社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1048935972.html
<転載開始>
【原発という化石的な産業技術にしがみつく原子力村の時代錯誤と,その狂信的な原発利用の観念態様】
名嘉幸照『 “福島原発” ある技術者の証言』(光文社,2014年3月)を読んだ。YouTube にはこの名嘉が登場するドイツZDF(Zweites Deutsches Fernsehen,第2ドイツテレビ)
の番組『フクシマの嘘』が大きな反響を呼び,国際エミー賞にノミネートされた(251-252頁)。
① 原発産業は完全に時代遅れの「化石化した産業」である
この本の第3章「事故処理の現場と政府・東電」のなかに,こういう段落・叙述がある。
本ブログ内で実は,2015年12月11日に主題・副題をこう表現する記述をおこなっていた。
◇-0 主題 「櫻井よしこを旗手に原発に無知な人たちが時代錯誤の化石的思考で再稼働を訴える意見広告」
◇-1 副題:その1 「この人たちは,原発という物理・科学的な魔術的装置,その「悪魔性=人間の手・技術では扱いえない超技術的な困難さ・宇宙空間的な特性」を,まったく判っていない」
◇-2 副題:その2 「東電福島第1原子力発電所事故現場の始末にさえ,あと何十年以上かかるか誰にも分かりえない時分に,この人たちは原発(とくに高速増殖炉「もんじゅ」)を再稼働させろと声高に叫んでいる。恐ろしいほどの時代錯誤である」
◇-3 副題:その3 「この人たちは本当に,国民・市民・住民・庶民など,この地球の上に生活している者たちの『平和と安全』を考慮しているつもりか? 歴史への反動的な形成者の役割だけは存分に果たせることに気づかないまま,われわれのこの日本:地球に「不幸せ」を配達するつもりか?」
さらにさかのぼると,2015年04月18日にはこういう主題・副題の記述もおこなっていた。
◇-0 主題 「原子力村構成員がいまどきつぶやく誤論,原発はこれからも25%も必要だという珍迷説」
◇-1 副題:その1 「耐用年数60年にしてでも原発を稼働させろという『危険きわまりない』狂気の発想による原発推進論】
◇-2 副題:その2 「自動車で60年乗りつづけられたら,これはクラシック・カーである。『趣味で中古車に乗る』のと『原発の60年もの稼働』の問題をいっしょくたにする議論は『愚の骨頂』」
② 名嘉幸照『 “福島原発” ある技術者の証言』2014年の書評
この本から筆者なりに関心のもてた箇所・段落を引用・参照するよりも,すでにアマゾンに出ているブック・レビュー4編を紹介することで,てっとり早い理解ができる。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
1)「原発に40年間真摯に向き合った原発技術者の声」(投稿者 油断大敵,2014年6月6日。★ 5つ)
原発技術者の著者が,原子力発電所にかかわわる人材の劣化や原発技術に対する後ろ向きの姿勢に,懸念をもちはじめた経緯が書かれている。原子力の未来を信じ,現場で技術を積み上げてきた沖縄出身の著者は,GEの原子力技術者から転身,福島で一生を過ごすことを決心し,東電福島原発で協力会社を立ち上げ40年間原子力技術者として生きてきた。
その著者の原発に対するスタンスが,1990年ころを境に変わったという。それは,東電の変質を肌で感じたからだ。著者は東電に改革を提言してきたが,2002年に,その東電で「原発トラブル隠し」が表面化する。
東電は原発を推進するために「原発は安全」という嘘を強調しつづけなくてはならず,その結果,なんでもかんでも隠すことが普通の体質になってしまったという。その後,東電の一部では体質改善の動きもみえはじめたが,著者の危機感に反しその努力は,遅々として進まなかったと振りかえる。
なぜ,福島第1原発事故が発生したのかを著者の目線で分析する。「残念ながら,1990年の少し前から,私のみるかぎり,原発の現場力は明らかに低下していった。いつの間にか日本の原発は『化石産業』になってしまったと私は思う。技術の革新,イノベーションにとにかく後ろ向きなのだ」。
「どうしてこうなったのか。根底にあるのは……リスクをとることを躊躇する姿勢だ。監督官庁も同じだ。原発の安全神話を守ろうという意識。失敗は許されない 「減点主義」 がはびこる日本の会社や官僚の風潮。なにより,現場を知らないリアル感覚のなさ……」。
さらに,原発技術についての特異性と現在の原発が抱える問題点についても述べる。「そもそも日本人に原発をもつ資質があったのか。……一方向だけをみて,都合の悪いことは切り捨てる,排除する,みないようにする。原発についても,自由に意見交換をしたり討論をしたりできない,独特の雰囲気をつくってしまった。これが大きな間違いだった」。
補注)この反原発派に対する原子力ムラ側の抑圧態勢,それも支配体制側として周知に準備・構築された堅固なそれは,原発の稼働そのものに反対する意見や思想に対しては徹底的な弾圧といえるような抑えこみに成功してきた。しかし,この成功は「3・11」の東電福島第1の原発事故によって大失敗に転化する。
しかしまた,最近における原発再稼働への動向は,原子力という核燃料=悪魔のエネルギーを飼い慣らしえていない原子力ムラの勢力(政・官・財・学・マスコミ)が,今世紀に記録されるべき原発の大事故に遭遇させられても,まだ『懲りない面々』の利害集団として生きのびている実情を教えている。
〔ブックレビュー本文に戻る→〕 3・11直後,福島原発事故に関して正確な情報が入らないなか,外国のプレスが日本で原発事故に関して正確な情報を得ようとした相手が本書の著者だ。ドイツの公共放送(ZDF:Zweites Deutsches Fernsehen,第2ドイツテレビ)やスイス放送協会,ニューヨーク・タイムズ等も著者(名嘉幸照)に取材をしている。
私も,NHKの報道番組で著者が原発事故に真摯に向きあう姿をみて,こういったプロフェッショナルがいたからこそ,私を含め多くの人たちが原発事故の被害から免(まぬが)れたのではないかと思えた。
2)「福島への愛情に溢れる本だった」(投稿者 BQN,2014年6月9日。★ 4つ)
私は2011年東電原発事故から1年後,関東から沖縄に移住しました。2014年3月の琉球新報フォーラムで名嘉さんのお話を聞く機会があり,真摯に語る様子が印象深く著作を手にとりました。
沖縄生まれの名嘉さんがアメリカ船籍の船乗りを経てGEの技術者として新しいエネルギー産業の黎明期に携わった誇りと熱気,現場管理のプロフェッショナルとしての実績は立派です。
