なら、教師が生徒を殴ったりすると警察が出てきて傷害罪で取り調べをすることはご存じのはずです。
学校内での生徒同士の傷害事件や、戦前にはよくあった生徒が教師を殴るような事件には警察はまず手を出しませんが、教師には厳しく臨みます。新聞が体罰事件を大きくあつかって、常に教師を袋叩きにしていたことも影響しているのでしょう。
戦前は生徒たちも自尊心がやたらと高くて反逆的で、小学生でさえ何かというと徒党を組んで同盟休校や教師の吊し上げをし、体罰教師のクビを要求します。
戦前の親は権利意識が強くてすぐに学校に怒鳴り込んできますし、訴訟を起こします。学校側は平謝りで、治療費を出したり加害者教師を他校に追いやったりすることでなんとか示談に済ませようとします。
法律で体罰は禁止されているのですから、訴訟となると教師に勝ち目はありません。校長も責任を取らされるので平身低頭してもなんとか訴訟まで行かないで収めようとするのです。
このあたりは、拙著『戦前の少年犯罪』を参照していただければ。
『職工事情』では、明治時代の工員を虐待する事件が数多く掲載されていますが、加害者である経営者はみんな逮捕されて、禁固刑などの刑罰を食らっていることが記録されてます。
陸軍で体罰が発覚すれば、傷害罪で軍法会議に掛けられ戦時中は罰金20円ほどを取られました。(陸軍法務官で軍法会議の判事を務めていた原秀男の『二・二六事件軍法会議』参照)
伍長の給料一ヶ月分、上等兵の二ヶ月分です。兵隊は衣食住が支給で、給料はこずかいみたいなもんですから安く、当時の銀行員大卒初任給75円で換算すれば、いまの5-6万円の罰金と云ったところでしょうか。実際に取られるとなると結構痛い額です。
現代も、体罰教師や従業員を虐待する経営者を、戦前のように「犯罪者」としてきちんと罰すればそれでいいんですけど、なぜやらなくなってしまったのか。そこが問題なのです。
日本の軍隊がなにゆえ体罰に厳しいかと云いますと、明治維新で徴兵制をはじめたときにあちこちで暴動とか起って大変なことになったからです。死人が大勢出ています。
徴兵制の軍隊が国民からそっぽを向かれては成り立ちませんから、「軍隊というところは、家族的で暖かくてとってもいいとこなんですよ。体罰なんてとんでもございません」と一生懸命宣伝したのです。口先だけで内容が伴ってないと、若者たちが故郷に帰って「あれ嘘だったよ」って云われてまた暴動とか起きたら大変ですので、国民に愛される軍隊目指して頑張ったのです。
頑張ったからと云って体罰を完全に無くせたわけではないんですが、ともかく体罰は絶対禁止で「犯罪」として厳しく取り締まったのです。やってたのは、あくまでも不法な「私的制裁」であり、つまりは「いじめ」です。
明治維新で小学校ができたときにも、あちこちで暴動が起きて校舎焼き討ちとかされたんですけど、戦前は何かというと父兄が学校に怒鳴り込んできて、生徒も徒党を組んで同盟休校とかするのは、この流れなのだろうと思います。
学校も軍隊も、父兄にものすごく気を遣っていたことが、戦前の新聞を読むと判ります。いまの父兄のように甘くはないので、へたすれば暴動で焼き討ちですから。
西洋的な学校だとか軍隊だとかの日本の伝統に反するシステムを庶民に受け入れてもらうだけでも流血の騒ぎになったのに、さらに日本の伝統に反する体罰が受け入れられるはずもなく、絶対禁止にせざるを得なかったわけです。
体罰を軍隊を弱くする犯罪として嫌い、徹底的な調査や対策を取っていた陸軍も、戦前は一部の者だけがやっていると認識していたようで、ある程度の封じ込めには成功していたようです。
国民皆兵というのはまったくの嘘で、戦前の徴兵率は極めて低く、徴兵検査を受けた男子の二割しか実際には軍隊に入っていないので、いずれにしても一般社会への影響はあまりありませんでした。
