それはともかく、
「上無ければ下を攻め取る奢欲も無く、下無ければ上に諂ひ巧むことも無し、故に恨み争ふこと無し、故に乱軍の出ることも無き也。上無ければ法を立て下を刑罰することも無く、下無ければ上の法を犯して上の刑を受くるといふ患いも無く」
という思想は、まさに共産主義の本源とでも言うべき思想であり、上下の闘争や確執を煽るマルクスなどより立派な思想だと私には思える。「上下の闘争」というマルキシズムがスターリンや毛沢東(他の二人よりはマシだが、やはり「功罪」両面とも大きい。)やポル・ポトを産んだというのは言い過ぎかもしれないが、マルキシズムだけが共産主義だというのは明白な誤りである。(だが、一般的には「共産主義=マルキシズム」とされており、これが共産主義の不幸の根源だというのが私の考えだ。)
欧米の初期共産主義(これこそが共産主義の本筋だと私は思っている。)は人道主義思想であって、むしろ老子や墨子の思想に近いし、上下が無いのだから闘争自体も存在しないという安藤昌益の言葉こそが、共産主義の本質であるべきだろう。
まあ、安藤昌益の思想は「政府という存在自体が悪である」という無政府主義(アナーキズム)の一種と見るのが正解だろうか。実は「竹林の七賢」などの隠者も「東洋的無政府主義」「平和的無政府主義」と見なせるのである。
現代の日本や米国などの姿を見ても、政府の存在そのものが悪である、という思想はけっして馬鹿げた思想だとは思えない。
(以下引用)
安藤昌益
安藤 昌益(あんどう しょうえき、1703年(元禄16年) - 1762年11月29日(宝暦12年10月14日))は、江戸時代中期の医師・思想家・哲学家。秋田藩出身。号は確龍堂良中[1]。思想的には無神論やアナキズムの要素を持ち、農業を中心とした無階級社会を理想とした。死後、近代の日本において、社会主義・共産主義にも通じる思想を持った人物として評価された。
生涯[編集]
出羽国秋田郡二井田村下村(現在の秋田県大館市二井田)の豪農の家に生まれ、同地で没した。長男ではなく利発であったことから、元服前後に京都に上り、仏門に入り禅を学んだ(寺は妙心寺)と言われている。北野天満宮で修業をした事実もある。しかし、仏教の教えと現状に疑問を持ち、どういう伝手かは不明だが医師である味岡三伯の門を叩いた。味岡三伯は後世方別派に属する医師である。ここで医師としての修行をし、八戸で開業する以前に結婚し子ももうけている。
陸奥国八戸の櫓(やぐら)横丁に居住し開業医となった。延享元年(1744年)8月の八戸藩の日記[2]には、櫛引八幡宮の流鏑馬の射手を治療したことが記録に残されている。延享2年(1745年)領主層を対象とした政治の書『暦大意』を執筆した。しかし、昌益は一介の町医者であり町人身分に過ぎないが。その中で「民苦しみ穀種絶つときは、則ち国亡ぶ。国亡ぶる則は、国主自ら減却ぞ。罰恥百世に殆す者也」(『暦大意』<歳変>)と不仁の領主を厳しく非難している[3]。
同年に八戸の天聖寺にて講演を行う。宝暦8年(1757年)にも同寺で討論会を開いている。その後、出羽国大館に帰郷。弟子の神山仙庵は八戸藩主の側医。
昌益の大著『自然真営道』は宝暦3年(1753年)に刊行された。門人仙庵の序から昌益の学派は、社会的反響について最新の警戒を持っていたことが知られる[4]。
宝暦6年(1756年)9月、郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、家督を継ぐものがいなくなった。このため、宝暦8年ごろに二井田に1人で戻った。結局、家督は親戚筋から養子を迎え入れて継がせたが、昌益自身も村に残り村人の治療にあたった(八戸では既に息子が周伯を名乗って医師として独り立ちしていたため)。なお、宝暦10年前後には、八戸の弟子たち(真栄道の弟子)が一門の全国集会を開催し、昌益も参加した。参加者は松前から京都、大阪まで総勢14名。その後再び郷里へ戻って60歳で病死した。
思想[編集]
昌益は、彼の生きた社会を「法世」[5]とみなし、法世以前に「自然の世」[6]があったと考え、法世を自然の世に高める具体的方策[7]を提唱した[8]。
