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徽宗皇帝のブログ

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原爆と原発
「副島隆彦の学問道場」記事で、副島自身が書いている。非常に興味深い内容で、私も初耳の話もいくつもある。まあ、反原爆運動がやらせだったと書いているが、その理由は書いていない。おそらく、「(原爆の平和利用を口実とした)原発の推進」のためだろう。
つまり、原発というのはもともと容器内で毎日核爆発を起こしている極度に危険な存在なわけで、重大事故も何度も起こっている。それを推進するには、世界的な「原爆から原発へ」の機運が必要だったわけだ。だが、その危険な原発が今でも完全に禁止できないのは、当然それがDSの大きな資金源であり、DSの力は各国政府より強いからだ。

(以下引用)長文で画像も多いので、場合によっては画像をすべてカットする。

「2096」 映画『オッペンハイマー』と第五福竜丸の真実 (第1回・全2回) 2023年11月7日


 副島隆彦です。今日は2023年11月7日です。


 映画『オッペンハイマー(Oppenheimer)』がニューヨークなどで上映されている。しかし、日本ではいつ上映されるか分かりません。まあ、半年以内でしょう。これは原爆(atomic bomb)を開発して、実験成功させたサイエンティスト、物理学者を主人公にした映画だ。このロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer、1904-1967年、62歳で死)という人物の人間像をずっと追いかけている映画です。私はニューズウィークの書評を読んだだけだけど、もう中身が大体わかります。私がこの『オッペンハイマー』の映画の中身をなぞってみてもあまり意味がない。やがて日本人も見れば分かることですからね。

『オッペンハイマー』

ロバート・オッペンハイマー


 日本は原爆を落とされた側の国民です。死者数は、広島が16万人、長崎が8万人ということになっている。それは、広島は8月6日、長崎は8月9日に落とされて年末までの死者の数です。原爆の被害で被爆したことが理由で、白血病とかで死んだ人たちがいる。それは事実です。ところが、100歳を超して今も原爆病院でいっぱい生きている人たちがいる。この問題は隠されていて、言ってはいけないことになっています。被爆したほうが元気になったんじゃないかという説がある。これもタブーで言ってはいけないことになっている。


 私は『オッペンハイマー』の映画の粗筋をあれこれ言うよりも、日本人が知らないけども世界基準で大事なことを言います。オッペンハイマーは、連邦議会の公聴会、パブリック・ヒアリング(public hearing)に呼びつけられて証言させられる訳です。原爆をつくった責任者としてね。1954年4月12日から5月6日までなんです。


 そのとき、オッペンハイマーは「I am become Death, the Destroyer of Worlds」という言葉を使ったんです。この頭文字が大文字の「Death」は、普通の日本人の理解者たちが分かってないんだけど、「死神」と訳さないといけないんです。大抵「私は死である」とか訳しています。大文字のDeathは死神なんです。冠詞の「A」も「The」もありません。「世界を破壊する者となった」と言ったんです。これはヒンドゥー教(Hinduism)の聖典の『バガヴァッド・ギーター(Bhagavad Gita)』の中の言葉で、有名な言葉です。


 オッペンハイマーは、アメリカの原子力委員会のアドバイザリーボードですから一番格が上の顧問、諮問委員会の委員長だったんですが、1954年6月29日に追放されました。そこからは非難の渦で、彼の奥さんも友人たちも共産党員だった。アメリカ共産党、これはCPUSA(Communist Party of the United States of America)というんですが、自分もシカゴ大学のころにアメリカ共産党員たちとつき合っていたということで、簡単に言えば、リベラル派の理想主義者でもあったわけです。これがスキャンダルとして取り上げられた。


 当時、これも日本人が知らなきゃいけないんだけど、「連邦下院非米活動委員会(HUAC、House Committee on Un-American Activities)」という公聴会に呼びつけられてがんがん叩かれる訳です。当時、もう既に1950年代はテレビがありますから、アメリカ国民はその議会の公聴会の様子をテレビで見ていて非難の嵐が起きた。その一部として原爆をつくったオッペンハイマーたちも激しい批判の嵐を受けたんですよ。


