「東海アマブログ」からの転載で、記事の中の引用記事(現代ビジネス記事)についてアマ氏自身が「あまり価値のない引用だった」と書いてあるが、大きな価値のある記事だろう。
私はブログランキングに参加していないので、無名ブログの特権として勝手な推測を書く(当然、ただの推測であるから誰がそれをどう思ってもいい)が、アマ氏の書いた部分と引用記事部分を照合すると、事件の真相が見えるのではないか。
つまり、真犯人は「村の有力者」だったというのが私の説だ。だから警察も忖度し(検察は警察に忖度し、裁判所は検察に忖度し)、村人も怖くて発言(まともな証言)ができなかったのだろう。そういう事件は、昔から膨大にあったと思う。
後は、この下の引用を見て、読んだ人それぞれが、「何がこの不思議な事件や不思議な裁判の真相か」を考えればいい。
事件自体は「ひとりを殺すためにおおぜいを巻き添えにして(誰が目的の殺害相手かを曖昧にして)殺す」という、チェスタトンの名短編の同類だろう。有名な「木の葉を隠すには森の中」理論である。ひとつの死体を隠すために死体の山を築くわけである。
(以下引用)
今回は、現代ビジネスに記事が出たので、紹介する。
2025.01.08 なぜ理不尽な冤罪事件は起きるのか。「もうひとつの袴田事件」が伝える「境界線上」で起こる問題【鈴木おさむ×阿武野勝彦】
村の懇親会で振る舞われたぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡。犯人と目された奥西勝氏(当時35歳)は一度は犯行を認めるも、裁判で否認。一審では無罪を勝ち取ったが、二審で死刑を言い渡された。
無実を訴え続けるなか、89歳で獄中死。妹の岡美代子氏(現在95歳)が再審請求を引き継ぐも、半世紀にわたり棄却され続けている。
再審請求は有罪判決を受けた者の配偶者、直系の親族及び兄弟姉妹にしかできない。彼女が亡くなれば、奥西氏の無実を証明する機会は永遠に失われる。
一審無罪、二審死刑になった唯一の事件
――東海テレビは1961年に発生した「名張毒ぶどう酒事件」を1977年から取材しはじめ、以降多くの番組を制作しました。阿武野さんのプロデュースで劇場公開に至ったものだけでも、『約束~名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯~』(13)、『ふたりの死刑囚』(16)、『眠る村』(19)、そして今回の『いもうとの時間』と4本もあります。
鈴木:何十年も追いかけてるんですよね。誰がやり始めたんですか?
阿武野:門脇康郎という私より15歳先輩、1944年生まれのカメラマンです。もともとはスタジオのカメラを操作するスタッフで、ニュースや報道とは関係なかったんですが、「テレビ局員は全員ジャーナリストであるべき」という考え方の持ち主で、「名張毒ぶどう酒事件」のことを個人的にずっと調べてたんですよ。
1987年に報道局が賞を狙わなきゃいかんみたいな空気になったとき、「そういえば門脇さんが名張毒ぶどう酒事件のことを追ってるぞ」となり、門脇さんの取材に乗っかる形で番組化が始まりました。
阿武野:「袴田事件」との違いは証拠物の出し方です。「袴田事件」の場合は「味噌樽の中に入っていた衣類」といった物証が争点になっていましたが、「名張毒ぶどう酒事件」の場合、明確な物証がない。ぶどう酒の瓶のフタである王冠についた歯型とか、毒として使われた農薬が自供と違っていたという科学鑑定を弁護側が出しても、再審の扉は開きませんでした。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則が守られていないんです。しかも、名張毒ぶどう酒事件は「一審無罪、二審死刑」という戦後裁判史に例がない逆転判決です。
「名張ぶどう酒事件」は近代と現代の間で起こった
鈴木:正直言うと、僕はその根本のところを理解できていないんです。なぜ奥西勝さんは一審判決で無罪になっているにもかかわらず、二審で死刑判決が出てしまったんでしょうか? シリーズの過去の作品で、再審請求を棄却した裁判官の顔写真まで出してるのは、ドキュメンタリーの作り手側の強烈なメッセージだと思うんですが。
