寺子屋ゼミで『菊と刀』についての報告を聞いて、ディスカッション。
もうずいぶん久しく手にとっていないけれど、引用箇所を読み返すと、ほんとうによくできた本である。
ツイッターにも書いたけれど、ルース・ベネディクトはこの文化人類学的研究を文献と日系市民からの聞き取り調査だけでなしとげた。研究の依頼主はアメリカ国務省戦時情報局海外情報部。
戦争に勝つためにアメリカには敵国戦争指導部の意思決定プロセスを知る必要があったし、さらに進んで戦勝後の日本占領のために日本人の考え方・感じ方をしっかり把握しておく必要があった。
同じ種類の仕事を大日本帝国の戦争指導部が行っていたのかどうか。
していなければならないはずである。
だが、外務省の外交史料館や防衛研究所のアーカイブを見ないとわからないけれど、たぶんないと思う。
それがないというのは、はじめから「戦争に勝つ気がなかった」ということである。
だから負けたのだ。
同じ仕事をアメリカは同時にドイツ、イタリア、(ヴィシーの)フランスともしかするとフランコのスペインについても行っていたはずである。
『鷲と剣』とか『カエサルとドンファン』とか『百合とギロチン』とか。
タイトルを妄想するだけでも読みたくなってくる。
ワシントンの公文書館はきっとあるはずである。
誰か探し出して訳してほしいが、たとえ見つかっても残念ながらルース・ベネディクトのレベルには達していないであろう。
『菊と刀』は誰が見ても天才的な人類学者の仕事である。
『菊と刀』にはアジアの「未開人」に対する白人種の蔑視を含んだ自民族中心主義的なバイアスがかかっていると批判する人もいるが、およそこの世にある書物で「自民族中心主義的なバイアス」がかかっていないものなどひとつもない。
そもそも記述に際してある国語を選択するというだけで、もうその言語のコスモロジーの虜囚となることは避けられないのである。
United States of America を「アメリカ合衆国」と訳した段階ですでに日本語にはアメリカにおける「State」という概念が存在しないことが露呈される。
だから、State がなんであるかを知らぬままに私たちは話を進めることになる。
そういうものである。
価値中立的なしかたで他国民・他民族・他集団について記述することは原理的にできない。
原理的にできないことをあたかも知的・倫理的努力さえあれば「できる」かのように不当前提しておいて、他人の仕事に難癖をつけるのはよろしくないと思う。
その記述は「アメリカ人は・・・であるが、それと違って日本人は・・・である」という形式を基本的には採用している。
これを「アメリカの価値観を絶対化している」という批判もあるようだが、これも無理筋の批判だろう。
ルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』は文化人類学の先駆的業績だが、全編「ヨーロッパではこうだが、日本ではこうだ」という並列的記述「だけ」で埋め尽くされている。
そう書かないと日本文化の独自性を際立たせることができないからフロイスはそうしたのである。
そんなものを書くなとフロイスに言ってもしかたがない。
現に、その資料のおかげで私たちは戦国時代の日本人がどんな生活をしていたのかを今ありありと想起できるのである。
とにかく『菊と刀』は第一級の文化人類学的研究である。
さて、その中で昨日の議論の中心になったのは、以下の箇所である。
「日本がその戦争を正当化するために用いた前提そのものが、アメリカのそれとは正反対であった。日本は国際情勢を異なった仕方で規定した。アメリカは枢軸国の侵略行為が戦争の原因であるとした。日本、イタリア、ドイツの三国はその征服行為によって、不法にも国際平和を侵害した。枢軸国が権力を握った所が満州国にせよ、エチオピアにせよ、ポーランドにせよ、それは彼らが弱小民族を抑圧する邪悪な進路に乗り出したことを証明する。彼らは『共存共栄』、あるいは少なくとも自由企業に対する『門戸開放』の国際間の掟に対して罪を犯したのである。日本は戦争原因について別な見方をしていた。各国が絶対的主権をもっている間は、世界に無政府状態がなくなることはない。日本は階層的秩序を樹立するために闘わねばならない。この秩序の指導者は、それはむろん日本である。なんとなれば、日本は上から下まで真に階層的に組織されている唯一の国であり、したがっておのおのがその『所』を得ることの必要性を最もよく理解しているからである。」(ルース・ベネディクト、『菊と刀 日本文化の型』、長谷川松治訳、講談社、2005,34-5頁)
いささかわかりにくい記述だが、ベネディクトの「自民族中心主義」がもっともあきらかに露出しているのはここである。
ベネディクトはここで「門戸開放・共存共栄=ひとりひとりが自由に世界を移動し、自由な活動をすることを最高価値とする組織原理」を「国際間の掟=ユニバーサルな真理」とし、日本が採用している「ローカルな真理」である「階層的秩序=ひとりひとりが『所を得る』ことを最高価値とする組織原理」と対比させている。