私が沖縄で暮らしたせいもあるかもしれませんが,名嘉さんの言葉は裏表なくとても分かりやすく,すっと読めました。事故プラントの収束に命をかけた地元の若い社員のこと,事故を起こしてしまったことへの痛切な悔恨,原発周辺地域の未来像などは,長年原発立地に根を張って生きてきた名嘉さんならではの部分だと思いました。
ただ,長年原発内の特殊な環境で放射能と共存して仕事をされてきた方なので,原発外に漏れてしまった放射性物質の被ばく防護に関して参考になる部分はほとんどありませんでした。
3)「原発は発展途上の技術だった」(投稿者哲郎,2015年6月17日。★ 5つ)
原発導入時のGE( EBASCO )の設計図書は間違いだらけだった。運転実績のないプラントを導入したばかりだったので,初期故障がしばしばおこった。福島第一・1号機のステンレスパイプの応力腐食割れ,2号機の炉心異常事故,福島第二・3号機の再循環ポンプ事故。
そういうなか,初めはGEのエンジニアとして,のちにはメンテナンス会社社長として,福島で働いた現場技術者の「機械は壊れるもの」といい切る直言。1990年ごろから初期故障が落ち着くにつれ,仕事が定型化し,組織が官僚的になってきたという。
その矢先に大震災の直撃を受け,非常時統制機能の欠如が如実に表われた。困難な現状について熱い忠言を呈する福島のいまを支える人。
4)「原発構内業者のエンジニア / 経営者による体験談」(投稿者Amazon Customer,2015年2月5日。★ 5つ)
作業員 “ハッピー” 氏の体験談を読んだあと,やはりもう少し技術的な内容をしりたく思っていた。あれこれ物色していたら,打ってつけの本が出版されていた。四方八方に気配りをしながら,しかし本質的な内容も織りこみ,出版に漕ぎつけたものであり感心した。
“絶対安全” の原子力ムラのど真中に居て「機械は壊れるもの!」という,当たり前の現実に対応して来た40年間に敬服する。
--以上の感想文のなかには名嘉幸照が指摘するように,信頼性工学の見地でみれば「初期故障」が終わり,安定期に入ったのが1990年代だという説明があった。この点に注目して次段の記述に進む。
③ 信頼性工学
1)信頼性工学はなにを説明するのか
信頼性工学(Reliability Engineering)は,「故障」という品質を扱う学問である。扱っているのは,機械や道具の品質である。この学問は,機械や道具を作っているメーカーには大きく関係する学問といえる。また,たとえば材料を作っているメーカーでは,材料を作るための設備の品質を考えるための学問として, 信頼性工学が関係している。
信頼性工学は,故障の話から始まるが, 故障すれば人の生命にかかわってくることもある(原発ではその可能性が非常に大である)。経営に打撃を与えることにもなるゆえ(東電はどうであったか?),リスクの分野にも関連が生じる(「安全神話」の倒錯性)。 また,当初は機械や道具の学問だったようであるが,現在はコンピュータ・システムの信頼性も扱っている。
要するに「信頼性」とは,「故障しない性質」と「故障しても修理が容易な性質(保全性)」を合わせて信頼性だといっていい。
『バスタブ曲線』を説明する。故障は「初期(多いが徐々に減少)→中期(ないわけではないが安定的に低めに維持)⇒後期(だんだん増加)」に分けられる。
a) 「初期の故障」の原因は欠陥が多く,時間軸に対して減少傾向を示す。
b) 中期は安定期とも呼ばれ,故障は偶発的な原因が多い。
c) 後期の故障は寿命とも呼ばれ,材料の消耗であることが多く,時間軸に対して増加傾向となる。
以上の「初期→中期⇒後期の故障」をグラフにすると,ちょうど浴槽(バスタブ)の断面図のようになる。そこで「バスタブ曲線」と呼ばれている。
註記)http://heartland.geocities.jp/ecodata222/ed/edj2-2-4.html
そこで,このバスタブ曲線の実例を,以下に3つ挙げて参照してみたい。はたして,原発のバスタブ曲線はどのような年月をたどって「初期→中期⇒後期の故障」変化していくのか。ものがものだけに,大事故にならないような「この信頼性」特性を慎重に考慮した,ふだんからの保守・点検作業の厳格な実施,およびそのための管理・運営体制の整備・充実が前提条件になる。
◆-1 自動車点検に想定される「バスタブ曲線」
出所)http://www.tsuge.co.jp/basutabu2.htm
◆-2 バスタブ曲線と許容率
出所)http://par.mcr.muroran-it.ac.jp/~ohkama/2007comp2/lec2/lec2/node54.html
◆-3 ハードディスクの故障率
出所)http://ameblo.jp/pcroom123/entry-11489932602.html
ところが「安全神話」が一方的・専断的に唱えていたのは,なにか?
それは,「『故障しない性質』と『故障しても修理が容易な性質(保全性)』を合わせて信頼性だ」と定義されているはずの信頼性工学の基本原理を,原子力村利害共同体諸集団による政治的な力学によって,強引にねじ曲げておいたうえで,
さらに『故障しない性質』であるのが「原子力発電という機械・装置」なのだと,絶対的に《勝手に決めつける観念》を,強大な経済力(=政治力・宣伝力)に頼って世間に流通させてきた。
いうなれば,実質的には〈暴力的な世論操作〉によってなのだが,反原発(脱原発)を議論し主張する立場からの批判・異論・対話を,完璧といいほどに徹頭徹尾,無視し,圧殺し,排除することに成功していた。
だが,実際の記録をたどると,原発の歴史に事故,それも信頼性を疑わせる危ない事故がたびたび起きていた〔起こしていた〕。にもかかわらず,「技術の論理」とは意図的に引き離した次元における,すなわち,その依拠する「論理性=信頼性工学」とは異なった「経済営利の理屈」だけを最優先させ,この信頼性工学側における『学問的に真実である根本原理』に対する全面的な否定の姿勢さえをも,平然と高唱できる電力会社の経営政策をまかり通らせていた。
補注)ここではとくに「原発事故] 日本の原発事故カレンダー」を参照しておきたい。この原発事故カレンダーは詳細な記録は避け,主なその事故を列記してある。
2)プラントの寿命から考える原発という施設
東洋エンジニアリングのホームページに「プラント寿命延長サービス」という解説が出ている。その概要のうちから,つぎのような文章を引用しておく。
一般的なプラントの寿命は20年だと指摘されていた。原発の場合,原子力をあつかう特殊な機械・装置である原子炉の寿命が問題となる。その寿命は,何十と何年に決めておけば,適切な期間に設定されているといえるのか?
