「ギャラリー酔いどれ」から転載。
政治家や上級官僚はなぜ平気で戦争を始めたり、徴兵制を実施したりできるのか、ということへの答えが、下の記事の中にある。
(以下引用)
◆http://fusenmei.cocolog-nifty.com/top/2015/06/post-c470.html
誰も通らない裏道 2015/06/26
◎徴兵制 ~ その驚くべき不正の歴史は必ず繰り返される
実に久しぶりにブログを書く。
といっても、以下は昨日読んだ本からの引用である。
集団的自衛権の次に来るのは間違いなく徴兵制であろう。
「いくらなんでもそこまでは、、、」
などということはあり得ない。
なぜなら、120%憲法違反である集団的自衛権すらが、
いまや認められようとしているのだから。
なにゆえ政府はここまでやろうとしているのか?
私は個人的には、福島第一原発の手の施しようのない現状、
アベノミクスの惨憺たる行く末から目をそらすために、
いざという時にはいつでもドンパチできるようにしておくことが目的
なのではないかと睨んでいる。
当ブログでは3.11の前から
チェルノブイリ事故から5年後にソ連という官僚国家が崩壊したのは
他人事ではないのではないか? ということを指摘してきた。
☆http://fusenmei.cocolog-nifty.com/top/2006/10/post_a2c7.html
いまチェルノブイリ後のソ連と同じ道を辿っていると思うのである。
さて、以下に引用するのは
森史朗著『松本清張への召集令状』(文春新書)の
「第五章 召集令状とは何だったか」の
「Ⅱ 召集令状のカラクリ」の冒頭部分だ(太字部分はブログ主)。
********************
記事は月刊『文藝春秋』誌に掲載されたもので、
タイトルは「『兵隊製造人』の手記」(昭和三十年二月号)。
筆者は神戸達雄。 召集令状の不正のカラクリを告発した文章である。
「兵隊製造人」とは召集令状、いわゆる「赤紙」を発令する立場の人物を指し、
筆者は清張さんたち妻帯の中年兵を恐怖におとしいれた「赤紙」が
公正に発令されたものではなく、きわめて恣意的におこなわれていた
一つの事実を明らかにしている。
「私が、今ここで五千人や一万人の召集令状を誰にしようと私の意のままに出来た」
と、恐ろしい告白をしている。
その結果、何が生まれたのか。筆者は冒頭で率直に書く。
「一度『赤紙』を受取ったら、既に好むと好まざるに拘わらず、
それは直ちに死を意味した。
当人は勿論、その家族のうけるどん底の思いは、
現在が平和であるだけに、測り知れないものがあった。
二三〇万人にも及ぶ戦死者と、十五万人の戦傷病者、
そして更には問題を今日まで残してきている四〇〇万人の遺族が、
一枚の紙片『赤紙』の乱舞に依って生れたのである」
戦後十年を経過しているだけに、率直な告白である。
東京裁判が終結し、サンフランシスコ講和条約が発効した段階で、
ようやく戦争の真実が語られはじめた時期なのである。
今までタブーとされていた軍隊の実態が、はじめて明るみに出されたのだ。
たとえば、兵隊動員の実態とはこんな具合である。
「南方で飛行場を建設するために、三千人の要員がほしい」という要求が出たとする。
軍中央から各連隊司令部が受けた命令は、
「昭和二年から五年までの徴集年次、未教育二国、三千三百人、
三月一日午前十時○○海兵団」となる。
「未教育二国」とは、徴兵検査後、教育訓練を受けなかった第二国民兵の意味である。
ただちに、司令部事務官が三、三〇〇枚の赤紙を用意する。
司令部事務官といっても、実際に作業にかかるのは若い下士官や軍属、
ときには徴用の二十歳前後の女性たちである。
彼らは各地方別にならべられた兵籍名簿に適当に赤紙を差しこみ、
一方で混んだ地方からはこれをぬき取ってまばらな地域に回して均一をはかる。
この赤紙一枚のさし替えで、その人物の運命が決まるのである。
赤紙を抜かれたほうにとっては極楽だが、差しこまれたほうに待ち受けるのは、
一転して地獄と死だ。
赤紙の差しこみ作業は、慣れてくれば瞬時におこなわれ、
五時間もあれば赤紙は確実に日本各地の本人の手もとにとどけられた、
と記事にある。
「私達の眼にとまった名前の人が、どういう運命の糸に操られていったか。
それを思うと、慄然とした気持にならないでもなかった」
と神戸達雄氏は述懐しているが、その作業が
“時には喫いかけの煙草をくわえた気楽さ”で処理されていた実態もあったから、