身分・階級差別を否定して、全ての者が労働(鍬で直に地面を耕し、築いた田畑で額に汗して働くという「直耕」)に携わるべきであるという、徹底した平等思想を唱えており、著書『自然真営道』(第25巻中「自然ノ世論」)にその考え(理想社会)が書かれている。彼の思想体系は、封建社会の混乱と矛盾を目撃し、深い時代的関心に裏付けられている。為政者を不耕貪食の輩と断罪もしている。
その当時の奥羽地方では、寛延2年(1749年)[9]、宝暦5年(1755年)[10]、同7年(1757年)と飢饉が頻発した。また、関東より一帯にかけて間引き[11]が広く行われるようになったのもこの頃である[12]。昌益は、このような現実を凝視し、考えた。
「…中平土の人倫は十穀盛りに耕し出し、山里の人倫は薪材を取りて之を平土に出し、海浜の人倫は諸魚を取りて之を平土に出し、薪材十穀諸魚之を易へて山里にも薪材十穀諸魚之を食し之を家作し、海浜の人倫も家作り穀食し魚菜し、平土の人も相同うして平土に過余も無く、海浜に過不足無く、彼(かしこ)に富も無く此に貧も無く、此に上も無く彼に下も無く…上無ければ下を攻め取る奢欲も無く、下無ければ上に諂ひ巧むことも無し、故に恨み争ふこと無し、故に乱軍の出ることも無き也。上無ければ法を立て下を刑罰することも無く、下無ければ上の法を犯して上の刑を受くるといふ患いも無く、…五常五倫四民等の利己の教無ければ、聖賢愚不肖の隔も無く、下民の慮外を刑(とが)めて其の頭を叩く士(さむらい)無く、考不孝の教無ければ父母に諂ひ親を悪み親を殺す者も無し、。慈不慈の法教(こしらえおしえ)無ければ、子の慈愛に溺るる父も無くまた子を悪む父母も無し。…是れ乃ち自然五行の自為にして天下一にして全く仁別無く、各々耕して子を育て壮んに能く耕して親を養ひ子を育て一人之を為れば万万人之を為して、貪り取る者無ければ貪り取らるる者も無く、天地も人倫も別つこと無く、天地生ずれば人倫耕し、此外一天の私事為し。是れ自然の世の有様なり」
— 「自然真営道」第25巻中「自然の世論」の要所を抜き出したもの、(丸山眞男『日本政治思想史研究』東京大学出版会、1952年、261-262ページ)
『自然真営道』の内容は、共産主義や農本主義、エコロジーに通じる考えとされているが、アナキズム(無政府主義)の思想にも関連性があり、間口の広さが見受けられる。またこの書の中で昌益は江戸幕府が封建体制を維持し民衆を搾取するために儒教を利用してきたと主張して、孔子と儒教、特に朱子学を徹底的に批判した。
林基は、「イデオロギーの上でも、宝暦年間は重大な画期をなす。最大の指標は安藤昌益の『自然真営道』の成立である」「その基礎である幕藩封建制的大土地所有を根本から否定し、現存の一切の支配的イデオロギーを徹底的に批判した『自然真営道』の成立こそは、まったく画期的な変化の指標としなければならない。それは享保ー宝暦年間における階級闘争の質的転化の過程が生み出したものとみることができる」と論じている[13]。
後に駐日カナダ大使であるH(ハーバート)・ノーマンの手により、『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』原書名:Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism(大窪愿二訳、上下、岩波新書、1950年)が記されることで周知の人物となった。
奈良本辰也は1935年頃に『統道真伝』写本五冊を、京都大学国史研究室の書庫の片隅で、埃をかぶって放置されているのを発見している。奈良本は、これが写され始めたときには、世にも貴重な史料として迎えられたのであろうが、どうしたわけか、あまりひと目につかなかったのであると記している[14]。
1976年、三宅正彦は、昌益の社会変革論は尊王論の系譜に入れるべきという考えを提示した[15]。それを受けて早川雅子は、「私法神書巻」(稿本『自然真営道』巻九)の分析によって昌益の尊王攘夷論を立証した[16][8]。
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