原発の耐用年数は20年だとも聞く。これは一般的なプラントの期間に同じである。実例としては,30年の使用期間で廃炉にされた原発もある。ところが,日本では40年間も稼働させ,さらに20年間も延長させるもくろみが声高に主張されている。つぎの文章は火力発電装置に関する説明であるが,原発の場合にあってはこれをどのように応用して考えればよいのか。
ましてや,原子炉の爆発事故を起こした原発は,この核燃料の問題じたいがかかわってくる事態を伴うものゆえ,とてつもない手間と暇をかけて,後始末をしなければばならなくなる。この事実はまさに,チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)とともに東電福島第1原発事故(2011年3月11日)が,いまもなお継続的に嫌というほどに実証させられている点である。
一般的な化学プラントが爆発事故を起こし,物理・化学的な有害物質をまき散らした現場とも,まったく異相,雲泥の差がある深刻・重大な結果を,原発の事故は招来させている。
④ む す び
名嘉幸照『 “福島原発” ある技術者の証言』2014年は,こうも語っている。
a) 原発事故は,福島から将来の希望を奪っているようにみえる。福島第1原発で起きた複合的なメルトダウンは,人類にとっていわば,初めての体験である。ことばはいささか過激になるが,ある種の「戦争」にぶち当たったと考えないといけない。
「敵」は生きている。まだ,やりこめていないのだから,こちらが油断すると,再び暴れ回る可能性がある。われわれは,破壊された原子炉のなかでいま,起きている事態をコントロールできているわけではない。
補注)その「敵」は悪魔に等しい存在だと,本ブログは表現してきた。その悪魔をコントロールできるのは,この悪魔の仲間しかいない。人間は悪魔を真似することはできても,悪魔そのものにはなれない。悪魔の退治は悪魔にしかできない。
出所)左側画像は既出,右側画像は http://oekakiart.moo.jp/rogu/honki/html/001912.html
だから,童話『桃太郎』の要領で,鬼ヶ島の人びとを苦しめる鬼を桃太郎が退治できたように,人間の世界で起きてしまった原発事故という悪魔の横暴を人間の側が鎮めることは,とうてい不可能である。
〔名護幸照の本文引用に戻る→〕 戦争になぞらえれば,福島第1原発は,まさにフロントオペレーション,前線基地だ。前線基地でもっとも大切なのは,いうまでもなく士気。モチベーションだ。まだ,戦争が終わる前から,そこから逃げ出したいという弱気が顔を出したら,勝てる戦いも勝てなくなってしまう(196-197頁)。
b) そもそも,事故そのものが最終的に幕を下ろすまで,具体的にいえば,現在の1~4号機の不安定な状態を解消し,破壊された原子炉を廃炉にするまで,どれくらいの年月がかかるかも定かではない。
それほどまでに困難な仕事。長期にわたる営み。さきのみえない手かがりの挑戦を,東京電力だけに任せておいていいはずがない。国も関与を強めつつあるが,まだまだ足りない。日本のゆくすえをきめる一大事と腹を決め,覚悟を固め,国がもっと前面に出て,最善を手を打つべきではないか(199頁)。
c) 原発は巨大になり過ぎた。人間のスケールをはるかに超えた。人との距離は広がる一方だった。私のようなことをしている若い原発技術者は,もういない。そもそも日本人に原発をもつ資質があったのか。最近,そんなことを考えたりする。
一方向だけをみて,都合の悪いことは切り捨てる,排除する,みないようにする。原発についても,自由に意見交換をしたり,討論をしたりできない,独特の雰囲気をつくってしまった。これが大きな間違いであった。
戦後,民主主義の国として再生し,基本的人権や知る権利を保障した憲法を手にしたのに,日本の根幹となるエネルギー政策について,知る権利を阻んだ。基本的人権を考慮すれば,しらせねばならないことを,あえてしらせなかった(236-237頁)。
d) 原子力の関係者でつくるインナーサークル,いわゆる「原子力ムラ」にとじこもったのもいけなかった。たしかに「ムラ」の住民同士だと,話が通じやすい面はある。しかし,その反面,「原子力ムラ」は異論の許されない社会でもある。異論のない社会は間違いなく停滞する。歴史を振りかえると,そんな例は枚挙にいとまがない(238頁)。
福島ではこれから,原発事故の収束,廃炉に向けての作業が延々と続く(240頁)。
名嘉幸照はこのように,東電福島第1原発事故現場に関して,「廃炉の工程」〔の開始〕までには到達していない事実,その前に「原発事故の収束」が前提条件として,まだ厳在する事実を指摘していた。
今後も依然,「廃炉の工程」に入る前の段階における,原発事故現場の「後始末」のための「作業が延々と続く」覚悟をしてかからねばならない。それが,いまも変わらぬ「事故現場の現状:〈現実の事態〉」である。
⑤ 補説:その1-「運転期間40年制限」撤廃論-
日本保全学会運転期間40年制限問題検討分科会が公表・提示している『我国の原子力発電所の運転期間40年制限問題に関する規制上の課題と提言』(平成27年2月4日)は,原発の最長使用年限に関して〈無限〉とも受けとれそうな見解を披露している。だがこれは,屁理屈の域を出ない暴論であるほかない「運転期間40年制限」撤廃論を,それでも意気軒昂に主張している。こう弁論している。
信頼性工学の見地で判断すれば,いくら原発を維持・管理する技術が安全性を高められるといっても,しょせん老朽化していく装置・機械に対する「科学技術的に,あるいは経済性で決定されるべきものである」という判断の方法は,根幹より狂っているとしかいいようがない。
というのは「科学技術的に,あるいは経済性で決定されるべきものである」という叙述内容は,科学技術と経済性とが関連している問題両面を,不均等ながらにでもなお故意に,無理やり等置させた話法である。
けれども,日本の原発の利用状況においてはひたすら,「経済性を最優先する稼働」が意図され実行されてきた。さらに,諸外国の原発稼働の問題を,とりわけ地震多発国であるこの日本と同じに議論する方途じたいが,見当違いの主張である。東日本大震災:「3・11」時の東電福島第1原発大事故の記憶など,すでに完全に喪失したに等しい詭弁が高揚されている。
その文書〔テキスト文書版にくわえてパワ・ポ版も準備〕は,ともかく原発稼働推進だけを強引に主張している。原発は「熱効率が依然,3分の1」の出力しかない機械・装置であり,その技術特性でいえば《時代遅れの発電方法》であるにもかかわらず,依然そのようなアナクロ的な原発エネルギー推進論が堅持されている。
要は「電気を作るためだけの原発なのに,本当に原子力が燃料として必要なのか,よく考えてみるべきである」。
出所)画像は,http://topicks.jp/2475 某社のテレビコマーシャルに登場するブラックスワン。