事務処理とは言うものの、かなり杜撰な処理であったことも指摘できるようである。
事務処理が簡単なゆえに、腐敗の入りこむ余地があった。
手記は、筆者が実際に体験した、こんな事例をあげている。
連隊司令部の事務官にAという男がいた。三十七歳で下士官上がり。経験も古く、
半年や一年前に来た佐官級の人物でも、
この男にアゴで使われるほどの隠然たる勢力を持っている。
そのAがある日、在郷軍人十数名の名前を各員にしめし、
「これは俺の親戚の者だ。召集しても、もちろん差しつかえないが、
そのときはちょっと俺に連絡してくれよ」
と、一人ずつ名前のついた赤符箋を全員のまえでさりげなく見せた。
この連中には召集令状を出してくれるな、という暗黙の指示である。
命令ともいえぬ命令で、赤付箋はただちに兵籍名簿の該当者に貼りつけられた。
これで十数名の人間は赤紙召集の恐怖からのがれることができ、
代わってだれかが召集されて戦場におもむくのである。
では、この「赤付箋のつけられた人物」とは、いったいだれなのか。
記事によれば、Aの親戚縁者とは何のかかわりもない会社重役、
食料などの配給事務にたずさわる上役、料亭の主人、知名人など、
当時の“儲かる仕事に従事している人”ばかり──。
また、こんな人物もいる。仮にBとしよう。
Bも古顔のベテラン格で、連隊司令部に配属されるや、たちまちにして頭角をあらわした。
事情通の古参軍属であるだけに、召集免除の手口も巧妙である。
まず、司令部にある空白の赤紙から一枚をこっそりと抜きとり、勝手に名前を記入する。
その相手とは例外なく地域の有数の資産家で、
つぎにBは当人を直接訪ねると、おもむろにつぎのように切り出す。
「実は、困ったことになりましてね。今日、司令部を半日留守にしたら、
何とこんな召集令状がはいっているではありませんか。
あなただけは召集から守ると約束をしていながら、私も面目ない。
これは、すぐ戦地に出発する部隊ですからねえ」
打ち明けられた本人は、顔面蒼白となる。
戦争末期になると、軍隊での内務班生活も苛酷なら、
輸送船に乗せられて南方戦線送りされるのも地獄である。
いずれにしても、未来に希望はない。
Bはその動揺を見越して、さらにこうつづける。
「あなたは社会的に重要な人です。だから、
そんな人物に軍馬の脚などを洗わせたって国家的損失でしょう。
これから私は司令部に引き返して、この赤紙を他のだれかに肩替わりしてもらえないか、
上役に訴えてみます。
もし、そのことが実現したら、あなたが社会的に重要な存在だという裏付けだけは
して下さいよ。あなたの代わりに、他の人が死ぬのですから」
神戸手記が真実なら、まるで手練れの詐欺師まがいの口説である。
架空の赤紙とは気づかぬ相手の資産家は、Bにたいして総力をあげて
ヤミの物資、ヤミの供応、金銭の奉仕に熱中することは請けあいである。
やがてBが上役への工作が成功したとふたたび姿をあらわし、赤紙をかざして、
「これは無用になりましたから」
と破りすてて、一件落着となる。
万が一、実際に召集令状が発行されそうになった場合、前述のAの手口のように
「親戚の者」として巧みに除外させれば良い。
手記の文章はこうなげいている。
「本土決戦、水際作戦の文字が新聞に現れてから間もなく、稀にみる大動員があった。
当時兵役のある者は殆んど出尽し、家郷に残ったのは、
国民皆兵組の『未教育二国』が大半であったから、
この二国を浚っていったのは当然である。
十九歳の少年と四十三歳の父親と、親子仲よく入隊した笑えぬ話のあった頃だったが、
丸腰で内地の水際にザン壕掘りに使われた兵隊である」
神戸氏の体験でも、なぜか血色の良い、立派な体格の若者が
「肋間神経痛」とか「脚気」とか、外部からみれば判別のつかない理由で
召集免除の恩恵を受けている。
同氏が実見した臨時召集の場合、二三人召集組のうち一九人が即日帰郷となった。
その顔ぶれをみると、Aが「親戚の者」として赤付箋をつけた男たちばかりではないか。
代わって、四十歳代の中年兵が「赤紙」を片手に戦場に出て行った。
これが、召集令状の実態である。
堂々と不公正な選抜がまかり通り、
それによって戦場に送られることなく生きのびた連中がいる。
松本衛生二等兵の場合も、そのだれかに代わって臨時召集され、
一家六人を残して朝鮮へ駆り出されたのではないか。
では、いったいだれがその意図的な選抜とかかわっていたのか?