ところが、日中戦争がはじまると「支那事変下に於ける軍隊の内務は遺憾なから極めて不振」「私的制裁其の跡を絶たざる」と、体罰が日常化して軍紀が乱れているのでなんとかやめさせろと陸軍上層部が全連隊に警告する事態になります。(陸軍省『支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策』。『軍紀・風紀に関する資料 十五年戦争重要文献シリーズ6』収録)
これは戦前にはいなかった三年兵以上が出てきたためです。徴兵は二年なのでその間はある程度おとなしくしているものなのですが、やっと兵役が終ったと思っても日中戦争が泥沼化するとまた続けて召集され、いつ故郷に帰れるのか判らなくなって不満が爆発し、無茶苦茶をやりはじめたのです。
強姦や強盗なんかをやるようになったのもほとんどは三年兵以上。新兵を殴るだけではなく、上官を殴ったり刃物で刺したりする事件が続発するようになり、軍隊が学級崩壊しました。(陸軍省『大東亜戦後ニ於ケル対上官犯ノ状況』。上記シリーズ6収録)
兵隊が増えると将校や下士官も足りなくなったために、大卒の<幹部候補生>が促成栽培で仕立て上げられ、しかしこんな即席の素人将校や素人下士官が反抗的な部下を制御なんかできませんから、安易に殴るようにもなります。
学徒出陣が始まる前の大卒の<幹部候補生>は歳も食ってて、妻子や仕事を抱えてるのに強制的に将校にされて、三年兵以上と同じ不満を抱えて、彼ら自身が上官殴ったりの非行を働いたりしますし。
そのために、体罰が「犯罪」だという観念が将兵全員からなくなってしまいました。
陸軍上層部は、「体罰はなにより大切な軍の団結を挫き、民間人の軍隊忌避感情を掻き立て、軍を弱くする」「部下には慈愛を持てという軍人勅諭の教えにも反する」「天皇陛下の股肱たる兵を殴るとは何事か」と、体罰が軍にも天皇にも反逆する恐ろしい「犯罪」であることを説いてなんとかやめさせようとしたのですが、誰も聞かなくなってしまったのです。ほとんど全員が関わるようになってくるので、軍法会議も追っつきません。
最後には東條英機陸軍大臣が出てきて、『戦陣訓』で軍紀を正して、強姦や強盗、体罰もやめるように呼び掛けますが、まったく効果がありません。
軍隊経験者でも、体罰が軍に反逆する「犯罪」であることを知らず、軍の正式な制度だと思い込んでいる人が結構います。ほとんどがそうですかね。軍ヲタも、あんまり理解していないんじゃないでしょうか。
海軍も士族出身者しかいなかった創設当初は、お手本であるイギリス海軍流の体罰を導入することに抵抗したようですが、やがて完全なる西洋かぶれとなり果てて、日本の伝統に反する体罰を制度として正式にやるようになりました。
徴兵された一般国民がほとんどで体罰は絶対に受け入れられずに禁止された陸軍とは違い、海軍は極めて少数のためほぼ全員が志願兵で、また海軍に志願する者は西洋的なものに憧れてやってくるので、そういう西洋的な体罰も受け入れたのでした。
「俺を恨むな。恨むなら英国海軍を恨め」(阿川弘之『軍艦長門の生涯』)と云いながら殴ったり、英語で「バッター」と呼んでたり、<精神注入棒>が日本の伝統にはない西洋伝来のものだということは強調されてました。
志願兵だけで一般社会とあまり接点がなかったので、海軍が体罰を受け入れても世の中への影響はなかったのです。
しかし、そんな閉じた組織だった海軍が、戦争末期には肥大化して徴兵された一般人や少年志願兵を大量に迎えるようになって、西洋的な「正しい体罰」を経験させたことは大きかったかも知れません。
戦後はこういう体罰体験をした大勢の若者が社会にあふれ、学校などでも体罰が「犯罪」であるという観念がなくなってしまったわけです。軍隊の影響とは、体罰そのものを覚えたことではなく、日本伝統の正しい善悪の基準が崩壊してしまったところにあるのです。