とりわけ「原発はブラック・スワンが潜んでいる」という本質的な問題を抱えている。ブラック・スワンとは,マーケット(市場)において事前にほとんど予想できず,起きたときの衝撃が大きい事象のことをいう。これを原発に当てはめていえば,「事前にはほとんど予測できず,起きたときの被害が大きい事故」を指すことになる。
しかし,「3・11」の東日本大震災のために惹起された東電福島第1原発の大事故が「ほとんど予測できなかった」とはいえない。その「やる気さあれば」逆になりえていたのであって,大事故は起こさずに済んでいたかもしれない。それにしても,このブラック・スワンに相当するなにものかが,原発事故に関しても存在しており,「3・11」のさいには「盛んに飛び回っている事態」になっていたわけである。
⑥ 補説:その2-熱効率の向上がない原子力発電装置の仕組-
1)原発事故の恐ろしさ
1979年3月28日,スリーマイル島のPWR炉の炉心溶融事故が発生した。1986年4月26日,チェルノブイリ型黒鉛減速チャンネル型炉の暴走による蒸気爆発事故で,半径300km以内の住民は移住を余儀なくされた。
原子炉事故は,原爆のような多量の中性子を放射するような核爆発は生じないため,事故時の死者は多くはない。しかし,チェルノブイリ事故が明らかにしれたように,原子炉のなかに蓄積しているトン単位に達する放射性物質の数%が放出されただけで10の 5~7乗キューリーの放射能が撒き散らされ,1平方キロ当たり15キューリ以上の汚染地帯には長期間住めなくなった。
原発に事故が発生し放射能が拡散すると,広大な面積が居住不可となり恐ろしい事態を迎える。そのように認識した米国では,原発の建設がストップした。 ヨーロッパ,とくにドイツでは原発を段階的に廃棄することに決めた。
しかし,日本ではいったん開発路線が定まると方針の転換はなく,1996年まで継続し,電力需要の伸びが止まったとき,ようやく新規建設が停止した。こうして原発依存率が35%となっていた。日本で使われたロジックは,チェルノブイリ型とは別の方式という理由であるが,これは短絡的理由である。
結果として休日の最低需要の場合,原発出力が需要を上回る事態になった。電力会社は原発を一定に稼動させるために揚水発電を増設し,このコンビネーションで出力一定運転を確保していた。
2)電力の需給関係を無視した原発増設
世界の工場たる地位も中国に譲った日本は,製造拠点の海外展開と省エネ努力もあって,電力需要増がなくなっており,負荷調整のできない原発建設の理由がみつからない。
出所)左側画像は『日本経済新聞』2015年3月19日朝刊,野村浩二「〈経済教室〉2030年の電源構成(下)」。
このため,原発の稼働率が技術的な問題や地震により60%代に低下しても,電力不足にはなっていなかった。にもかかわらず,なぜか日本では,2005年閣議決定の原子力大綱をもって,電力の30~40%以上を原発でまかなうとしていた。
さて,資源量がR / P=85年程度(最近100になった)しかないウラン235は,ウラン中に99.3%含有されている。核分裂しないウラン238をプルトニウム239に変換して約60倍にしようというのが高速増殖炉である。
1995年に高速増殖炉もんじゅの事故があり,1998年フランスの高速増殖炉スーパーフェニックス計画が中止され,すべての先進民主主義国が増殖計画を放棄したというのに,日本では高速増殖炉と燃料再処理の開発計画は継続されてきた。
補注)現在までロシアのみが高速増殖炉の実験的な展開にまで至っているが,まだ実用化できていない。いずれにせよ,いつごろこの高速増殖炉が商業化できるかの見通しはついていない。
米国では燃料の再処理はせず,ワンスルーで廃棄処分にする方針で,最終処分場がみつからないという理由で,軽水炉で生成するプルトニウムやマイナー・アクチニドを高速炉で焼却して減量することを模索している。
高速中性子照射で雑多な放射性廃棄物をプルトニウムに変換できることに着目し,再生処理工程を簡略化できるという理由でもって,増殖目的ではないが同じ高速炉でも日本とはまったく逆であり,増殖を目的としないで焼却を目的としている。このところは正反対である。
2008年発表の「長期エネルギー需給見通し」で原発と火力新設に4.7兆円使うとしていた。2008年のサミット前にまとめた自民党の案では,2020年までに9基の原発を運転開始するとしていた。 2010年に民主党政権になっても,まだ14基建設するとの方針は変えていなかった。
3)熱効率の改善なし,それを上げられない原発
東大の原子力工学科では水蒸気圧を臨界圧以上に上げ,熱効率を向上させる軽水炉の研究をしている。だが,これはグローバル・ビューに欠けた単視眼的な発想としか思えない。
註記)以上 1)2)3)は,http://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/biblodata/globalheating/globalheating5.htm
原発の熱効率の問題点については,小出裕章がこう説明している。
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1048935972.html
<転載開始>
【原発という化石的な産業技術にしがみつく原子力村の時代錯誤と,その狂信的な原発利用の観念態様】
名嘉幸照『 “福島原発” ある技術者の証言』(光文社,2014年3月)を読んだ。YouTube にはこの名嘉が登場するドイツZDF(Zweites Deutsches Fernsehen,第2ドイツテレビ)
の番組『フクシマの嘘』が大きな反響を呼び,国際エミー賞にノミネートされた(251-252頁)。
出所)https://www.youtube.com/watch?v=ln9A4wHteiU
① 原発産業は完全に時代遅れの「化石化した産業」である
この本の第3章「事故処理の現場と政府・東電」のなかに,こういう段落・叙述がある。
原子力発言といえば,多くの人は再申請の技術をこらしたプラントを思い描くだろう。たしかに,かつては最新の技術でピカピカの原子炉がつくられた。ところが,いつの間にか日本の原発は「化石産業」になってしまったと私は思う。技術の改革,イノベーションにとにかく後ろ向きなのだ(178頁)。この発言を聞いて,原発の現場で働き,とくに東電福島第1原発で下請け会社を経営してきた名嘉幸照によるこの指摘=批判には,本ブログ筆者も同意するものである。
本ブログ内で実は,2015年12月11日に主題・副題をこう表現する記述をおこなっていた。
◇-0 主題 「櫻井よしこを旗手に原発に無知な人たちが時代錯誤の化石的思考で再稼働を訴える意見広告」
◇-1 副題:その1 「この人たちは,原発という物理・科学的な魔術的装置,その「悪魔性=人間の手・技術では扱いえない超技術的な困難さ・宇宙空間的な特性」を,まったく判っていない」