清張さんはその記事を「ぜひ読みたい」といい、
私は折り返し記事のコピーを浜田山の自宅にとどけた。
「遠い接近」が『週刊朝日』誌上に連載されたのは、それから約半年たってのことである。
『遠い接近』(とおいせっきん): 松本清張の長編推理小説。「黒の図説」第9話。
********************
もし自公政権の下で徴兵制が実施された場合、
もちろん議員連中や支持団体の有力子息が徴兵されることはないだろう。
そしてまた、メディア関係者の子息も。
ちなみに、鴨下信一著『誰も「戦後」を覚えていない [昭和20年代後半篇]』(文春新書)
によれば、
朝鮮戦争当時、著者は学校で
「おい、あんまり朝鮮戦争のこと、大声でしゃべると沖縄に引っぱってゆかれるぞ」
「軍隊があったら、すぐ徴兵だったな」
「戦争放棄だもんな」とヒソヒソ話していたそうだ。
政治家や上級官僚はなぜ平気で戦争を始めたり、徴兵制を実施したりできるのか、ということへの答えが、下の記事の中にある。
(以下引用)
◆http://fusenmei.cocolog-nifty.com/top/2015/06/post-c470.html
誰も通らない裏道 2015/06/26
◎徴兵制 ~ その驚くべき不正の歴史は必ず繰り返される
実に久しぶりにブログを書く。
といっても、以下は昨日読んだ本からの引用である。
集団的自衛権の次に来るのは間違いなく徴兵制であろう。
「いくらなんでもそこまでは、、、」
などということはあり得ない。
なぜなら、120%憲法違反である集団的自衛権すらが、
いまや認められようとしているのだから。
なにゆえ政府はここまでやろうとしているのか?
私は個人的には、福島第一原発の手の施しようのない現状、
アベノミクスの惨憺たる行く末から目をそらすために、
いざという時にはいつでもドンパチできるようにしておくことが目的
なのではないかと睨んでいる。
当ブログでは3.11の前から
チェルノブイリ事故から5年後にソ連という官僚国家が崩壊したのは
他人事ではないのではないか? ということを指摘してきた。
☆http://fusenmei.cocolog-nifty.com/top/2006/10/post_a2c7.html
いまチェルノブイリ後のソ連と同じ道を辿っていると思うのである。
さて、以下に引用するのは
森史朗著『松本清張への召集令状』(文春新書)の
「第五章 召集令状とは何だったか」の
「Ⅱ 召集令状のカラクリ」の冒頭部分だ(太字部分はブログ主)。
********************
記事は月刊『文藝春秋』誌に掲載されたもので、
タイトルは「『兵隊製造人』の手記」(昭和三十年二月号)。
筆者は神戸達雄。 召集令状の不正のカラクリを告発した文章である。
「兵隊製造人」とは召集令状、いわゆる「赤紙」を発令する立場の人物を指し、
筆者は清張さんたち妻帯の中年兵を恐怖におとしいれた「赤紙」が
公正に発令されたものではなく、きわめて恣意的におこなわれていた
一つの事実を明らかにしている。
「私が、今ここで五千人や一万人の召集令状を誰にしようと私の意のままに出来た」
と、恐ろしい告白をしている。
その結果、何が生まれたのか。筆者は冒頭で率直に書く。
「一度『赤紙』を受取ったら、既に好むと好まざるに拘わらず、
それは直ちに死を意味した。
当人は勿論、その家族のうけるどん底の思いは、
現在が平和であるだけに、測り知れないものがあった。
二三〇万人にも及ぶ戦死者と、十五万人の戦傷病者、
そして更には問題を今日まで残してきている四〇〇万人の遺族が、
