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徽宗皇帝のブログ

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公教育の大事さ
「ネットゲリラ」の「人類の半分は平均以下の知能しかない」というエントリー(と言うのか。私は今まで「スレッド」と思っていた。IT用語というか、ネット用語は未だに分からない。あまり覚える気もないが。)の読者コメントの一部である。
なかなかいい発言だな、と思うのを抜き出したが、いつもは読まない積雲氏の「わざと読めないように書いてある」旧漢字&古文調の妙な文章も、今回は上の「秋霜」氏の文章を何となく読んだ勢いで続けて読んでみるといい内容である。そもそも、秋霜氏も積雲氏と同一人物に思えるが、かりに別人なら、このような「旧漢字、文語体」で書けるソフトでもあるのだろうか。自分の力で書いているなら、なかなかの知識だと思うが、ネットコメントでこのような「わざと他人の理解を拒む」文章を出す意味があるのかどうか、疑問である。
日本人の知能レベルという問題で、「ごんた」氏の「小学生が最初に躓くのが、比例とか割合の概念。小三あたりの学習になるでしょうか」というのは、公教育を問題にする時に、非常に大事な指摘である。私自身も、比例や割合の学習をした時に苦しみ、後の中学高校の数学に悪影響が及んだ記憶がある。私が(多分だが)生来の馬鹿だったわけではなく、子供には比例や割合の概念を理解するのは難しいのだ、ということを「教える側」があまり意識していないのではないか。
なお、算数や数学というのは、「細かいこと(計算など)を正確にする」というのが日本の教育では重視されるが、それよりも、物事を大きく、かつ抽象的に捉えることが、その一番の長所なのではないかと思う。
たとえば、「極限」の概念などはその例だと思う。「1,2,3……」といった数字(数学用語で正確に何と言ったか忘れたww)そのものが、その間にある少数や分数の無限の広がりを捨象しており、あるいはリンゴの1個も皿の1枚も同じ「1」として捉えるという極限的思考の産物であるが、その極限性はあまり意識されない。だが、幾何学などは土台そのものが、物事を極限として捉えているわけだ。世の中には幅の無い線など無いが、その幅をどんどん狭くし、幅がゼロである線が存在するものと仮定して、そこからさまざまな幾何学的な図形が派生してくる。逆に言えば、幅が少しでもあるなら、それは線分ではなく「長方形」として捉えることも可能になる。線分の長さをどんどん短くして、極限に至れば、点になり、線分の幅があると仮定してその幅を広げれば平面になる。その平面に高さが加われば立体になる。つまり、我々が住む、この3次元の世界が出現する。これは幼いころに読んだ手塚治虫の漫画で知ったことである。

日本人がSF小説を好まないのも、大半はその理系的素養が小学校低学年でストップしているからだと思う。(ただ、理解はしていなくても、暗記能力で大学まで行ける人もいる。)私など、小学校で、理科も算数も(ついでに言えば理科や算数ほどではないが社会科も体育も音楽も図工も)大嫌いになったのである。公教育は大事だ。



(以下引用)







小学生が最初に躓くのが、比例とか割合とかの概念。小三あたりの学習になるでしょうか。


アベの頭は、比例とか割合という概念の理解から程遠いだろうから、ヤツに「不正な統計が問題だ」などと指摘しても、ヤツにはスワヒリ語で語られている程度にしか受け止められないわけで、無意味。


首相になる人間には、知能検査と中卒程度の認定試験を義務付けるようにしないと、日本は発展途上国に成り下がる。


アホな国民が、「発展途上首相」を担いでいるのだから、当然と言えば当然か。



このエントリは、非常に重要な問題を提示している。
官僚が霞が関文学で書き上げる法律文書は、平均以上の読解力がある人でも、
理解するには苦労する。 つまり日本国民の50%以上が、法律を正確に理解できず
官僚と政治家 正確には政治屋が仕掛ける罠に、全く気づかずに嵌められ
搾取される構造が完成している。 自分が無知であることを自覚できず、
搾取される奴隷であることも自覚できない。
これがどれ程に危険なことなのか皆わかっているのだろうか?
フランスのイエローベスト革命に、素晴らしく健常な人間性を感じる。
我々は奴隷ではなく人間だ と叫んでいるのだから