 この映画は、相当きれいごとでできているようです。それだけ叩かれた、社会的には抹殺されて失脚したはずのこのロバート・オッペンハイマーが、9年後、1963年に、リンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson、1908-1973年、64歳で死)大統領からエンリコ・フェルミ賞を受賞している。名誉回復したということです。このシーンが恐らくこの映画で強調されている。だから、ロバート・オッペンハイマーは、アメリカ国家にとって大変重要な仕事をしたというところで、大きな和解ができたということになっている。

授賞式の様子


 私もこのオッペンハイマーに同情する左翼(社会主義者)の側の人間ですから、何十年もオッペンハイマーは偉い人だと思っていた。今もそうなんだけど。要するに、原爆をつくって広島、長崎に落とした後、人類に対してこれからも、自分は巨大な犯罪者なんじゃないかという激しい苦しみになった訳です。当時はatomic bomb(原爆)、今はnuclear bomb(核兵器)と言いますが、これのつくった人間としての強い責任を感じて、大きな罪を背負って苦しんだ人として今も評価されている訳です。


 でも同時に、大きな世界政治の渦の中で学者として生きた。その学者とは何なんだといったら、まず量子力学(quantum mechanics)と初期は言いました。今はquantum physicsで量子物理学といいます。これはquantumの研究は、今は物理学者たち、理論物理学者たちがやっています。最先端でね。
6Gの通信機械はもう量子コンピュータ(quantum computer)であると言われています。今日はこの量子コンピュータの激しい世界的開発競争の話はしません。簡単に言えば、台湾のTSMCと、韓国のサムスンと、アメリカのインテルだけが最先端でロジック半導体をつくれる。それを日本も追いかけるという感じです。これが更に進むと、どうしても量子コンピュータの開発が量産して、商業用の機械に、電気製品や通信機器に組み込まれる問題になります。その話はもういいです。


 私が日本国民に巨大な真実として伝えなきゃいけないのは、オッペンハイマーが、アメリカ原子力委員会から追放という、アメリカ連邦議会の決定に遭った6月29日よりも早く、1954年3月にアメリカがマーシャル諸島の中のビキニ環礁で水爆実験を行ったのは有名な話なんです。これは第3回実験なんです。そこで第五福竜丸という50トンぐらいのマグロ漁船が死の灰をたくさん浴びたと。その灰を浴びながら一生懸命逃げ帰ってきて、焼津に着いた。そしたら、ガイガーカウンターで放射線量の高いのが出たと言って大騒ぎになったんです。

水爆実験

第五福竜丸


 でもそれは、読売新聞がスクープしたのが3月16日です。そして、不思議なことに、5月9日から杉並の主婦たちが騒ぎ出した。反原水爆を要求する抗議運動が沸き起こったと。そして、9月23日に、この第五福竜丸の無線長ということになっているけど、20名くらい乗っている船の無線担当の久保山愛吉(くぼやまあいきち、1914-1954年、40歳で死)が死亡した。これでまた大騒ぎになりました。

久保山愛吉


 だから、広島、長崎に原爆が落ちてから9年後ですね。その間は騒ぐどころの騒ぎじゃない。広島、長崎の現場は傷だらけの血だらけで、焼け野原のところから人々は生き延びていく訳ですから。ぼろ小屋建てて商売始めて生産活動をやってね。軍隊は解散ですから全部消滅して、進駐軍の米軍やほかの連合国軍たちが来ている訳です。生き延びるのに必死だった。それでも原爆投下から9年後に原爆反対運動が起こる訳です。


 はっきり言います。これは全部やらせだったんです。日本人で知っている人は私以外いません。誰も言いません。ここがちょうどオッペンハイマーがアメリカで1954年6月29日に原子力委員会から追放されて大騒ぎと同じ時なんです。ここを見逃したら世界史の真実が分かったことにならないんですよ。