◇-2 副題:その2 「東電福島第1原子力発電所事故現場の始末にさえ,あと何十年以上かかるか誰にも分かりえない時分に,この人たちは原発(とくに高速増殖炉「もんじゅ」)を再稼働させろと声高に叫んでいる。恐ろしいほどの時代錯誤である」
◇-3 副題:その3 「この人たちは本当に,国民・市民・住民・庶民など,この地球の上に生活している者たちの『平和と安全』を考慮しているつもりか? 歴史への反動的な形成者の役割だけは存分に果たせることに気づかないまま,われわれのこの日本:地球に「不幸せ」を配達するつもりか?」
出所)https://www.youtube.com/watch?v=vD8Jha1Ddqc
東京電力福島第1原子力発電所3号機の破損状況。
東京電力福島第1原子力発電所3号機の破損状況。
さらにさかのぼると,2015年04月18日にはこういう主題・副題の記述もおこなっていた。
◇-0 主題 「原子力村構成員がいまどきつぶやく誤論,原発はこれからも25%も必要だという珍迷説」
◇-1 副題:その1 「耐用年数60年にしてでも原発を稼働させろという『危険きわまりない』狂気の発想による原発推進論】
◇-2 副題:その2 「自動車で60年乗りつづけられたら,これはクラシック・カーである。『趣味で中古車に乗る』のと『原発の60年もの稼働』の問題をいっしょくたにする議論は『愚の骨頂』」
② 名嘉幸照『 “福島原発” ある技術者の証言』2014年の書評
この本から筆者なりに関心のもてた箇所・段落を引用・参照するよりも,すでにアマゾンに出ているブック・レビュー4編を紹介することで,てっとり早い理解ができる。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
1)「原発に40年間真摯に向き合った原発技術者の声」(投稿者 油断大敵,2014年6月6日。★ 5つ)
原発技術者の著者が,原子力発電所にかかわわる人材の劣化や原発技術に対する後ろ向きの姿勢に,懸念をもちはじめた経緯が書かれている。原子力の未来を信じ,現場で技術を積み上げてきた沖縄出身の著者は,GEの原子力技術者から転身,福島で一生を過ごすことを決心し,東電福島原発で協力会社を立ち上げ40年間原子力技術者として生きてきた。
その著者の原発に対するスタンスが,1990年ころを境に変わったという。それは,東電の変質を肌で感じたからだ。著者は東電に改革を提言してきたが,2002年に,その東電で「原発トラブル隠し」が表面化する。
東電は原発を推進するために「原発は安全」という嘘を強調しつづけなくてはならず,その結果,なんでもかんでも隠すことが普通の体質になってしまったという。その後,東電の一部では体質改善の動きもみえはじめたが,著者の危機感に反しその努力は,遅々として進まなかったと振りかえる。
なぜ,福島第1原発事故が発生したのかを著者の目線で分析する。「残念ながら,1990年の少し前から,私のみるかぎり,原発の現場力は明らかに低下していった。いつの間にか日本の原発は『化石産業』になってしまったと私は思う。技術の革新,イノベーションにとにかく後ろ向きなのだ」。
「どうしてこうなったのか。根底にあるのは……リスクをとることを躊躇する姿勢だ。監督官庁も同じだ。原発の安全神話を守ろうという意識。失敗は許されない 「減点主義」 がはびこる日本の会社や官僚の風潮。なにより,現場を知らないリアル感覚のなさ……」。
さらに,原発技術についての特異性と現在の原発が抱える問題点についても述べる。「そもそも日本人に原発をもつ資質があったのか。……一方向だけをみて,都合の悪いことは切り捨てる,排除する,みないようにする。原発についても,自由に意見交換をしたり討論をしたりできない,独特の雰囲気をつくってしまった。これが大きな間違いだった」。
補注)この反原発派に対する原子力ムラ側の抑圧態勢,それも支配体制側として周知に準備・構築された堅固なそれは,原発の稼働そのものに反対する意見や思想に対しては徹底的な弾圧といえるような抑えこみに成功してきた。しかし,この成功は「3・11」の東電福島第1の原発事故によって大失敗に転化する。
しかしまた,最近における原発再稼働への動向は,原子力という核燃料=悪魔のエネルギーを飼い慣らしえていない原子力ムラの勢力(政・官・財・学・マスコミ)が,今世紀に記録されるべき原発の大事故に遭遇させられても,まだ『懲りない面々』の利害集団として生きのびている実情を教えている。
〔ブックレビュー本文に戻る→〕 3・11直後,福島原発事故に関して正確な情報が入らないなか,外国のプレスが日本で原発事故に関して正確な情報を得ようとした相手が本書の著者だ。ドイツの公共放送(ZDF:Zweites Deutsches Fernsehen,第2ドイツテレビ)やスイス放送協会,ニューヨーク・タイムズ等も著者(名嘉幸照)に取材をしている。
私も,NHKの報道番組で著者が原発事故に真摯に向きあう姿をみて,こういったプロフェッショナルがいたからこそ,私を含め多くの人たちが原発事故の被害から免(まぬが)れたのではないかと思えた。
2)「福島への愛情に溢れる本だった」(投稿者 BQN,2014年6月9日。★ 4つ)
私は2011年東電原発事故から1年後,関東から沖縄に移住しました。2014年3月の琉球新報フォーラムで名嘉さんのお話を聞く機会があり,真摯に語る様子が印象深く著作を手にとりました。
沖縄生まれの名嘉さんがアメリカ船籍の船乗りを経てGEの技術者として新しいエネルギー産業の黎明期に携わった誇りと熱気,現場管理のプロフェッショナルとしての実績は立派です。
私が沖縄で暮らしたせいもあるかもしれませんが,名嘉さんの言葉は裏表なくとても分かりやすく,すっと読めました。事故プラントの収束に命をかけた地元の若い社員のこと,事故を起こしてしまったことへの痛切な悔恨,原発周辺地域の未来像などは,長年原発立地に根を張って生きてきた名嘉さんならではの部分だと思いました。
ただ,長年原発内の特殊な環境で放射能と共存して仕事をされてきた方なので,原発外に漏れてしまった放射性物質の被ばく防護に関して参考になる部分はほとんどありませんでした。
3)「原発は発展途上の技術だった」(投稿者哲郎,2015年6月17日。★ 5つ)
原発導入時のGE( EBASCO )の設計図書は間違いだらけだった。運転実績のないプラントを導入したばかりだったので,初期故障がしばしばおこった。福島第一・1号機のステンレスパイプの応力腐食割れ,2号機の炉心異常事故,福島第二・3号機の再循環ポンプ事故。
そういうなか,初めはGEのエンジニアとして,のちにはメンテナンス会社社長として,福島で働いた現場技術者の「機械は壊れるもの」といい切る直言。1990年ごろから初期故障が落ち着くにつれ,仕事が定型化し,組織が官僚的になってきたという。