阿武野:「袴田事件」もそうですが、1960年代は冤罪が起こりやすい捜査環境があったように思います。強烈な自白偏重で、一度「クロ」にしたものを「シロ」にしたくない。警察と検察の間違ったプライドですね。「冤罪」は、裁判所がある意味でそこに加担してしまっている。そもそも検察が起訴した以上、有罪立証できていると思う裁判官は多いですし、先輩の判決をひっくり返す裁判官は出世コースを外れるというムードもあります。
鈴木:時代、ですか。そのときに作ってしまった「事実」を曲げたくないという。
阿武野:東海テレビ製作の『死刑弁護人』(12)で取材した安田好弘弁護士が、「事件は境界線上で起きる」と言っていました。「境界線」とは、山の手と下町、貧困と富裕などで、事件はその境目で起きるんだと。私はそれを聞いて、「名張毒ぶどう酒事件」は「近代と現代の狭間」で起こったのではないかと思いました。
阿武野:非常におおらかな時代から急速に近代化していく日本の、時代の軋轢みたいなものの中で起きたのではないかと。激しく進む都市化と変わらないムラ社会の中での、突発的な出来事として。
奥西さんは「シロ」だと確信している
――取材チームはかなり長期にわたって奥西さんの弁護団や支援者、家族を追いかけていますから、当然ながら情も湧いてくると思います。意地悪な見方をするなら、奥西さん側への肩入れにつながる「偏った目線」に陥る危険性はないのでしょうか。
長く密着している歴代ディレクターの事件に対する入れ込みようは相当のものだと思いますが、阿武野さんはプロデューサーとして、どんな立ち位置なのでしょう。
阿武野:この事件は、強要された自白以外に奥西さんを「クロ」と言える材料はないんです。それなのに検察は証拠物を60年たった今も全面的に開示しないし、裁判官はそれを出しなさいと言わない。ここまで論争が続いている裁判ですから、証拠物を全て出して事件を洗い直すべきです。私自身はこの事件を曖昧な「中立な視線」で見ることはできませんし、奥西さんは「シロ」だと確信しています。
もうひとつ言いたいのは、私たちは現場の村に取材に行っていて、毒入りぶどう酒の被害に遭った方の家族も含め、口の重い村人からも話を聞いています。彼らの中には、奥西さんが犯人だとはっきり断定する人もいる。でも、そう思わざるを得ない村の事情を慮っても真実はそこにはなく、事件の見方は揺るがないですね。
鈴木:「シロ」だというのは、阿武野さんはじめディレクターやスタッフの統一見解なんですか?
阿武野:スタッフは、みな「シロ」だと確信していると思います。しかし、東海テレビという大きな組織で言うなら、冤罪だと思っていない人間もいます。そんな考え方、そんな放送内容はおかしいと、過去にはかなり感情的になじられたこともありました。報道原理主義者のように凝り固まっていないので、話は聞きますが、そういう局員はだいたい「客観中立論」を持ち出してくる。「大事なのは事実なのに、くだらない立場を持ち出すんだな」と思いますが(笑)、「こちらは途方もない時間と労力を費やして取材を積み上げている。あなたは何を調べ、何を読み込んでそれを言うのか?」と反論します。
鈴木:ドキュメンタリーって、公共性の高いテレビで放映されることで、映画とはまた違った大きな責任を問われますよね。映画よりずっと多くの人の目に触れるわけですから。危ない綱を渡りたくないという人もいるでしょうし。それだけに、阿武野さんはテレビで放映することに意義があると思ってやってこられたんですよね。
************************************************************
一部引用以上
あまり価値のない引用だったが、地元の雰囲気として、奥西さんを犯人と思っている人は、周辺にほとんどいなかったことが伝わる。
もちろん、疑う人もいたが、それは「犯人がいなければ犯罪は起きない」=「疑わしきは犯人と決めつける」という軽薄な思想の持ち主だけである。
事件を詳しく知った人は、全員が奥西さんの無実を支持している。
名張警察が、事件発生直後に、疑った人物が三名いた。