 近所の大学院生(工学部)が、論文書くために最近やっとPCを買ったと聞いてびっくり。
 同じく近所の大学生に聞いた話では、学生の大半はタブレットを使っているとか。


 タブレットじゃ文字の入力が面倒だから、億劫になって、しまいには横着をするように
なるんじゃないかしら。
 事実、美しいものを見ても、美味しいものを食べても、怖い思いをしても、「ヤバい」の一言で
済ましてしまうでしょ。
 ラノベのことをとやかく言う人がいるけれど、読んでいるだけ偉いと思います。


 オトナたちは、子どもの将来を思ったら、パソコンを買い与えるべきなんでしょうが、
余裕のない家が多すぎて、そういうのはどうも後回しにされてしまうようですね。


 実家の両親は80オーバーですが、20年以上前に一台ずつパソコンを贈ったところ、
最初は「ムリムリ~」と嫌がっていたのに、いまでは二人とも「PCのない日々は考えられない」といって、
4台目か5台目のパソコンでネットライフを謳歌しています。


パソコンは、家にあれば、大抵の人は使ってみようと思い立ち、すぐに慣れてしまう。
ま、一般家庭でもなかなかパソコンを買えないくらいこの国は貧しくなってしまっているってわけです。



「Cultura animi philosophia est」
ラテン語の格言であり、日本語では「精神を耕すことが哲學である」と云ふ意味を爲す。
精神をcogito、物體をextensaとする二元論的思考に從へば、近現代は懷疑的cogitoを捨象し、萬物をextensaとして抽象化することに意義を見出して來た。その思考形態は技術や社會の發展を加速せしめた事實はあるが、しかし哲學を忘却することに因つて、人間が文明や技術に隷屬するやうな現象が生じてゐる。
人間とは何か。自己とは何か。--社會が頽廃して來てゐる現代こそ、再び精神の省察を要するのではなからうか。



字は讀めても行間を埋める想像力を掻き、個別具體な實例から暗默の前提まで悉く網羅した表現に非ずば發言者の意圖は傳はらない。”理解”に及んだかと思へば自己流で突飛な解釋のまゝ暴走して見せ、認知能力の不全すら垣間見せる。事實は一つであつても解釋は複數成立する等と謂ふ發想は抑も無く、己れの突飛な解釋を唯一の解釋と錯誤、大體事實と解釋の區分すら附かなかつたり。加へて他人の表情や場の空氣も讀めず他人の都合や思惑や感情を勘案する能力を生得的に缺く。さうした發達障礙兒が連投に及ぶを見るにつけ死ねよと本氣で思ふ。







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コメント

1. 無題

いつも混沌堂さんで読ませて頂いてます。
現在の日本の公教育では、比例は6年、割合は5年でここ50年ほど
変わっておりません。

ここに至るまで、引き算で躓く2年生や包含除(わり算の速さのような考え方)の3年で躓くと、あとの物は暗記でしか解りません。

また、国語はファンタジーと戦争は悲惨だという話題で埋められており、およそ物事を考えるようにはなっておりません。その薄っぺらな教科書の文章でさえ、全部を授業で
読むことはありません。忙しいので終わらないそうです。

大人に昔と比べられないように、教科書を大きくして、活字を大きくして『難しいことをおしえてるぞ』感をだしております。

つまり、待つ余裕がないのです。何がそんなに忙しいのか?
価値の多様化、換言すれば些末なことに人生の楽しみがあり、人は様々な楽しみを持つことが、人生を豊かにする事だという洗脳のために、最も人類として大事な考えて答えをだす知恵を訓練する「待つ」ということを教育から放棄したのです。
 入試までにできなければ意味がない
という絶対の真理を唱えて、分からないことは暗記でして、採点者の望む答えを書け、というのがトレンドです。
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