その矢先に大震災の直撃を受け,非常時統制機能の欠如が如実に表われた。困難な現状について熱い忠言を呈する福島のいまを支える人。
4)「原発構内業者のエンジニア / 経営者による体験談」(投稿者Amazon Customer,2015年2月5日。★ 5つ)
作業員 “ハッピー” 氏の体験談を読んだあと,やはりもう少し技術的な内容をしりたく思っていた。あれこれ物色していたら,打ってつけの本が出版されていた。四方八方に気配りをしながら,しかし本質的な内容も織りこみ,出版に漕ぎつけたものであり感心した。
“絶対安全” の原子力ムラのど真中に居て「機械は壊れるもの!」という,当たり前の現実に対応して来た40年間に敬服する。
--以上の感想文のなかには名嘉幸照が指摘するように,信頼性工学の見地でみれば「初期故障」が終わり,安定期に入ったのが1990年代だという説明があった。この点に注目して次段の記述に進む。
③ 信頼性工学
1)信頼性工学はなにを説明するのか
信頼性工学(Reliability Engineering)は,「故障」という品質を扱う学問である。扱っているのは,機械や道具の品質である。この学問は,機械や道具を作っているメーカーには大きく関係する学問といえる。また,たとえば材料を作っているメーカーでは,材料を作るための設備の品質を考えるための学問として, 信頼性工学が関係している。
信頼性工学は,故障の話から始まるが, 故障すれば人の生命にかかわってくることもある(原発ではその可能性が非常に大である)。経営に打撃を与えることにもなるゆえ(東電はどうであったか?),リスクの分野にも関連が生じる(「安全神話」の倒錯性)。 また,当初は機械や道具の学問だったようであるが,現在はコンピュータ・システムの信頼性も扱っている。
要するに「信頼性」とは,「故障しない性質」と「故障しても修理が容易な性質(保全性)」を合わせて信頼性だといっていい。
『バスタブ曲線』を説明する。故障は「初期(多いが徐々に減少)→中期(ないわけではないが安定的に低めに維持)⇒後期(だんだん増加)」に分けられる。
a) 「初期の故障」の原因は欠陥が多く,時間軸に対して減少傾向を示す。
b) 中期は安定期とも呼ばれ,故障は偶発的な原因が多い。
c) 後期の故障は寿命とも呼ばれ,材料の消耗であることが多く,時間軸に対して増加傾向となる。
以上の「初期→中期⇒後期の故障」をグラフにすると,ちょうど浴槽(バスタブ)の断面図のようになる。そこで「バスタブ曲線」と呼ばれている。
註記)http://heartland.geocities.jp/ecodata222/ed/edj2-2-4.html
そこで,このバスタブ曲線の実例を,以下に3つ挙げて参照してみたい。はたして,原発のバスタブ曲線はどのような年月をたどって「初期→中期⇒後期の故障」変化していくのか。ものがものだけに,大事故にならないような「この信頼性」特性を慎重に考慮した,ふだんからの保守・点検作業の厳格な実施,およびそのための管理・運営体制の整備・充実が前提条件になる。
◆-1 自動車点検に想定される「バスタブ曲線」
出所)http://www.tsuge.co.jp/basutabu2.htm
◆-2 バスタブ曲線と許容率
出所)http://par.mcr.muroran-it.ac.jp/~ohkama/2007comp2/lec2/lec2/node54.html
◆-3 ハードディスクの故障率
出所)http://ameblo.jp/pcroom123/entry-11489932602.html
ところが「安全神話」が一方的・専断的に唱えていたのは,なにか?
それは,「『故障しない性質』と『故障しても修理が容易な性質(保全性)』を合わせて信頼性だ」と定義されているはずの信頼性工学の基本原理を,原子力村利害共同体諸集団による政治的な力学によって,強引にねじ曲げておいたうえで,
さらに『故障しない性質』であるのが「原子力発電という機械・装置」なのだと,絶対的に《勝手に決めつける観念》を,強大な経済力(=政治力・宣伝力)に頼って世間に流通させてきた。
いうなれば,実質的には〈暴力的な世論操作〉によってなのだが,反原発(脱原発)を議論し主張する立場からの批判・異論・対話を,完璧といいほどに徹頭徹尾,無視し,圧殺し,排除することに成功していた。
だが,実際の記録をたどると,原発の歴史に事故,それも信頼性を疑わせる危ない事故がたびたび起きていた〔起こしていた〕。にもかかわらず,「技術の論理」とは意図的に引き離した次元における,すなわち,その依拠する「論理性=信頼性工学」とは異なった「経済営利の理屈」だけを最優先させ,この信頼性工学側における『学問的に真実である根本原理』に対する全面的な否定の姿勢さえをも,平然と高唱できる電力会社の経営政策をまかり通らせていた。
補注)ここではとくに「原発事故] 日本の原発事故カレンダー」を参照しておきたい。この原発事故カレンダーは詳細な記録は避け,主なその事故を列記してある。
2)プラントの寿命から考える原発という施設
東洋エンジニアリングのホームページに「プラント寿命延長サービス」という解説が出ている。その概要のうちから,つぎのような文章を引用しておく。
「総合エンジニアリング力をベースとし,ライフサイクルコスト最小の観点で,老朽設備の寿命延長サービスを提供します」。この事例は,一般的なプラントに関する余寿命診断をとりあげている。それでは,原発の場合だとしたら,その具体的な説明はどうなるのか?
「プラント延命プロジェクト背景」「目的」として,たとえば「あと数年で設計寿命(20年)を迎えるプラントに対し,さらに20年間操業期間を延長したい」ので,「プロセス性能の達成と安定操業の継続」を「限られた予算と期間で最大の効用をうる」……,という具合に記述がなされている。
そしてさらに「機器更新プランの例」については,「余寿命診断の結果,かなりの機器・配管について交換の必要性がないことが判明」するとして,延命プロジェクトの結果,「低コスト且つ短期間に,安全性を確保したプラントの寿命延長を実現」するために,「肉厚測定対象機器の絞込み。プラント全体の約30%の機器,配管を検査対象として選定」したうえで,「余寿命評価を行い,プラント寿命延長の基本計画を作成」すると説明されている。
この〈仮説の事例〉と関しては,「基本計画では,直ちに交換が推奨される塔槽類は存在しなかった。一方,配管は全体の10%程度のボリュームを交換することが推奨された」と説明されてもいる。
註記)http://www.toyo-eng.com/jp/ja/products/oandm/extention/
一般的なプラントの寿命は20年だと指摘されていた。原発の場合,原子力をあつかう特殊な機械・装置である原子炉の寿命が問題となる。その寿命は,何十と何年に決めておけば,適切な期間に設定されているといえるのか?
