学生運動の謎 2017/05/08 (Mon)
これは私自身がかねてから疑問に思っていたところで、なぜ学生運動家(まあ、全共闘と言うべきだろうか。私は彼らの政治的ジャンル分けがよく理解できないのである。)は民青を明らかな自分たちの敵、と見做して、体制そのものとの戦いよりも民青との戦いに熱中していたのかが私には理解できないのである。同じ学生同士が争って喜ぶのは社会支配層だけだろうに。いわゆる「内ゲバの論理」というのは、高橋何とかという作家にそういう題名の文章があったと記憶するが、どんな理屈をつけてもアホの骨頂としか思えない。事実、そのために日本の「若者による政治運動」と市民運動は死滅したようなものだ。
下の回答については、それを鵜呑みにしていいのか分からないが、一応参考にしておく。
なお、民青を「民コロ」と呼ぶ蔑称があるが、それは中国人を「チャンコロ」と呼ぶ下劣な右翼的習性の尻尾を感じる。つまり、全学連と現在のネトウヨは、案外精神的な類似性があるのではないか、と思いつきを書いておく。
(以下引用)
学生運動で民青派と全共闘が激しく対立していたと聞いたのですがなぜですか。 そ...
ベストアンサーに選ばれた回答
民青は日本共産党の青年組織です。
全共闘は、新左翼と呼ばれた反日共(反代々木)系と非日共の革命運動体に、経済社会に疎外感を覚えた無党派、文化活動家から実存主義、虚無主義、無政府主義まで集めた、組織とはいいがたい集団で、体質が民青とは異なります
中核、革マル、ブンドといった新左翼、構造改革派という別種の社会主義者は、元は共産党にいたのですが宮本主流派に追い出されて、別組織を作ります。選挙に候補を立てる力がなく、自らの党派の存在をこういった運動で明示し拡大に努めます
最初の対立は60年安保闘争、高度成長期に定員が増た大学自治会の支配権争いから、早慶の学費値上げ反対運動、ベトナム反戦運動と沖縄返還闘争・・それぞれ目標は共通ですが、闘争方針が対照的でお互い相手を罵り、大学の内外で衝突します。
一部私大の職組や生協は共産党の生命線でしたから、大学解体すら叫ぶ全共闘は目の敵にされました。
学生運動が頂点に達する1970年は米ソ冷戦のピークで、平和と安保政策に若者の関心は高く、経済成長の影である公害が社会問題化し、闘争タネは尽きないが共産と新左翼系は 戦術面での対立は各所でおきます
共産は市民運動でさえ党派拡大の道具に利用し、成田闘争が典型例のように途中で相手と妥協するが、全共闘・新左翼は権力と徹底抗戦し、常に新聞紙面を賑わす参加者を増やします
おりしも中国の紅衛兵を表にした文革、米国での反戦徴兵拒否、仏の5月革命など若者の反乱が世界を席巻したのです
政治に限らず反体制的なロック音楽や演劇、映画も新しい世界を切り開く芽生えであったのですが、民青は優等生的で冷やかでした
党の方針が「学生党員は運動に力を入れすぎないようにして勉強に励み社会に出ろ」ですから、反体制運動には相入れない存在でした
新左翼内部でも党派抗争が激化し死亡事件を続発する一方でした 拠点大学が次々と落城し、権力側も党派への弾圧を強化し指導者層を疲弊させます、72年頃跳ね上がった連合赤軍ら過激分子が次々とテロ事件を起こし、支持層が離反して終わりになります
ベストアンサー以外の回答
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正確なご回答をppiipppq000pifpさんがされていますので、
私は少し付け足しを・・・。
「全共闘運動」が盛り上がっていたのは、1960年代の後半で、
1969年がピークだったと思いますが、有名なエピソードと
しては、民青のゲバ部隊の存在です。
日本共産党の学生組織の民青同盟は、黄色のヘルメットと角材
で武装して、新左翼である各セクトや全共闘と対峙していました。
(全共闘は、セクトの学生とセクトに属さないノンセクトの
一般過激学生の混成部隊の場合が多かったようです)
当時の新左翼のセクトは中核派、社青同解放派の学生組織の
反帝学評、共産主義者同盟の学生組織の社学同(ブント)、
そして、革マル派などです。
「恐怖のあかつき行動隊」と呼ばれる民青のゲバ部隊は
とりわけ有名で、作家の宮崎学は早大の現場責任者でした。
とにかくめちゃくちゃ強かったそうです。
早朝、全共闘の学生の立て籠もる校舎を襲撃していたのです。
バリケードストライキを敢行している全共闘に対して、
「大学の秩序を守るため」と称して、徹底的な暴力で
排除しようとしていたのです。
そのため、セクトや全共闘の学生を拉致して、リンチに
かけることもよくおこなわれていました。
ひざの皿を割られた、水責めに遭った、リンチが終わって、
「捕虜」を返す時、トラックから投げ捨てられたという
当時の学生の人たちの回想録を読んだことがあります。
民青は、全共闘に「暴力学生」というレッテルを貼り、
口では「平和と民主主義を守れ」と言いながら、自らも
徹底したゲバ行動にも出ていたわけです。
「右翼と民の血が恋しい」という当時の校舎の落書きは
有名です。
新左翼諸セクト、全共闘の学生から見れば、民青も右翼と
同等の反革命組織にしか思えなかったのです。
かつて、全共闘運動をしていた、ご年配の団塊の世代の
人たちのリベラル派が、日本共産党に投票しないのは、
その名残です。
(誤解のないように言えば、今の民青はそんなことは
ないと思います。もう時代が違いますからね。)
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