署名を集計する杉並の主婦たち


 不思議なことに、この1954年4月10日に、アメリカ政府が原発をつくる計画を発表しました。続けて6月30日に、ソ連も原発を開発すると声明を出しているのね。全て同じ時期なんです。次の年にはもう原子力発電所、原発が動き出しているんです。その前の年、1953年12月8日に、ドワイト・アイゼンハワー(Dwight Eisenhower、1890-1969年、78歳で死)大統領が「アトムズ・フォー・ピース(Atoms for Peace)」いう演説を国連でやっています。これは「平和のための原子力」という意味なんだけど。「原子力の平和利用」とも言われます。


 だから、ここの複雑構造を日本人は甘く見ちゃいけないんです。つまり、原水爆反対運動が日本国内で計画的に沸き起こらされたんです。と同時に、全く同じときに原発の開発をするという問題が起きて。日本では1961年かな、茨城県の東海村に、実験用10万ワットの最初の原子炉を、技術も何もイギリスのゼネラル・エレクトリック・カンパニー(General Electric Company、GEC)製を持ってきて動かし始めました。

東海発電所


 そのときに、読売新聞の社主だった正力松太郎(しょうりきまつたろう、Ⅰ885-1969年、84歳で死)という人が日本側の担当者として動いたんです。これは佐野眞一の『巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』という本にずっと細かく書いています。正力松太郎が跡継ぎを息子に譲らないで、渡邉恒雄(わたなべつねお、1926年-、97歳)に読売新聞をその後譲ったんです。アメリカの大きな意向というか計画に従って正力が動いた。だから、正力松太郎が原子力の平和利用の路線にも乗っかっている訳です。

正力松太郎

渡邉恒雄


 東海村の原発は1960年1月に着工で、5月に臨界実験成功か。ということは、商業用の原子炉ができたということです。そしてこれが、1998年3月31日に、もうあまりにも古いのでといって停止になっています。いや、廃止ですね。ところが、東海村には第二原発というのがあって、これは今も動いているはずです。


 私が、この第五福竜丸事件というのは全部仕組まれていて、やらせなんだということもはっきり言います。ということは、日本の反原爆運動というのは何なんだと。一から十まで全部操られたんです。このことを日本の知識人階級が今自覚しないと大変なことになるんだよ。杉並の主婦たちが騒ぎ出したって、訳が分からない。その次の年、1955年9月19日に、原水協(原水爆禁止日本協議会)というのがさっさとできているんです。これは日本共産党系です。


 その中でごたごた議論になりまして、10年後に原水禁(原水爆禁止日本国民会議)が団体として分裂したんです。これが日本社会党系なんです。その後もずっと原水協(共産党系)と原水禁(社会党系)は今も分裂したままです。これも、じゃソビエトや中国の核兵器に対してどういう態度をとるかで、共産党系が最初のころは「やむを得ないんだ」という態度でした。アメリカ帝国主義の核兵器と戦う、対立するためにはやむを得ない理論を唱えていたもんで、「全ての原爆、今の核兵器は廃止すべきだ」と主張している原水禁との大きな対立になって。対立し合っているだけで実態は何の意味もありません。大きな意味ではやらせなんですよ。


 だから、日本の知識人はそろそろ本気で考え直さないと。全て大きく操られているんだということを知るべきなんです。さっき言ったように、1953年12月8日、アイゼンハワー大統領が「Atoms for Peace(原子力の平和利用)」と言ったわけでしょう。このときからもう話はでき上がっているんですよ。ということは、オッペンハイマー博士がいじめられるという話も大きな流れの中ではストーリーなんです。


 なぜなら、これも日本の知識人層は私以外知らないんだけど、本当に原爆を最初につくったのは、ドイツの理論物理学者、量子物理学者であり、これが原子力工学の創業者と言ってもいいヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg、1901-1976年、74歳で死)です。このハイゼンベルクという人が一番頭がよかったし、理論物理学者として最高級の人材だったんです。ハイゼンベルクとその周りにいたドイツ人の科学者ですけど、サイエンティストだけど技術者でもあるわけで、彼らが500人ぐらいでナチス政権のもとで原爆をつくったんですよ。