原発の耐用年数は20年だとも聞く。これは一般的なプラントの期間に同じである。実例としては,30年の使用期間で廃炉にされた原発もある。ところが,日本では40年間も稼働させ,さらに20年間も延長させるもくろみが声高に主張されている。つぎの文章は火力発電装置に関する説明であるが,原発の場合にあってはこれをどのように応用して考えればよいのか。
火力プラントへは各種の余寿命診断法が適用されているが,さらにその高度化が必要である。原発を廃炉処理していくための作業工程では,放射性物質の汚染の問題が特殊要因として,その作業に負荷される。ほかのプラントとは,定性的な基本要因からして,大きく相違する問題に対面させられる。
そのためには,損傷に関する評価データベースの構築,損傷の非破壊計測のハードウェアの開発と高精度化等の基本的な技術課題の解決を図る必要がある。
さらに,各々の手法の特徴を活かした余寿命診断システムの体系化も進めなければならない。また,的確な余寿命診断や経済性評価の基づく長寿命化のための規格・指針も強く要望される。
註記)田村広治「火力発電プラントの余寿命診断技術」『溶接学会誌』第65巻第2号,1996年3月,35頁。
ましてや,原子炉の爆発事故を起こした原発は,この核燃料の問題じたいがかかわってくる事態を伴うものゆえ,とてつもない手間と暇をかけて,後始末をしなければばならなくなる。この事実はまさに,チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)とともに東電福島第1原発事故(2011年3月11日)が,いまもなお継続的に嫌というほどに実証させられている点である。
一般的な化学プラントが爆発事故を起こし,物理・化学的な有害物質をまき散らした現場とも,まったく異相,雲泥の差がある深刻・重大な結果を,原発の事故は招来させている。
④ む す び
名嘉幸照『 “福島原発” ある技術者の証言』2014年は,こうも語っている。
a) 原発事故は,福島から将来の希望を奪っているようにみえる。福島第1原発で起きた複合的なメルトダウンは,人類にとっていわば,初めての体験である。ことばはいささか過激になるが,ある種の「戦争」にぶち当たったと考えないといけない。
「敵」は生きている。まだ,やりこめていないのだから,こちらが油断すると,再び暴れ回る可能性がある。われわれは,破壊された原子炉のなかでいま,起きている事態をコントロールできているわけではない。
補注)その「敵」は悪魔に等しい存在だと,本ブログは表現してきた。その悪魔をコントロールできるのは,この悪魔の仲間しかいない。人間は悪魔を真似することはできても,悪魔そのものにはなれない。悪魔の退治は悪魔にしかできない。
出所)左側画像は既出,右側画像は http://oekakiart.moo.jp/rogu/honki/html/001912.html
だから,童話『桃太郎』の要領で,鬼ヶ島の人びとを苦しめる鬼を桃太郎が退治できたように,人間の世界で起きてしまった原発事故という悪魔の横暴を人間の側が鎮めることは,とうてい不可能である。
〔名護幸照の本文引用に戻る→〕 戦争になぞらえれば,福島第1原発は,まさにフロントオペレーション,前線基地だ。前線基地でもっとも大切なのは,いうまでもなく士気。モチベーションだ。まだ,戦争が終わる前から,そこから逃げ出したいという弱気が顔を出したら,勝てる戦いも勝てなくなってしまう(196-197頁)。
b) そもそも,事故そのものが最終的に幕を下ろすまで,具体的にいえば,現在の1~4号機の不安定な状態を解消し,破壊された原子炉を廃炉にするまで,どれくらいの年月がかかるかも定かではない。
それほどまでに困難な仕事。長期にわたる営み。さきのみえない手かがりの挑戦を,東京電力だけに任せておいていいはずがない。国も関与を強めつつあるが,まだまだ足りない。日本のゆくすえをきめる一大事と腹を決め,覚悟を固め,国がもっと前面に出て,最善を手を打つべきではないか(199頁)。
c) 原発は巨大になり過ぎた。人間のスケールをはるかに超えた。人との距離は広がる一方だった。私のようなことをしている若い原発技術者は,もういない。そもそも日本人に原発をもつ資質があったのか。最近,そんなことを考えたりする。
一方向だけをみて,都合の悪いことは切り捨てる,排除する,みないようにする。原発についても,自由に意見交換をしたり,討論をしたりできない,独特の雰囲気をつくってしまった。これが大きな間違いであった。
戦後,民主主義の国として再生し,基本的人権や知る権利を保障した憲法を手にしたのに,日本の根幹となるエネルギー政策について,知る権利を阻んだ。基本的人権を考慮すれば,しらせねばならないことを,あえてしらせなかった(236-237頁)。
d) 原子力の関係者でつくるインナーサークル,いわゆる「原子力ムラ」にとじこもったのもいけなかった。たしかに「ムラ」の住民同士だと,話が通じやすい面はある。しかし,その反面,「原子力ムラ」は異論の許されない社会でもある。異論のない社会は間違いなく停滞する。歴史を振りかえると,そんな例は枚挙にいとまがない(238頁)。
福島ではこれから,原発事故の収束,廃炉に向けての作業が延々と続く(240頁)。
出所)http://financegreenwatch.org/jp/?p=45992(画面 クリックで 拡大・可)
名嘉幸照はこのように,東電福島第1原発事故現場に関して,「廃炉の工程」〔の開始〕までには到達していない事実,その前に「原発事故の収束」が前提条件として,まだ厳在する事実を指摘していた。
今後も依然,「廃炉の工程」に入る前の段階における,原発事故現場の「後始末」のための「作業が延々と続く」覚悟をしてかからねばならない。それが,いまも変わらぬ「事故現場の現状:〈現実の事態〉」である。
⑤ 補説:その1-「運転期間40年制限」撤廃論-
日本保全学会運転期間40年制限問題検討分科会が公表・提示している『我国の原子力発電所の運転期間40年制限問題に関する規制上の課題と提言』(平成27年2月4日)は,原発の最長使用年限に関して〈無限〉とも受けとれそうな見解を披露している。だがこれは,屁理屈の域を出ない暴論であるほかない「運転期間40年制限」撤廃論を,それでも意気軒昂に主張している。こう弁論している。
「40年」にはまったく科学的,技術的根拠のなく,政治的に決定されたものである。本来,産業設備の寿命は科学技術的に,あるいは経済性で決定されるべきものである。このような政治的に決定された運転期間40年制限は,むしろ原子力発電所の安全性を低下させることに繋がり兼ねない。また一方で優良な我国の資産を活用することを妨げ,それによって生じる負荷を国民に押し付けることにもなり兼ねない。この主張のなかでもとくに,「政治的に決定された運転期間40年制限は,むしろ原子力発電所の安全性を低下させることに繋がり兼ねない」と主張する点は,詭弁そのものである。
註記)http://www.jsm.or.jp/jsm/at/sll_report.html
信頼性工学の見地で判断すれば,いくら原発を維持・管理する技術が安全性を高められるといっても,しょせん老朽化していく装置・機械に対する「科学技術的に,あるいは経済性で決定されるべきものである」という判断の方法は,根幹より狂っているとしかいいようがない。