1人はワインを購入し手配した「三奈の会」会長の奥西楢雄氏と、酒屋から奥西楢雄宅までワインを運搬した農協職員の石原利一、最後に奥西楢雄宅から公民館までお酒を運んだ奥西勝でした。
警察は、拷問的取り調べの末に、奥西勝から自白を引きだした。
ところが、地元では、真犯人は奥西楢雄であるとの声が大きかった。
それは、楢雄と勝が、北浦ヤス子という女性と三角関係にあり、楢雄が憤懣を募らせていたとの証言があったからだ。
この背景を知るには、当時の名張市が、西日本、夜這い文化のなかにあって、小さな集落では若い頃から、夜這い=若者たちの自由な性交が習慣として残り、日本の近代化による倫理的拘束と矛盾し、ドロドロの精神的負荷が重なっていた事情があった。
実は、夜這い地域で、現在の90歳以上の人たちは、本当の親が誰なのかはっきりせず、また気にする人も少ない。
子供が生まれれば、集落全体で兄弟のように育てるのが夜這い文化の真骨頂だった。
それが、戦後、私有財産の差別化とともに、人間関係の私物化も進んだので、時代の境目に、みんなとまどっていたのだ。
夜這い地帯では、たとえば津山30人殺しのようなもの凄い怨嗟も起きていた。これは部落差別と関係しているが、男女の関係は、ドロドロの怨念を生みやすいということだ。
いずれにせよ、現在、裁判所は再審を拒み続け、捜査資料の開示も拒んでいる。必死になって冤罪資料を隠し続けている状態だ。しかも、その捜査資料を(後々めんどくさいことになるから)廃棄してしまえと命令を出した県警本部長(鹿児島県)まで出てきた。
真実は、捜査側の勝手な思い込みだけで十分だというわけだ。警察の冤罪捏造体質は、是正されるどころか、ますます悪質化しているのではないか?
私はブログランキングに参加していないので、無名ブログの特権として勝手な推測を書く(当然、ただの推測であるから誰がそれをどう思ってもいい)が、アマ氏の書いた部分と引用記事部分を照合すると、事件の真相が見えるのではないか。
つまり、真犯人は「村の有力者」だったというのが私の説だ。だから警察も忖度し(検察は警察に忖度し、裁判所は検察に忖度し)、村人も怖くて発言(まともな証言)ができなかったのだろう。そういう事件は、昔から膨大にあったと思う。
後は、この下の引用を見て、読んだ人それぞれが、「何がこの不思議な事件や不思議な裁判の真相か」を考えればいい。
事件自体は「ひとりを殺すためにおおぜいを巻き添えにして(誰が目的の殺害相手かを曖昧にして)殺す」という、チェスタトンの名短編の同類だろう。有名な「木の葉を隠すには森の中」理論である。ひとつの死体を隠すために死体の山を築くわけである。
(以下引用)
今回は、現代ビジネスに記事が出たので、紹介する。
2025.01.08 なぜ理不尽な冤罪事件は起きるのか。「もうひとつの袴田事件」が伝える「境界線上」で起こる問題【鈴木おさむ×阿武野勝彦】
村の懇親会で振る舞われたぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡。犯人と目された奥西勝氏(当時35歳)は一度は犯行を認めるも、裁判で否認。一審では無罪を勝ち取ったが、二審で死刑を言い渡された。
無実を訴え続けるなか、89歳で獄中死。妹の岡美代子氏(現在95歳)が再審請求を引き継ぐも、半世紀にわたり棄却され続けている。
再審請求は有罪判決を受けた者の配偶者、直系の親族及び兄弟姉妹にしかできない。彼女が亡くなれば、奥西氏の無実を証明する機会は永遠に失われる。
一審無罪、二審死刑になった唯一の事件
――東海テレビは1961年に発生した「名張毒ぶどう酒事件」を1977年から取材しはじめ、以降多くの番組を制作しました。阿武野さんのプロデュースで劇場公開に至ったものだけでも、『約束~名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯~』(13)、『ふたりの死刑囚』(16)、『眠る村』(19)、そして今回の『いもうとの時間』と4本もあります。
鈴木:何十年も追いかけてるんですよね。誰がやり始めたんですか?