ヴェルナー・ハイゼンベルク


 細かいことはもう言いませんよ。私が分かる訳がない。ただ、ウラン238が235になるときに巨大なエネルギーが生まれるということは分かる。核分裂のことをnuclear fissionというんです。そして、最近騒がれている核融合というのは、内部に向かって爆縮するんですけど、太陽が毎日光っているのは、あの熱は核融合と言われています。これはnuclear fusionといいます。ようやく私も分かったけど、原爆と水爆とどう違うんだよといったら、わかんなかったの。簡単に言うと、水爆というのは核融合の話ですね。それに対して、いわゆる原爆(atomic bomb)は核分裂(nuclear fission)なんです。


 そして、もっとはっきり言うと、1945年8月6日にエノラ・ゲイ号というB-29の爆撃機で広島に落とされた原爆は、ウラン型と言われています。これはまさしくドイツ人のハイゼンベルクたちがつくった原爆なんです。その3日後の8月9日に長崎に落とされたのは、プルトニウム型と言われています。

広島型(ウラン)と長崎型(プルトニウム)


 これは、まさしくアメリカ人たちがつくったものです。マンハッタン計画というのが1942年からある。それは、レオ・シラード(Leo Szilard、1898-1964年、66歳で死)というハンガリー系のユダヤ人の学者とアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein、1879-1955年、76歳で死)が手紙を書いて、フランクリン・D・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、1882-1945年、63歳で死)大統領に、ドイツが原爆をつくりつつあると教えたんです。これでは戦争の勝敗がひっくり返される。だからアメリカも原爆をつくるべきだという手紙なんです。これはこれまでにNHKなんかでも何回も手紙そのものが映されたりして報道されています。だからアインシュタインも悪いやつだったんだという評価もちゃんとあるんです。

アインシュタインとシラード

アインシュタインの手紙


 話があちこち行くけども、戦後、1955年7月9日に、アインシュタインとバートランド・ラッセル(Bertrand Russell、1872-1970年、97歳で死)というイギリスの哲学者たちがパグウォッシュ会議(Pugwash Conferences)という会議を開いて、そこで原水爆戦争の悲惨さを人類は回避することが必要だと、人類の滅亡にかかわると言って宣言を出したんです。これに日本の湯川秀樹(ゆかわひでき、1907-1981年、74歳で死)も署名しているんだけど、これはラッセル=アインシュタイン宣言と言われています。これが原水爆禁止の始まりです。1955年です。

バートランド・ラッセルとアインシュタイン

第1回パグウォッシュ会議(1957年)


 この辺のことを考えてごらんなさい。全部でき上がっているんですよ。何が正義で何が悪とか、正しい・間違いとか、いい人・悪い人とかそんな単純な問題じゃないんだよ。大きな意味じゃ全部仕組まれています。私はもう70歳まで生きてきて、政治知識人、政治思想や歴史やいろんな学問をやったけれども、もう騙されるのが嫌なんだ。自分の脳が騙されるんだ。何でもかんでもきれいな物語にしたり、善と悪の戦いみたいな話で、悪の側に対する憎しみをたくさん持ったりする。この仕組みは変わらないんだけど、この骨格はね。


 それでも全部仕組まれていたんだというふうに思うと、日本国民の知識層を中心に、もうちょっと頭よくならないとこの複雑構造は解けないんだ。単純な頭で自民党は悪(わる)だとか、自分たち民衆、人民の側に立っている人間のほうがすぐれているんだという。私も一応そういうことを言っていることになっているんだけども、そんな甘いもんじゃないんだ。


もっと本当のことを言うと、実は、マンハッタン計画というとニューヨークのマンハッタンみたいだけど、実際はシカゴ大学なんです。シカゴ大学の敷地に今もサイクロトロン、高速加速器の巨大なのがあるの。シカゴ大学の連中が中心なんです。