戦後すぐは、体罰というのは若い教師がやることだということになってまして、軍隊の秩序崩壊を直接経験した世代から価値観が変わったことが判ります。
自由をはき違えたアプレ世代がこういう軍の学級崩壊の「いじめ」である体罰が当たり前だと主張するようになって、戦前のきちんとした規律と伝統を壊してしまったのでした。まともな規律も守れず、日本の伝統に無知蒙昧なる輩がはびこるのはまったく嘆かわしい限りです。
その価値観の転換によって歯止めが無くなり、実際に戦前より戦後は学校内の体罰が激しく日常的になったと云っていいと思います。
日中戦争勃発時に30歳以上で軍隊に行っていない世代が学校でもマスコミでも現役だった昭和30年代くらいまでは、まだ体罰が「犯罪」だという観念は残っていたと思いますが。
なお、師範学校出の<短期現役兵>制度についてですけど、昭和2~14年の制度ではわずか五ヶ月間だけの訓練で伍長となって小学校に帰ってしまい、しかも予備役ではなく第一国民兵役になるので、本土決戦でもやらない限りは軍への再招集も絶対にないという、ものすごい特権でした(空襲の時だけ駆け付ける義務を持つ「防衛召集」の対象になる可能性は後にできた)。
すでに日中戦争も始まって、同世代は戦地に送られてるというのに。
大恐慌の頃に疲弊した農村では給料が何ヶ月も払われず、逆に戦争で好景気になるとほかにいい仕事がいっぱいあるので、これくらいの特権がないと小学校教師のなり手がいないのです。
高等小学校を出たあとに師範学校で5年も勉強するよりも、高等小学校だけ卒業してすぐに就職したほうがいい給料をもらえるんですから。昭和14年にこの制度を廃止したときも、小学校教師志望者がいなくなるのではないかとずいぶん論議になりました。
つまりは実際の戦力になることをまったく期待されていない、たんなる体験入隊のお客さんのようなもので、それでいて一応はエリートの下士官養成で一ヶ月毎にどんどん昇級しますし、平和な内地ですし、体罰とは無縁の軍隊生活だったでしょう。
海軍で五ヶ月間の訓練を受けた人もいるみたいですけど、さすがの海軍も下士官養成コースで、しかもお客さんにイギリス海軍流の体罰を加えたりしましたかね。
このあたりの体験談は読んだことがないので、知りたいところですが。
戦前の教師については、軍隊よりも師範学校の寄宿舎でのいじめのほうが大きい問題だったでしょう。
じつは小学校教師で師範学校出は少数派で、中学や女学校卒、代用教員なんかのほうが二倍くらい多かったんですけどね。
ともかく、戦前の学校では、教師の体罰は絶対悪の「犯罪」だという観念が揺らいだことはないと思います。
生徒同士のリンチは、イギリスのパブリックスクールの伝統をマネようとしたところがありますが、不思議とパブリックスクール流の教師の体罰には生徒も猛反発して、学校も絶対禁止の姿勢を崩しませんでした。
明治時代から法律で禁じられていたので当たり前と云えば当たり前なのですが、いまでも法律はあるんですけどね。
東京高等師範学校の校長を24年も務め、戦前の教育界の元締めだった嘉納治五郎の教育哲学も影響していると思います。
このような体罰を絶対悪として決して赦さない日本の伝統については学者がきちんと説いて、私なんかが出る幕はないと思っていたんですが、誰もまだちゃんとした発言をしておりませんかね。
正しい日本像を日本人全員が共有するためには、私が『戦前は体罰が絶対禁止だった』というような新書の一冊も出しておいたほうがいいんでしょうか。いまはあんまり余裕がないので、できれば他の人にやっておいてもらいたいのですが。
学校と軍隊の両方の体罰について詳しい人というのはあんまりいなさそうでもありますが。
かく云う私も、海軍方面はちと弱い。とくに体罰問題となると、帝国海軍の源流である英国海軍、それも帆船時代まで遡らなくてはならないと思いますが、このあたりは徹底的に弱いというか、知識ゼロです。
