事件の内部にいる場合と外部にいる場合とでは、物事の捉え方がまったく違ってくるものである。内部にいる者の熱気は、外部の者には分からないし、また、外部の人間には分かることが内部にいる者には分からないこともある。つまり、どちらにも認識の枠組みと限界が生じるのである。
沖縄は明日、県知事選の投票日だが、まったくと言っていいほど盛り上がりがない。この選挙の結果は、ある意味では日本の政治の進路に大きな影響を与えかねない重要性を持っているにも関わらず、である。内部にいる人間の大半は、日常の生活に埋没しており、政治に目を向ける心の余裕などないのである。それがまた支配層の狙うところでもあるだろう。民は生かさず殺さず、という状態に置いておくのが、人民を支配するためにはもっとも有効なのである。そう考えると、日本国民の大半が貧困の中にあることは、「彼ら」にとっては好都合だと言える。
さて、以下に引用するのは山崎行太郎氏の「毒蛇山荘日記」から取ったものだが、ここに書かれている「熱気」が、果たして日本国民全体にあるかと言えば、おそらく無い。これは「内部にいる人間」だけが感じている熱気なのである。したがって、この熱気が日本を動かす力になると、そのまま信じるべきではない。長い歳月をかけて作られた既得権益層の支配の網の目は、たやすく変えられるものではないのだ。現実を変える意思を本当に持つ者は、徒労に次ぐ徒労、妨害に次ぐ妨害、犠牲に次ぐ犠牲を覚悟しなければならないのである。場合によっては、自分のみならず、家族の犠牲までも。だが、日本独立運動の動きは確実に動き出してはいる。
(以下引用)
小沢一郎氏のやるべきことは「日本の独立」運動の父となることだ。
昨日は、豊島公会堂で行われた「ネットが変える……」集会に、「月刊日本」副編集長とともに参加してきたが、舞台上にいた民主党の川内博史議員、辻恵議員をはじめ、司会者の小澤遼子氏、飛び入り参加の宮崎学氏等から、一般の観客席を含めて、ほぼ参加者全員が、烈しく菅内閣、仙谷由人官房長官を批判し、それに逆比例するように熱烈な小沢擁護論を展開し、そのあふれるような熱気は、「革命前夜」を思わせるような感じで、圧倒されるほどであった。変われば変わるものである。以前から熱狂的な「小沢ファン」がいなかったわけではないが、しかし今の状況とは決定的に異なる。今や小沢一郎は、マスコミの報道とはまったく逆に、多くの日本国民の圧倒的支持を得ている「国民政治家」に成長しつつあると言っていいと思った。小沢事件は、事件が拡大し、各方面に拡散すればするほど、以前なら想像も出来ないような、たとえばマスコミの問題、検察・裁判の問題、米国支配の問題等、様々な問題を暴露している。もはや小沢問題は、小沢個人の問題のレベルを超えようとしている。つまり政治家・小沢一郎を攻撃し、批判・罵倒すればするほど、小沢一郎を批判・罵倒する陣営の側の病理的実態を暴露しつつあると言うべきだろう。宮崎氏は、小沢問題は新しい段階に移りつつあると分析していたが、僕も同感する。小沢事件は、小沢一郎が有罪か無罪かというような法律や検察の問題の次元を越えて、圧倒的な国民的支持を得た国民政治家・小沢一郎が、何時、どのような形で復活し、反撃に出るかという段階に来ている。つまり、今、政治家・小沢一郎氏が直面しつつある事態とは、法廷で無罪をかちとれるかどうか、民主党内の実権を取り戻せるかどうか、あるいは総理大臣になれるかどうか、というような民主党内部や政界内部の権力闘争問題ではなく、むろんそれも大事な問題であることは言うまでもないが、小沢氏を先頭にして、日本が真の国家的な「独立」を勝ち取るための戦いに、多くの国民と共に立ち上がるかどうかという現実である。
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