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徽宗皇帝のブログ

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戦争という、集団(国民)的ファナティシズム(狂熱)
2024年元旦にふさわしい記事を、と思い、副島隆彦の「学問道場」の、連続した読者投稿記事(記事紹介記事)を載せることにした。
先の戦争(大東亜戦争・太平洋戦争)の「政治記事」は腐るほどあるが、せめて、下に書かれたような「戦争の概要」と、「庶民にとっての戦争(開戦の高揚感)」については国民的常識としてほしい。後者は、「時代閉塞の状況」に鬱屈した国民大多数の気分に風穴が開いたのであり、それは、常に戦争前からの「戦争肯定論」を起爆剤としている。
今の日本もそれに近いかもしれない。もちろんそれは「帝国主義が当たり前」の時代的精神状況でもあるが、国民がいかに集団的熱狂状態に陥りやすいかは、いつの時代も変わらず、邪悪な権力(政府だけではない。戦争で金儲けをする勢力がむしろ中心。)はそれを利用するのである。


(以下引用)
黒須 裕子 投稿日:2023/09/18 13:39 

【305】中国では「九・一八事変」という「満州事変(まんしゅうじへん)」。明仁天皇は、「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と、2015年の年頭挨拶で述べた。


昭和6年(1931)9月18日、柳条湖(りゅうじょうこ)で日本の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した。関東軍はこれを中国軍の行為として出兵し、満州事変の口火を切った。


 満州事変(まんしゅうじへん)は1931年9月に起きた柳条湖 (りゆうじようこ) 事件に始まる日本の満州侵略戦争。かねてから満州占領の機会をねらっていた日本軍は,奉天近郊の柳条湖で鉄道爆破事件を起こして軍事行動を全満州に広げ,翌1932年満州国を成立させた。1933年には熱河省を占領して塘沽 (タンクー) 停戦協定を結び,満州国に編入した。中国の提訴を受けた国際連盟は,リットン調査団を派遣し,この事実を日本の侵略と判断した。そのため,日本は1933年国際連盟を脱退。(出典 旺文社世界史事典 三訂版)


 日本国内では,満州事変がファシズム体制成立への端緒となり,若槻礼次郎内閣が倒れて犬養毅内閣が成立したが,五・一五事件によって斎藤実内閣に取って代られ,政党内閣に終止符が打たれた。こうして日本のファッショ化と国際的孤立が急速に進み,満州事変は日中戦争へ,さらに太平洋戦争へと拡大されていった。(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)


 太平洋戦争は1941年12月から 1945年8月までの間,アメリカ合衆国,イギリスを中心とする連合国と日本との間で戦われた戦争をさし,広義には第2次世界大戦に含まれる。太平洋戦争という呼称はアメリカにとって太平洋での戦いであったために名づけられたもので,戦時中の日本では大東亜戦争と呼ばれていた。日本の敗戦後,連合国の占領を受けてからは日本でも太平洋戦争と呼ばれるようになった。(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)


 太平洋戦争は日本が日中戦争を行いながら武力南進策をとったことに起因する,米・英・中・ソ・英連邦諸国など連合国との戦争。当時の日本での呼称は大東亜戦争。日本は,中国の抗戦意思を挫折させるため,1940年(昭和15)援蒋ルート遮断を目的に仏印進駐を実行。さらに,フランスの降伏に代表されるドイツ勝利の報で南方植民地へ侵攻を始めた。
 同年9月27日の日独伊三国同盟締結はアメリカとの対立を深め,アメリカは,41年7月25日の在米日本資産凍結,8月1日の石油の全面禁輸によって南進阻止をはかった。41年12月8日,宣戦布告の手交前になされた真珠湾攻撃によって戦争勃発。日本とアメリカは,反対の陣営に立って第2次大戦にも参入することになった。
 緒戦は日本が優勢で42年半ばには支配領域が最大になったが,ミッドウェー海戦での敗北後,補給線が続かず制空権・制海権維持のための地上基地の不足によって連合国軍の反攻にあった。米海軍は中部太平洋から島づたいに北上し,米陸軍はニューギニア・フィリピンから進攻した。
 この間,日本は汪兆銘(おうちょうめい)政権や,連合国の植民地だった地域を大東亜共栄圏とよんだが,実態は日本への資源供給地としての位置づけにすぎなかった。輸送船団の崩壊,本土空襲,国民の戦意低下,原爆投下,ソ連参戦がポツダム宣言受諾を決意させた。45年9月2日降伏文書調印。(出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」)