一枚の紙片『赤紙』の乱舞に依って生れたのである」
戦後十年を経過しているだけに、率直な告白である。
東京裁判が終結し、サンフランシスコ講和条約が発効した段階で、
ようやく戦争の真実が語られはじめた時期なのである。
今までタブーとされていた軍隊の実態が、はじめて明るみに出されたのだ。
たとえば、兵隊動員の実態とはこんな具合である。
「南方で飛行場を建設するために、三千人の要員がほしい」という要求が出たとする。
軍中央から各連隊司令部が受けた命令は、
「昭和二年から五年までの徴集年次、未教育二国、三千三百人、
三月一日午前十時○○海兵団」となる。
「未教育二国」とは、徴兵検査後、教育訓練を受けなかった第二国民兵の意味である。
ただちに、司令部事務官が三、三〇〇枚の赤紙を用意する。
司令部事務官といっても、実際に作業にかかるのは若い下士官や軍属、
ときには徴用の二十歳前後の女性たちである。
彼らは各地方別にならべられた兵籍名簿に適当に赤紙を差しこみ、
一方で混んだ地方からはこれをぬき取ってまばらな地域に回して均一をはかる。
この赤紙一枚のさし替えで、その人物の運命が決まるのである。
赤紙を抜かれたほうにとっては極楽だが、差しこまれたほうに待ち受けるのは、
一転して地獄と死だ。
赤紙の差しこみ作業は、慣れてくれば瞬時におこなわれ、
五時間もあれば赤紙は確実に日本各地の本人の手もとにとどけられた、
と記事にある。
「私達の眼にとまった名前の人が、どういう運命の糸に操られていったか。
それを思うと、慄然とした気持にならないでもなかった」
と神戸達雄氏は述懐しているが、その作業が
“時には喫いかけの煙草をくわえた気楽さ”で処理されていた実態もあったから、
事務処理とは言うものの、かなり杜撰な処理であったことも指摘できるようである。
事務処理が簡単なゆえに、腐敗の入りこむ余地があった。
手記は、筆者が実際に体験した、こんな事例をあげている。
連隊司令部の事務官にAという男がいた。三十七歳で下士官上がり。経験も古く、
半年や一年前に来た佐官級の人物でも、
この男にアゴで使われるほどの隠然たる勢力を持っている。
そのAがある日、在郷軍人十数名の名前を各員にしめし、
「これは俺の親戚の者だ。召集しても、もちろん差しつかえないが、
そのときはちょっと俺に連絡してくれよ」
と、一人ずつ名前のついた赤符箋を全員のまえでさりげなく見せた。
この連中には召集令状を出してくれるな、という暗黙の指示である。
命令ともいえぬ命令で、赤付箋はただちに兵籍名簿の該当者に貼りつけられた。
これで十数名の人間は赤紙召集の恐怖からのがれることができ、
代わってだれかが召集されて戦場におもむくのである。
では、この「赤付箋のつけられた人物」とは、いったいだれなのか。
記事によれば、Aの親戚縁者とは何のかかわりもない会社重役、
食料などの配給事務にたずさわる上役、料亭の主人、知名人など、
当時の“儲かる仕事に従事している人”ばかり──。
また、こんな人物もいる。仮にBとしよう。
Bも古顔のベテラン格で、連隊司令部に配属されるや、たちまちにして頭角をあらわした。
事情通の古参軍属であるだけに、召集免除の手口も巧妙である。
まず、司令部にある空白の赤紙から一枚をこっそりと抜きとり、勝手に名前を記入する。
その相手とは例外なく地域の有数の資産家で、
つぎにBは当人を直接訪ねると、おもむろにつぎのように切り出す。
「実は、困ったことになりましてね。今日、司令部を半日留守にしたら、
何とこんな召集令状がはいっているではありませんか。