私はこの対比のさせ方は正しいと思う。
ただ、門戸開放・共存共栄が不可侵の「掟」であり、階層的秩序が「違法」であるというふうには考えない。
昨日ツイッターに書いた議論をもう一度繰り返せば、これは「グローバライズ」と「ローカライズ」の、「世界の均質化」と「地域の個性化」の、「開国」と「鎖国」の、「世界標準」と「ガラパゴス標準」の原理的な対立を映し出している。
私はそう考える。
大日本帝国の朝鮮半島・台湾出兵、満蒙進出はそのつどつねに「ここを取らないと日本は滅びる」という「生命線論」の話形で正当化されてきた。
外形的には誰が見ても「海外侵略」だが、日本人の主観においては、これは「祖国防衛」のための止むに止まれぬ自衛行為であり、「うちの地所を護るための塀をつくる」というタイプの「既得権益保守」のための軍事行動であった。
ベネディクトはこの「既得権益保守」という「受け身」の行動、武道的に言えば「後手に回って、あわてて取り繕っている」タイプの行動を、主体的に選択された計算づくの侵略行動というふうに解釈したようである。
これは少し見立てが違うと私は思う。
日本がやったことは客観的には侵略だが、主観的には祖国防衛なのである。
この奇妙な心理機制を見落とすと、日本人がどうしてあのような「危険な行動」をとるのか、その理由がわからなくなる。
これについてはかつて丸山眞男がはっきりと大日本帝国の戦争指導部には「戦争目的がなかった」ということを指摘している。
丸山はさきの戦争について、これを主導した「世界観的体系」や「公権的基礎づけ」がないことに注目した。
「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」(『超国家主義の論理と心理』)
現に、日本の行った戦争には綱領的な指導理念がなかった。
もちろん「五族協和」とか「八紘一宇」とか「四海同胞」とかいうスローガンはあった。けれども、それは被侵略国民に対して「私たちとあなたは同類である」ということをさまざまに言い換えたにすぎない。
「ご存じなかったかもしれませんが、あなたの住んでいるここは実は『うちの地所』でもあるんです。だから、私たちがここに建てた『塀』はあなたを守る『塀』でもあるのです」というロジックで日本は東アジアや太平洋諸島の占領を倫理的に正当化した。
丸山のいう「ずるずる」というのは、要するに、その政治的行為を主宰する主体がいない、ということである。
ある決定の初発の意図を説明し、それを指導的に遂行し、それがもたらす功罪のすべてについて固有名において責任を取る人間がいない。既成事実の前に無限に屈服してゆき、個人としての責任の引き受けはこれを拒否する。
つまり、日本は侵略して自国の領土を「拡げよう」としたのではなく、「ここまでを自国領土にしておかないと、自国領土が保全できない」という被害者意識に駆り立てられて、軍事行動を起こしたのである。
ここで「自国領土」同一語が文脈によって多義的に用いられていることが日本のふるまいの没論理性として外からは見えるのである。
それは現在の竹島・尖閣諸島の領土問題や北方四島の領土問題を語る語法とも通じている。
「尖閣で譲歩したら、たちまち東シナ海、南シナ海全域を中国戦艦が跳梁跋扈し、日本の領海は脅かされることになる」というのが「尖閣での武力衝突も辞さず論者」に共通する言い回しだが、「ここを譲ったら、あとはずるずるだ」という論に日本人は弱い。ほんとうに弱いのである。
「ここを譲って、その代わりにあちらを取る」というタイプの「取り引き」をどうしても思いつけないのである。
それができないのは、「ここ」が切れば血の出る「わが身の一部」として観念されているからである。
ノモンハン事件で資源もなにもない広漠たるハルハ河畔の草原を奪い合って2万人の戦死傷者を出した。
辻政信が起草した「満ソ国境紛争処理要綱」には「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」とある。
この文言から、関東軍参謀の観念していた「国境」が国際法上の実定的な境界線ではなくて、むしろ「皮膚感覚」に近いものであったことが察せられる。
だからこそ、防衛司令官には「自主的に国境線を認定」する権限が賦与されていたのである。
自分の身体が切り刻まれているときに気がつかないやつはいないからである。
日本が軍事行動において歯止めが効かないのは、実は「侵略的意図がない」からである。
自分の身体が切り刻まれて血を流していると思っているのである。
その痛覚が行動の理由なのであるから、わんわん泣きながら腕をぶんぶん振り回して、そこらじゅう走り回っても、治らないものは治らない。
「すでに十分な利得を得たのだから、もうここらで矛を収めよう」という見切りができない。