というのは「科学技術的に,あるいは経済性で決定されるべきものである」という叙述内容は,科学技術と経済性とが関連している問題両面を,不均等ながらにでもなお故意に,無理やり等置させた話法である。
けれども,日本の原発の利用状況においてはひたすら,「経済性を最優先する稼働」が意図され実行されてきた。さらに,諸外国の原発稼働の問題を,とりわけ地震多発国であるこの日本と同じに議論する方途じたいが,見当違いの主張である。東日本大震災:「3・11」時の東電福島第1原発大事故の記憶など,すでに完全に喪失したに等しい詭弁が高揚されている。
その文書〔テキスト文書版にくわえてパワ・ポ版も準備〕は,ともかく原発稼働推進だけを強引に主張している。原発は「熱効率が依然,3分の1」の出力しかない機械・装置であり,その技術特性でいえば《時代遅れの発電方法》であるにもかかわらず,依然そのようなアナクロ的な原発エネルギー推進論が堅持されている。
要は「電気を作るためだけの原発なのに,本当に原子力が燃料として必要なのか,よく考えてみるべきである」。
出所)画像は,http://topicks.jp/2475 某社のテレビコマーシャルに登場するブラックスワン。
とりわけ「原発はブラック・スワンが潜んでいる」という本質的な問題を抱えている。ブラック・スワンとは,マーケット(市場)において事前にほとんど予想できず,起きたときの衝撃が大きい事象のことをいう。これを原発に当てはめていえば,「事前にはほとんど予測できず,起きたときの被害が大きい事故」を指すことになる。
しかし,「3・11」の東日本大震災のために惹起された東電福島第1原発の大事故が「ほとんど予測できなかった」とはいえない。その「やる気さあれば」逆になりえていたのであって,大事故は起こさずに済んでいたかもしれない。それにしても,このブラック・スワンに相当するなにものかが,原発事故に関しても存在しており,「3・11」のさいには「盛んに飛び回っている事態」になっていたわけである。
⑥ 補説:その2-熱効率の向上がない原子力発電装置の仕組-
1)原発事故の恐ろしさ
1979年3月28日,スリーマイル島のPWR炉の炉心溶融事故が発生した。1986年4月26日,チェルノブイリ型黒鉛減速チャンネル型炉の暴走による蒸気爆発事故で,半径300km以内の住民は移住を余儀なくされた。
原子炉事故は,原爆のような多量の中性子を放射するような核爆発は生じないため,事故時の死者は多くはない。しかし,チェルノブイリ事故が明らかにしれたように,原子炉のなかに蓄積しているトン単位に達する放射性物質の数%が放出されただけで10の 5~7乗キューリーの放射能が撒き散らされ,1平方キロ当たり15キューリ以上の汚染地帯には長期間住めなくなった。
原発に事故が発生し放射能が拡散すると,広大な面積が居住不可となり恐ろしい事態を迎える。そのように認識した米国では,原発の建設がストップした。 ヨーロッパ,とくにドイツでは原発を段階的に廃棄することに決めた。
しかし,日本ではいったん開発路線が定まると方針の転換はなく,1996年まで継続し,電力需要の伸びが止まったとき,ようやく新規建設が停止した。こうして原発依存率が35%となっていた。日本で使われたロジックは,チェルノブイリ型とは別の方式という理由であるが,これは短絡的理由である。
結果として休日の最低需要の場合,原発出力が需要を上回る事態になった。電力会社は原発を一定に稼動させるために揚水発電を増設し,このコンビネーションで出力一定運転を確保していた。
2)電力の需給関係を無視した原発増設
世界の工場たる地位も中国に譲った日本は,製造拠点の海外展開と省エネ努力もあって,電力需要増がなくなっており,負荷調整のできない原発建設の理由がみつからない。
出所)左側画像は『日本経済新聞』2015年3月19日朝刊,野村浩二「〈経済教室〉2030年の電源構成(下)」。
このため,原発の稼働率が技術的な問題や地震により60%代に低下しても,電力不足にはなっていなかった。にもかかわらず,なぜか日本では,2005年閣議決定の原子力大綱をもって,電力の30~40%以上を原発でまかなうとしていた。
さて,資源量がR / P=85年程度(最近100になった)しかないウラン235は,ウラン中に99.3%含有されている。核分裂しないウラン238をプルトニウム239に変換して約60倍にしようというのが高速増殖炉である。
1995年に高速増殖炉もんじゅの事故があり,1998年フランスの高速増殖炉スーパーフェニックス計画が中止され,すべての先進民主主義国が増殖計画を放棄したというのに,日本では高速増殖炉と燃料再処理の開発計画は継続されてきた。
補注)現在までロシアのみが高速増殖炉の実験的な展開にまで至っているが,まだ実用化できていない。いずれにせよ,いつごろこの高速増殖炉が商業化できるかの見通しはついていない。
米国では燃料の再処理はせず,ワンスルーで廃棄処分にする方針で,最終処分場がみつからないという理由で,軽水炉で生成するプルトニウムやマイナー・アクチニドを高速炉で焼却して減量することを模索している。
高速中性子照射で雑多な放射性廃棄物をプルトニウムに変換できることに着目し,再生処理工程を簡略化できるという理由でもって,増殖目的ではないが同じ高速炉でも日本とはまったく逆であり,増殖を目的としないで焼却を目的としている。このところは正反対である。
2008年発表の「長期エネルギー需給見通し」で原発と火力新設に4.7兆円使うとしていた。2008年のサミット前にまとめた自民党の案では,2020年までに9基の原発を運転開始するとしていた。 2010年に民主党政権になっても,まだ14基建設するとの方針は変えていなかった。
3)熱効率の改善なし,それを上げられない原発
東大の原子力工学科では水蒸気圧を臨界圧以上に上げ,熱効率を向上させる軽水炉の研究をしている。だが,これはグローバル・ビューに欠けた単視眼的な発想としか思えない。
註記)以上 1)2)3)は,http://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/biblodata/globalheating/globalheating5.htm
原発の熱効率の問題点については,小出裕章がこう説明している。
従来の火力発電も原子力発電も,いわゆる蒸気機関と私たちが呼んできた機械なのです。約200年前に産業革命が起こり,当時ジェームス・ワットという人たちがしきりにいろいろな機械を発明しようとしていました。その結果,水を沸騰させて蒸気を吹き出すことができれば,その蒸気の力で機械が動くということをみつけたのでした。
それ以降,沢山の機械が使われるようになってきたわけですが,火力発電所も原子力発電所も,その蒸気の力でタービンという羽根車を回して発電するという,まあいってみれば,大変古めかしい機械だったのです。
とくにそのうちでも原子力発電は,圧倒的に効率の悪い蒸気機関でして,いまだに熱効率と私たちが呼んでいるものが33%しかないのです。つまり,生み出した熱のうち33%しか利用できず,残りの67%,つまり倍の熱は捨てるしかないというようなバカげた発電方法なのです。
註記)http://www.asiapress.org/apn/archives/2014/04/17132310.php
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