阿武野:門脇康郎という私より15歳先輩、1944年生まれのカメラマンです。もともとはスタジオのカメラを操作するスタッフで、ニュースや報道とは関係なかったんですが、「テレビ局員は全員ジャーナリストであるべき」という考え方の持ち主で、「名張毒ぶどう酒事件」のことを個人的にずっと調べてたんですよ。
1987年に報道局が賞を狙わなきゃいかんみたいな空気になったとき、「そういえば門脇さんが名張毒ぶどう酒事件のことを追ってるぞ」となり、門脇さんの取材に乗っかる形で番組化が始まりました。
阿武野:「袴田事件」との違いは証拠物の出し方です。「袴田事件」の場合は「味噌樽の中に入っていた衣類」といった物証が争点になっていましたが、「名張毒ぶどう酒事件」の場合、明確な物証がない。ぶどう酒の瓶のフタである王冠についた歯型とか、毒として使われた農薬が自供と違っていたという科学鑑定を弁護側が出しても、再審の扉は開きませんでした。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則が守られていないんです。しかも、名張毒ぶどう酒事件は「一審無罪、二審死刑」という戦後裁判史に例がない逆転判決です。
「名張ぶどう酒事件」は近代と現代の間で起こった
鈴木:正直言うと、僕はその根本のところを理解できていないんです。なぜ奥西勝さんは一審判決で無罪になっているにもかかわらず、二審で死刑判決が出てしまったんでしょうか? シリーズの過去の作品で、再審請求を棄却した裁判官の顔写真まで出してるのは、ドキュメンタリーの作り手側の強烈なメッセージだと思うんですが。
阿武野:「袴田事件」もそうですが、1960年代は冤罪が起こりやすい捜査環境があったように思います。強烈な自白偏重で、一度「クロ」にしたものを「シロ」にしたくない。警察と検察の間違ったプライドですね。「冤罪」は、裁判所がある意味でそこに加担してしまっている。そもそも検察が起訴した以上、有罪立証できていると思う裁判官は多いですし、先輩の判決をひっくり返す裁判官は出世コースを外れるというムードもあります。
鈴木:時代、ですか。そのときに作ってしまった「事実」を曲げたくないという。
阿武野:東海テレビ製作の『死刑弁護人』(12)で取材した安田好弘弁護士が、「事件は境界線上で起きる」と言っていました。「境界線」とは、山の手と下町、貧困と富裕などで、事件はその境目で起きるんだと。私はそれを聞いて、「名張毒ぶどう酒事件」は「近代と現代の狭間」で起こったのではないかと思いました。
阿武野:非常におおらかな時代から急速に近代化していく日本の、時代の軋轢みたいなものの中で起きたのではないかと。激しく進む都市化と変わらないムラ社会の中での、突発的な出来事として。
奥西さんは「シロ」だと確信している
――取材チームはかなり長期にわたって奥西さんの弁護団や支援者、家族を追いかけていますから、当然ながら情も湧いてくると思います。意地悪な見方をするなら、奥西さん側への肩入れにつながる「偏った目線」に陥る危険性はないのでしょうか。
長く密着している歴代ディレクターの事件に対する入れ込みようは相当のものだと思いますが、阿武野さんはプロデューサーとして、どんな立ち位置なのでしょう。
阿武野:この事件は、強要された自白以外に奥西さんを「クロ」と言える材料はないんです。それなのに検察は証拠物を60年たった今も全面的に開示しないし、裁判官はそれを出しなさいと言わない。ここまで論争が続いている裁判ですから、証拠物を全て出して事件を洗い直すべきです。私自身はこの事件を曖昧な「中立な視線」で見ることはできませんし、奥西さんは「シロ」だと確信しています。
もうひとつ言いたいのは、私たちは現場の村に取材に行っていて、毒入りぶどう酒の被害に遭った方の家族も含め、口の重い村人からも話を聞いています。彼らの中には、奥西さんが犯人だとはっきり断定する人もいる。でも、そう思わざるを得ない村の事情を慮っても真実はそこにはなく、事件の見方は揺るがないですね。
鈴木:「シロ」だというのは、阿武野さんはじめディレクターやスタッフの統一見解なんですか?