アメリカはあきらかに侵略的意図を以てメキシコから領土を奪い、スペインからキューバとフィリピンを手に入れ、ハワイ国王を追放した。
自分が何をしているのか、よくわかっている。
ちゃんと大義名分がある。「市場の開放」と「世界の民主化」である。
市場が開放されれば収奪がなくなり、世界中の人が良質な商品を適正な価格で手に入れられるようになる。世界が民主化されれば、世界中の人が人権を守られて幸福な生活を送れる。
そういう人たちから見ると、日本人の「他国の領土に入り込んで、そこに『うちを守る塀』をつくって、必死に閉じようとする傾向」の意味がわからない。
わからないだろうと思う。
自分の「うち」を守りたいなら、列島に逼塞していればいいではないか。
なぜ外に打って出るのか。
それは外に「ここを破られたらうちが危なくなる」という生命線があるという言説に対して、日本人がまったく無抵抗だからである。
抵抗できないのである。
実を言うと、「どこまでが『うち』なのか」がよくわかっていないからである。
だから、「うち」を守ることを最優先する人たちがまっさきに口走るのは「非国民」という言葉である。
「うち」の中に「そと」が入り込んでいることを恐怖する心性と、「そと」に「うちの塀」がなければならないと思い込む心性は裏表ひとつのものである。
ベネディクトが「階層的秩序」といったのは、平たく言えば「うち/そと秩序」ということになる。
つまり、『菊と刀』の引用箇所はほんとうはこう書かれるべきだったのである。
「日本は戦争原因について別な見方をしていた。日本は『うち/そと』秩序を樹立するために闘わねばならない。この秩序の指導者は、それはむろん日本である。なんとなれば、日本は上から下まで真に『うち/そと』的に組織されている唯一の国であり、したがっておのおのがその『うち』にあることの必要性を最もよく理解しているからである。」
こう書き換えると、ベネディクトの洞察が現代日本の外交的な意味不明さをみごとに説明していることに気づくはずである。
「内田樹の研究室」から転載。
流し読みしただけだが、なかなか面白いことを書いているように思う。その主張を箇条書きにしてくれれば便利なのだが、誰か要約してくれないかwww
ここに書かれている中で、一番納得するのは、内田樹本人の主張よりも、ここに引用されている丸山真男の言葉である。
これについてはかつて丸山眞男がはっきりと大日本帝国の戦争指導部には「戦争目的がなかった」ということを指摘している。
丸山はさきの戦争について、これを主導した「世界観的体系」や「公権的基礎づけ」がないことに注目した。
「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」(『超国家主義の論理と心理』)
それを、内田樹は、実は日本の戦争は、(国家指導者たちにとっては)主観的には「祖国防衛戦争」だったのだ、としているが、それも正しいと私も思う。それなら、自国内にとどまって戦えばいいのであり、なぜ東南アジアや中国に進出して、それらの国に被害を与える必要があったのか、という点についてはこう書いている。
大日本帝国の朝鮮半島・台湾出兵、満蒙進出はそのつどつねに「ここを取らないと日本は滅びる」という「生命線論」の話形で正当化されてきた。
外形的には誰が見ても「海外侵略」だが、日本人の主観においては、これは「祖国防衛」のための止むに止まれぬ自衛行為であり、「うちの地所を護るための塀をつくる」というタイプの「既得権益保守」のための軍事行動であった。
その思想の出自を内田氏は御得意の「身体論」的比喩で説明しているが、その説明は私にはあまりに安易すぎるように思える。
辻政信が起草した「満ソ国境紛争処理要綱」には「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」とある。
この文言から、関東軍参謀の観念していた「国境」が国際法上の実定的な境界線ではなくて、むしろ「皮膚感覚」に近いものであったことが察せられる。
だからこそ、防衛司令官には「自主的に国境線を認定」する権限が賦与されていたのである。
自分の身体が切り刻まれているときに気がつかないやつはいないからである。
日本が軍事行動において歯止めが効かないのは、実は「侵略的意図がない」からである。
自分の身体が切り刻まれて血を流していると思っているのである。
その痛覚が行動の理由なのであるから、わんわん泣きながら腕をぶんぶん振り回して、そこらじゅう走り回っても、治らないものは治らない。
と言って、何か私にうまい説明があるわけではない。そもそも、この問題について考えたこと自体、初めてなのである。
であるから、この文章は、いい「思考素材」を与えてくれた、と受け取っておくことにしたい。