 そして日本降伏から70年後の2015年(平成27)年、明仁天皇(当時)は1月1日の年頭挨拶で満州事変に言及した。その一節は下記のとおり。


「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」。


 天皇陛下のご感想(新年に当たり)平成27年 より
https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gokanso/shinnen-h27.html


 この年頭所感をうけて、矢部宏治氏は、今上天皇の「おことば」を収録した『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』(小学館刊)を2015年6月30日に出版した。


 以下、同書の紹介記事、目次などを貼り付けます。


●明仁天皇と昭和天皇の最大の違い おことば収録本の著者考察
https://www.news-postseven.com/archives/20150630_332536.html?DETAIL
2015.06.30 07:00 週刊ポスト


(貼り付け始め)


今年1月1日の年頭挨拶、天皇はこう述べた。


「本年は終戦から70年という節目の年に当たります」


「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」


「象徴天皇」という制約のもと、政治的言動の許されない天皇が、「満州事変」という具体的な外交事変の名を口にしたのは異例である。1931年、本国の指令を聞かずに暴走した関東軍は南満州鉄道を爆破、中国側の破壊工作だと発表して軍事行動に移った。


「この事変をきっかけに日本は戦争への道を進みはじめる。軍部の暴走に、政府は、そして憲法はいかにストップをかけられるか──国の“ありかた”を考える上で、満州事変は戦前の大きな反省であり、戦後乗り越えるべき課題でもある。わざわざ具体名まで口にしたのは、日本がいま危険な方向に向かいつつある、との警鐘だと私は思いました」


そう語るのは、今上天皇の「おことば」を収録した『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』(小学館刊)を6月30日に上梓する矢部宏治氏である。


「私は天皇という立場にある方の言葉だから、『聞いてほしい』というわけではありません。ひとりの知識人、思索と行動を兼ね備えた尊敬できる方の言葉だから、もっと知ってほしい、と思ってこの本を書きました」


同書は、“声なき人々”の苦しみに寄り添いながら、天皇が折々に発した29のおことばを、写真家・須田慎太郎氏の写真とともに紹介している。須田氏は、天皇の訪れたサイパン、パラオ、沖縄、広島、福島に赴き、その足跡を辿った。そこから浮かび上がってきたのは平和への切なる思いを抱きながら、象徴天皇のあるべき姿を体現しようと努める天皇の固い意思だった。冒頭に紹介した年頭挨拶も、その思いが貫かれた言葉の一つだ。


「日本はなぜ、戦争を止められなかったのか。この究極の問いに対して、もっとも深く、強く思いを巡らしてこられたのが明仁天皇ではないでしょうか。明仁皇太子が天皇に即位するため、考え続けた最大の問題は、前の時代に起きた大きな過ちをどうすれば自分の時代に繰り返さないで済むか──だったと私は思うからです」(矢部氏)


2013年12月18日、天皇は80歳の誕生日に際して、先の戦争を思いつつ、こんな言葉を発している。


「この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましい限りです。戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行なって、今日の日本を築きました」


その日本は現在、大きな曲がり角にある。安保法制を巡って安倍政権が「解釈」ひとつで憲法を変えようとし、憲法の意義が大きく揺らぎつつあることは誰しも感じるところだろう。矢部氏はこう語った。


「戦前を憂え、その過ちを決して繰り返さないことを誓った明仁天皇が最終的に辿り着いた立脚点──それが日本国憲法です。ここが明仁天皇と昭和天皇の最大の違いだと私は考えます」