一応、以下のようなことは調べましたけど、ここで行き詰まっています。海軍に詳しい方はご教示いただけると幸いです。
朝日新聞昭和54年11月12日夕刊で、作家の宮内寒弥が「旧海軍バッタの由来を訪ねて」という手記を書いてます。戦争末期に徴兵された水兵の宮内さんは毎日<精神注入棒>(バッタ)で殴られたんですが、これを輸入したのは東郷平八郎だという話を確かめるためにイギリス国防省を訪れるのです。
そこの海軍中佐が云うことには、英海軍でも少年水兵を鞭やクリケットバットで殴っていたが、東郷元帥が留学した頃すでにクリケットバットは禁止されていた。パブリックスクールではいまでもクリケットバットでお尻を叩く体罰が残っているので、それを見て影響されたのではないかというのです。
東郷元帥が長期留学から帰った2年後の明治13年に、海軍省が『英国海軍条例』を翻訳していて、国会図書館サイトがアップしているので、こちらで読むことができますが、ご覧のように18歳以下の少年水兵のお尻を鞭で叩く体罰が規定されていて、クリケットバットや、大人の水兵を叩く規定はありません。
こちらの英海軍の体罰についての詳細なる英文サイトでも同様で、イギリス海軍中佐の話は正確なようです。
<精神注入棒>は平べったくてクリケットバットそっくりの形状ですので、パブリックスクールからの影響というのは説得力があります。
東郷元帥はイギリス海軍兵学校への入学は許可されず、商船学校に留学したので、そこでは使われてたのかも知れませんが。
いずれにしても、あくまで少年水兵に対して、軍紀違反への刑罰として艦長や士官など立ち合いのもとに正式にやっていたので、宮内さんのような大人の水兵が毎日のように意味なく殴られたのとはずいぶん違います。
阿川弘之『軍艦長門の生涯』では、第一次大戦後の軍縮で海軍では進級が遅くなって万年二等兵があふれ、この古参兵たちが士官に隠れて腹いせに意味なく殴るようになったと記されていて、ちょうど陸軍が日中戦争泥沼の古参兵ストレスから体罰が蔓延したように、海軍も古参兵ストレスのため大正末辺りから始まったたんなる「いじめ」の新しい現象なのかも知れません。
つまり、海軍では正式な制度としての体罰と、不法な<私的制裁>の二本立てで、戦後に回顧されるのは主にこの犯罪行為である「いじめ」のことらしいのです。米内光政海軍大臣が私的制裁禁止令を出すと、より一層に酷くなったとか。
この当りの切り分けや、時代による変化など、東郷元帥も含めて詳しい方はご教示いただければ。いきなり訪ねてきた外国人に正確な歴史を伝えることのできる英海軍と比べて、どうも日本の軍隊の歴史はあやふやで困ります。
宮内寒弥さんはもう一点、イギリス海軍兵学校のテキストには「下士官兵は動物にして人間に非ず」と明記されているという話を確認することが目的でした。
高塚篤『予科練 甲十三期生』でも先に記されていることで、これが当時の帝国海軍で噂としてあったのか、のちに高塚さんが個人的に耳にしたことなのかよく判らない書き方なんですが、ともかくおふたりとも、この士官は貴族、水兵は平民というイギリス海軍の階級社会意識を帝国海軍士官がそのまま身につけたために、海軍では体罰が横行して、自分たちも酷い目に遭ったと考えています。
実際に階級社会ではないはずの日本の海軍士官が、何故かイギリス貴族になったような妙なエリート意識があって、水兵を見下していたのは確かなことです。宮内さんも海軍についての著作を出すために元士官に取材しようとしても「水兵の分際で生意気千万」と何人にも罵声を浴びせられて拒否されたと云ってます。
ところが、イギリス国防省の海軍中佐は宮内さんにこう答えます。
「それは誤伝であると申し上げるより外ありません。何故なら、わが英国海軍士官の三分の一は、兵から昇進した特務士官でして、貴族出身の士官ばかりではないのですから、そういう人間差別は許されなかった筈なのです」