 そしてもっと言うと、実は戦争に負けた後、ドイツから連れてこられた恐らく200人ぐらいの技術者たちがつくったんですよ、本当の原爆は。これをこの「オッペンハイマー」という映画も一切言わないことになっている。ドイツ語をしゃべっていたんだそうです。どこでだよといったら、シカゴ大学は理論的な研究所で、実際原爆をつくっていたのはロスアラモス(Los Alamos)というところで、ニューメキシコ州だから砂漠のところにある。その南の砂漠一帯で原爆実験をやって、ピカッ、ドカンとキノコ雲の小さいのが出て、それを見ているアメリカ軍の兵士たちの写真とかがあるんですよ。

核実験とアメリカ兵


 このオッペンハイマーとレスリー・グローブス(Leslie Richard Groves Jr.、1896-1970年、73歳で死)という大将が軍人部門ではホワイトハウス、大統領直属で、この原爆をつくる計画の責任者ですが、グローブスとオッペンハイマーが2人並んで写っている。これは破壊させた中心地の場所なんです。ここで直径3メートルぐらいの大きな玉なんですけど、鋼鉄の玉が爆発した跡なんです。こういうのも真実なんです。

グローブスとオッペンハイマー


 こういう帽子をいつもかぶっている。これはアインシュタインと話している。同じ帽子。きっと映画はこれで出てきます。同じ中折れ帽をかぶっている。

アインシュタインとオッペンハイマー(映画のシーン)


 だから、これはニューメキシコ州のロスアラモス研究所でつくった。あとは、カリフォルニアのサンフランシスコの郊外に、今もローレンス・リバモア研究所というのがあります。これが今も核技術の開発をやっているのね。そこの中国人の技術者たちが技術を泥棒したといってよく捕まったりします。ローレンス・リバモア研は戦後ずっと後ですね。


 原爆をつくるところまではオッペンハイマーたちがロスアラモスの研究所ですね。そこでつくっていたのはドイツ人たちなんです。残り200人ぐらいがソ連に連れていかれたらしい。そしてソ連の原爆もこのドイツ人の技術者たちがつくったんです。ソ連の原爆実験成功はもうちょっと後です。ソ連が核実験に成功したのは1949年9月23日だ。ということは、アメリカよりも4年おくれているんです。それもトルーマンが発表したんです。どうも実験やって成功したようだと。そしたらソ連もその後認めた。


 でもね、さらにこれも巨大な真実なんだけど、どうやらアメリカからソ連に原爆をつくるための部品が秘密に、ひそかにどんどん輸送されていたらしい。それはデイビッド・ロックフェラー(David Rockefeller、1915-2017年、101歳)たち財閥がかかわっているんです。許可を出しているんです。どんどん部品がソ連に渡っているんです。


 だからそのときに、オッペンハイマーたちは共産主義者だと言ってぶったたかれた理由の一つが、ソ連に技術をいっぱい渡していたと言われている。これは一部分が真実です。大変なことなんです。これを書いているconspiracy theorist、権力者共同謀議がある理論の理論家たちがいます。


 忘れていたけど、高橋五郎(たかはしごろう、1940-2017年、77歳で死)という人がいて、私は何回かお会いした。あの人を私の学問道場に呼んでお話しさせておけばよかった。死んじゃいましたけど。この人はNHKのドキュメンタリーづくりにも参加していている。

高橋五郎


 スパイのアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ(Ángel Alcázar de Velasco、1909-2001年、92歳)という人がいて、これはアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler、1889-1945年、56歳で死)が、総統、今は首相、ベルリンの首相官邸地下壕でエヴァ・ブラウン(Eva Braun、1912-1945年、33歳で死)と服毒自殺したその前の日までいたというんです。スペイン人なんです。だけどスペイン人の軍人であり、スパイですね。スペイン人はカトリックですから、ナチスの幹部たち、将軍とかをどんどん南米に逃す運動をやっていた。スペイン人だから南米語、スペイン語をしゃべれるから、その受け渡しを一緒にやったカトリックの神父たちがいるんです。