あなただけは召集から守ると約束をしていながら、私も面目ない。
これは、すぐ戦地に出発する部隊ですからねえ」
打ち明けられた本人は、顔面蒼白となる。
戦争末期になると、軍隊での内務班生活も苛酷なら、
輸送船に乗せられて南方戦線送りされるのも地獄である。
いずれにしても、未来に希望はない。
Bはその動揺を見越して、さらにこうつづける。
「あなたは社会的に重要な人です。だから、
そんな人物に軍馬の脚などを洗わせたって国家的損失でしょう。
これから私は司令部に引き返して、この赤紙を他のだれかに肩替わりしてもらえないか、
上役に訴えてみます。
もし、そのことが実現したら、あなたが社会的に重要な存在だという裏付けだけは
して下さいよ。あなたの代わりに、他の人が死ぬのですから」
神戸手記が真実なら、まるで手練れの詐欺師まがいの口説である。
架空の赤紙とは気づかぬ相手の資産家は、Bにたいして総力をあげて
ヤミの物資、ヤミの供応、金銭の奉仕に熱中することは請けあいである。
やがてBが上役への工作が成功したとふたたび姿をあらわし、赤紙をかざして、
「これは無用になりましたから」
と破りすてて、一件落着となる。
万が一、実際に召集令状が発行されそうになった場合、前述のAの手口のように
「親戚の者」として巧みに除外させれば良い。
手記の文章はこうなげいている。
「本土決戦、水際作戦の文字が新聞に現れてから間もなく、稀にみる大動員があった。
当時兵役のある者は殆んど出尽し、家郷に残ったのは、
国民皆兵組の『未教育二国』が大半であったから、
この二国を浚っていったのは当然である。
十九歳の少年と四十三歳の父親と、親子仲よく入隊した笑えぬ話のあった頃だったが、
丸腰で内地の水際にザン壕掘りに使われた兵隊である」
神戸氏の体験でも、なぜか血色の良い、立派な体格の若者が
「肋間神経痛」とか「脚気」とか、外部からみれば判別のつかない理由で
召集免除の恩恵を受けている。
同氏が実見した臨時召集の場合、二三人召集組のうち一九人が即日帰郷となった。
その顔ぶれをみると、Aが「親戚の者」として赤付箋をつけた男たちばかりではないか。
代わって、四十歳代の中年兵が「赤紙」を片手に戦場に出て行った。
これが、召集令状の実態である。
堂々と不公正な選抜がまかり通り、
それによって戦場に送られることなく生きのびた連中がいる。
松本衛生二等兵の場合も、そのだれかに代わって臨時召集され、
一家六人を残して朝鮮へ駆り出されたのではないか。
では、いったいだれがその意図的な選抜とかかわっていたのか?
清張さんはその記事を「ぜひ読みたい」といい、
私は折り返し記事のコピーを浜田山の自宅にとどけた。
「遠い接近」が『週刊朝日』誌上に連載されたのは、それから約半年たってのことである。
『遠い接近』(とおいせっきん): 松本清張の長編推理小説。「黒の図説」第9話。
********************
もし自公政権の下で徴兵制が実施された場合、
もちろん議員連中や支持団体の有力子息が徴兵されることはないだろう。
そしてまた、メディア関係者の子息も。
ちなみに、鴨下信一著『誰も「戦後」を覚えていない [昭和20年代後半篇]』(文春新書)
によれば、
朝鮮戦争当時、著者は学校で
「おい、あんまり朝鮮戦争のこと、大声でしゃべると沖縄に引っぱってゆかれるぞ」
「軍隊があったら、すぐ徴兵だったな」
「戦争放棄だもんな」とヒソヒソ話していたそうだ。
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