しかし、英海軍は帝国海軍のように兵から昇進した特務士官を士官と明確に分けて差別してないんでしょうか。イギリス海軍兵学校のテキストとともに詳しい方はご教示いただければ。テキストはたぶん、ウェブにもアップされてるのではないかと思うのですが。
帝国海軍では特務士官だけでなく、大卒の予備学生もあくまで予備士官であって士官とは明確に身分差があるという、陸軍で大卒の幹部候補生が将校だったのとは違う階級差別社会でした。
日本では、兵学校の士官候補生に対しても体罰が横行していたようで、英海軍の士官はどうだったのかも気になります。
つまり、私的制裁とは違う、海軍公式の体罰のほうがよく判らんのですね。<精神注入棒>を目立つところにぶら下げてるのですから、公式の体罰はあったはずなんですが、規定がどうもはっきりしない。
このあたりは英国海軍の帆船時代まで遡らないとけないかと思うのですが、その手の本をちょっと見てみましたが、体罰に関する記述は見つけられませんでした。
文献がありましたらご教示をよろしく。的確なものがなければ、『ホーンブロワー』や『ジャック・オーブリー』などのシリーズで体罰や士官と下士官兵に対する階級意識に関する記述のある場所を教えていただければありがたい。これらは小説ですが、時代考証はしっかりしてるやに聞いております。全部読む時間も気力もありません。
平民の中から貴族に従順な者を引き上げて下士官の下っ端にして殴らせ、怨みはそちらに向け、平民同士でいがみ合わせるという支配構造の道具として体罰を利用したなんてのは考えすぎですかね。
長期間の航海を強いられ、なんせ冷蔵庫もないですから毎日腐ったものを喰わされた帆船時代は、なんらかの叛乱防止システムが必要だったことは確かだと思うのですが。
イギリスはパブリックスクールで貴族の子弟にも体罰を加えますし、海軍だけの問題でもないし、やはり勘ぐりすぎでしょうか。
また、英海軍の実態よりも帝国海軍がどのように考えて受け入れたのかのほうが重要で、なんであんな鼻持ちならない貴族意識ができてしまったのか、経緯をご存じの方はご教示をよろしく。8年も留学して、日本でも英語を使って嫌われた東郷元帥がやはり関わっているんでしょうか。留学と云っても、イギリス海軍兵学校へは入れなかったことが、妙な捻れを生んでるような気がしないでもないですが。
まあ、日本ではラグビーをやってる人たちのように、何故か自分がイギリス貴族になったような妙なエリート意識を持つおかしな人種がいるので、そう不思議でもないかも知れません。
宮内さんは、日本の海軍士官について「鵜の真似する烏」と形容しています。
なお、留学する前に日本の海軍兵学校へ入った東郷元帥は、気に入らない教官を袋叩きにしたりと、日本の伝統的な反逆的学生をやってました。
※教官を殴ってたのは山本権兵衛でした。勘違いしてました。恐縮至極です。
なお、乱暴の限りを尽していた山本らを英国流の体罰で押さえつけようとイギリス海軍少佐の教官が提案しましたが、中牟田倉之助校長は武士である生徒を殴れば日本刀で教官を斬り殺して切腹するだろうと断乎拒否しました。
山本が殴ってた日本人教官や他の生徒も士族出身なんですけどね。生徒が教師や他の生徒を殴るのはよくても、教師が生徒を殴るのは赦されないことだったようです。
戦前の学生が教師を殴りまくっていたことについては、拙著『戦前の少年犯罪』を読んでいただければ。
いずれにしても、体罰が日本の伝統に反する、海外から入ってきたものであることには変わりありません。
「美しい日本を取り戻しましょう」や「戦前の体罰論」も参照していただければ。
上記に記載のない参考文献
『帝国陸海軍事典』大浜徹也 小沢郁郎 編
『日本の海軍』池田清
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