スパイ・ベラスコ


 高橋五郎が最初に、15年ぐらい前に私に、原爆はドイツのアイゼンベルグがつくって、それがアメリカに渡って、それでテニアン島という島に持ってきて、そこから広島、長崎に投下したと暴露した。もっと言うと、その高橋五郎の本が出ているんです。大きな本が2冊ある。直接、高橋五郎が言ったけど、私も自分で調べたんだけど、どうも真実だ。


 もうベルリン陥落の3カ月ぐらい前かな、ドイツ陸軍というか軍人たちはヒトラーを支える気がなくなっている。それでもう動かなかったんです、特に陸軍は。兵舎というか師団本部の中にみんな立てこもってね。ベルリンのそこをアメリカ軍は素通りしていくんです。


 ヒトラーを一生懸命最後まで支えたのは空軍なんです。空軍のローベルト・リッター・フォン・グライム(Robert Ritter von Greim、1892-1945年、52歳で死)という偉い将軍がいた。あとは海軍で、例のUボートというけど、アメリカやイギリスの輸送船団をたくさん撃沈した恐ろしい潜水艦を指揮していた有名なカール・デーニッツ(ドイツ語 : Karl Dönitz、1891-1980年、89歳で死)という提督がいます。だから、主に空軍が最後までヒトラーを支えたの。ヒトラーの暗殺事件にかかわって、ドイツ最大の陸軍の元帥のロンメル元帥は処刑できないから、毒の入ったワインを飲んで死んだ。そうすると、ほかのドイツの軍人たちもやる気をなくした。で、ハイゼンベルクがつくった原爆を渡したんです。

ローベルト・リッター・フォン・グライム

カール・デーニッツ


 高橋五郎も言っていたけど、尼さんたちがドイツ軍に捕まっていて、フランス人かな、それを解放するのと引きかえに、捕虜になっているドイツ軍人を返したということにして、トラックでハイゼンベルクたちがつくった原爆が、だから広島ウラン型原爆が米軍の手に入ったんだと。ブラッドレー将軍にね。それがワシントンに送られたんです。


 もう原爆研究は1942年から始まっているけど、それは1945年1月ぐらいでしょう。それで、実験が成功したのは7月ですからね。もう次の月には広島に落とした訳です。だから、ドイツ人がつくったんですよ。ここは非常に大事な真実でね。今も誰にも教えないことになっています。副島隆彦が日本知識人として、これは当たり前の真実ですからね、もういいかげんにしろよと。日本ではタブーになっていて、言わないことになっています。


 ただ、最後の一点、できなかったのは、重水というのがないのね。heavy waterというんだけど、重水素、水素です。これは、当時はノルウェーの山奥の発電所みたいなところなんだけど、ヴェモルクという発電所なんです。テレマルクのあたりでしか採れなかった。そこで激戦、激しい戦闘が行われて、重水の奪い合いをやっているんです。テレマルクというのは映画になっているんです。その「テレマークの要塞(The Heroes of Telemark)」(1965年)という映画の重要性をわかっている日本人はいません。ドイツ側が重水を手に入れていたら原爆が完成していたと言われています。だから、ハイゼンベルクたちは重水が手に入らなかった。

テレマルク水力発電所


 あとはUボートでアフリカの南、喜望峰をぐるっと回って日本に渡すという原爆の計画があるの。重水までは入っている訳はないけど、それを仁科芳雄(にしなよしお、1890-1951年、60歳で死)たちが受け取る予定だった。それも途中でインド洋に入ったところでそれ以上進めないということになって、Uボートに乗っていた日本の将校たちは、そのUボートの中で自決している。原爆の大事な部品なのに日本にもう運べなかったと。そういう話があるんです。だから、私が本気でこれらの重要な事実を教えなきゃいけないんだ。


(つづく)


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