私も「菊と刀」は義務的にでも読んでおこうとしたこともあるが、読むのが面倒な本で、あきらめた。ただ、この本で一番有名な「罪の文化と恥の文化」の比較論の部分を読んで、そのあまりの浅薄さ、くだらなさに呆れた記憶がある。
言うまでもなく、日本人は罪の意識ではなく恥の意識、つまり世間体によって行動するが、欧米人は神に対する罪の意識が行動規範であり、欧米人のほうが精神的に優れている、という議論だ。その議論の阿呆らしさはわざわざ論じる必要もないだろう。特に、現代のようにほとんどの欧米人上級国民が実質的には道徳性のまったく欠如した無神論者的な行動を取り、宗教はむしろ紛争の種や口実になっている時代なら、キリスト教ユダヤ教的な精神の何が優秀だ、と思わない日本人はいないのではないか。西洋的な「我に神あり、ゆえに我に正義あり」という傲慢さ(それを「恥」知らずの文化と言っておこうww)が世界を破壊している、というのが現在の世界的なグローバリズム批判の底流にある、と私は思っている。
(以下引用)
『菊と刀』と領土意識について
流し読みしただけだが、なかなか面白いことを書いているように思う。その主張を箇条書きにしてくれれば便利なのだが、誰か要約してくれないかwww
ここに書かれている中で、一番納得するのは、内田樹本人の主張よりも、ここに引用されている丸山真男の言葉である。
これについてはかつて丸山眞男がはっきりと大日本帝国の戦争指導部には「戦争目的がなかった」ということを指摘している。
丸山はさきの戦争について、これを主導した「世界観的体系」や「公権的基礎づけ」がないことに注目した。
「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」(『超国家主義の論理と心理』)
それを、内田樹は、実は日本の戦争は、(国家指導者たちにとっては)主観的には「祖国防衛戦争」だったのだ、としているが、それも正しいと私も思う。それなら、自国内にとどまって戦えばいいのであり、なぜ東南アジアや中国に進出して、それらの国に被害を与える必要があったのか、という点についてはこう書いている。
大日本帝国の朝鮮半島・台湾出兵、満蒙進出はそのつどつねに「ここを取らないと日本は滅びる」という「生命線論」の話形で正当化されてきた。
外形的には誰が見ても「海外侵略」だが、日本人の主観においては、これは「祖国防衛」のための止むに止まれぬ自衛行為であり、「うちの地所を護るための塀をつくる」というタイプの「既得権益保守」のための軍事行動であった。
その思想の出自を内田氏は御得意の「身体論」的比喩で説明しているが、その説明は私にはあまりに安易すぎるように思える。
辻政信が起草した「満ソ国境紛争処理要綱」には「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」とある。
この文言から、関東軍参謀の観念していた「国境」が国際法上の実定的な境界線ではなくて、むしろ「皮膚感覚」に近いものであったことが察せられる。
だからこそ、防衛司令官には「自主的に国境線を認定」する権限が賦与されていたのである。
自分の身体が切り刻まれているときに気がつかないやつはいないからである。
日本が軍事行動において歯止めが効かないのは、実は「侵略的意図がない」からである。
自分の身体が切り刻まれて血を流していると思っているのである。
その痛覚が行動の理由なのであるから、わんわん泣きながら腕をぶんぶん振り回して、そこらじゅう走り回っても、治らないものは治らない。
と言って、何か私にうまい説明があるわけではない。そもそも、この問題について考えたこと自体、初めてなのである。
であるから、この文章は、いい「思考素材」を与えてくれた、と受け取っておくことにしたい。
私も「菊と刀」は義務的にでも読んでおこうとしたこともあるが、読むのが面倒な本で、あきらめた。ただ、この本で一番有名な「罪の文化と恥の文化」の比較論の部分を読んで、そのあまりの浅薄さ、くだらなさに呆れた記憶がある。
言うまでもなく、日本人は罪の意識ではなく恥の意識、つまり世間体によって行動するが、欧米人は神に対する罪の意識が行動規範であり、欧米人のほうが精神的に優れている、という議論だ。その議論の阿呆らしさはわざわざ論じる必要もないだろう。特に、現代のようにほとんどの欧米人上級国民が実質的には道徳性のまったく欠如した無神論者的な行動を取り、宗教はむしろ紛争の種や口実になっている時代なら、キリスト教ユダヤ教的な精神の何が優秀だ、と思わない日本人はいないのではないか。西洋的な「我に神あり、ゆえに我に正義あり」という傲慢さ(それを「恥」知らずの文化と言っておこうww)が世界を破壊している、というのが現在の世界的なグローバリズム批判の底流にある、と私は思っている。
(以下引用)
『菊と刀』と領土意識について
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