阿武野:スタッフは、みな「シロ」だと確信していると思います。しかし、東海テレビという大きな組織で言うなら、冤罪だと思っていない人間もいます。そんな考え方、そんな放送内容はおかしいと、過去にはかなり感情的になじられたこともありました。報道原理主義者のように凝り固まっていないので、話は聞きますが、そういう局員はだいたい「客観中立論」を持ち出してくる。「大事なのは事実なのに、くだらない立場を持ち出すんだな」と思いますが(笑)、「こちらは途方もない時間と労力を費やして取材を積み上げている。あなたは何を調べ、何を読み込んでそれを言うのか?」と反論します。
鈴木:ドキュメンタリーって、公共性の高いテレビで放映されることで、映画とはまた違った大きな責任を問われますよね。映画よりずっと多くの人の目に触れるわけですから。危ない綱を渡りたくないという人もいるでしょうし。それだけに、阿武野さんはテレビで放映することに意義があると思ってやってこられたんですよね。
************************************************************
一部引用以上
あまり価値のない引用だったが、地元の雰囲気として、奥西さんを犯人と思っている人は、周辺にほとんどいなかったことが伝わる。
もちろん、疑う人もいたが、それは「犯人がいなければ犯罪は起きない」=「疑わしきは犯人と決めつける」という軽薄な思想の持ち主だけである。
事件を詳しく知った人は、全員が奥西さんの無実を支持している。
名張警察が、事件発生直後に、疑った人物が三名いた。
1人はワインを購入し手配した「三奈の会」会長の奥西楢雄氏と、酒屋から奥西楢雄宅までワインを運搬した農協職員の石原利一、最後に奥西楢雄宅から公民館までお酒を運んだ奥西勝でした。
警察は、拷問的取り調べの末に、奥西勝から自白を引きだした。
ところが、地元では、真犯人は奥西楢雄であるとの声が大きかった。
それは、楢雄と勝が、北浦ヤス子という女性と三角関係にあり、楢雄が憤懣を募らせていたとの証言があったからだ。
この背景を知るには、当時の名張市が、西日本、夜這い文化のなかにあって、小さな集落では若い頃から、夜這い=若者たちの自由な性交が習慣として残り、日本の近代化による倫理的拘束と矛盾し、ドロドロの精神的負荷が重なっていた事情があった。
実は、夜這い地域で、現在の90歳以上の人たちは、本当の親が誰なのかはっきりせず、また気にする人も少ない。
子供が生まれれば、集落全体で兄弟のように育てるのが夜這い文化の真骨頂だった。
それが、戦後、私有財産の差別化とともに、人間関係の私物化も進んだので、時代の境目に、みんなとまどっていたのだ。
夜這い地帯では、たとえば津山30人殺しのようなもの凄い怨嗟も起きていた。これは部落差別と関係しているが、男女の関係は、ドロドロの怨念を生みやすいということだ。
いずれにせよ、現在、裁判所は再審を拒み続け、捜査資料の開示も拒んでいる。必死になって冤罪資料を隠し続けている状態だ。しかも、その捜査資料を(後々めんどくさいことになるから)廃棄してしまえと命令を出した県警本部長(鹿児島県)まで出てきた。
真実は、捜査側の勝手な思い込みだけで十分だというわけだ。警察の冤罪捏造体質は、是正されるどころか、ますます悪質化しているのではないか?
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