昭和天皇も立憲君主制のもと、憲法を守るという意識があったのは間違いない。決して「国民の生活」をないがしろにしたわけではない、と矢部氏はいう。


「その一方、戦前の憲法の法的枠組みのなか、国家の非常事態に際しては、あらゆる制約を超えて行動することが許されるのだという意識を、昭和天皇が持っていたこともまた事実です。それを感じている明仁天皇は、自分は現憲法を徹底して守っていくのだという強い決意を折々に示されているのだと思います」


※週刊ポスト2015年7月10日号



(後略)


会員 投稿日:2023/08/14 19:23 

【304】知らないうちに始まっていた太平洋戦争に、多くの国民、知識人は感動した。 書籍『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』方丈社(ほうじょうしゃ)編集部・編


1945年8月15日を「終戦の日」とする太平洋戦争は、1941年12月8日に始まった。


 副島隆彦先生がこの戦争について、「戦前の左翼だった人たちのほとんどすべてが翼賛政治の中に流れ込んでいった」、「本当に最後まで戦争に反対し続け、弱々しい声ながら、抵抗したのは、詩人の秋山清(あきやまきよし)と、金子光晴(かねこみつはる)」、「清沢洌(しぶさわきよし)が、『暗黒日記』を書いて、戦争中もブツブツと戦争への抵抗を書いた」と、学問道場で書いて教えてくださった。初めて読んだときの驚きを今でも覚えている。


 書籍『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』は、出版社の方丈社(ほうじょうしゃ)編集部が、戦争を体験したことのない世代が、ほとんどとなりつつある現在、日本が体験した直近の戦争を振り返り、「あの日、日本人は戦争をどう感じ、何を考えたのか?」を追体験するという意図のもとに編集し、2018年に刊行したアンソロジー集である。


 昭和16年12月8日太平洋戦争が勃発した日、当時の知識人や著名人、政治家が何を考え、どう感じたのかを、それぞれの日記や回想録などから抜粋し掲載している。


 書評2つと書籍の目次を以下、紹介します。


奈良県立図書情報館Web掲載の「図書館員の気になる一冊」
https://www.library.pref.nara.jp/reference/kininaru/2991 より


(転載始め)


『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』


 街頭で微笑みながら「米英に宣戦布告」の新聞に見入る一組の男女の姿。この印象的な写真を表紙に使用している本書は、知識人・著名人の日記や回想録から太平洋戦争勃発時の状況や心情を抜粋し紹介するという他に類を見ない本です。


 昭和16(1941)年12月8日午前7時のラジオが国民に開戦を知らせました。以降同日午後9時までのラジオニュースを時系列で挿入しながら、思想家・作家・詩人・評論家など54名の開戦に対する反応と、太宰治の短編小説『十二月八日』、武田砂鉄氏による解説が収録されています。


 喜びや興奮を爆発させた人、解放感や期待感を覚えた人、死を思った人、自責の念に駆られた人・・・残された言葉から当時の人々の様々な心象や感情、空気感を読み取ることができます。開戦を歓迎し、期待と興奮で高揚する言葉が多く綴られていることに驚かされます。そして、作家の野口冨士男がアメリカと戦闘状態になればアメリカ映画は見られなくなるとの理由で妻子をともなって映画鑑賞に出かけたというエピソードに顕著なように、どこか対岸の火事とでもいうような切迫感や緊張感がそれほど感じられないのは、その後の激戦や夥しい犠牲者数、原爆投下や敗戦を知るよしもないからでしょうか。


私たちは12月8日というある1日が、敗戦への道筋へと進む1日となったという歴史的結果を知っています。何気ない日常から非日常へと大転換した1日。本書を一読して、今という時がどういう道筋へと繋がるのか、今日という日、明日という日が本当に日常の1日なのか、未来の結果を知らない私の頭にそんな疑いがふとよぎるのでした。


(転載終わり)


【書評】朝、目覚めて、戦争が始まっていたら何を思うか……。70年前の著名人が残した衝撃的な言葉
https://ddnavi.com/review/485826/a/
文=碓氷 連太郎 公開日:2018/9/10


(転載始め)


 1941年12月8日、午前7時にラジオから臨時ニュースが伝えられた。
「帝国陸海軍ハ今8日未明西太平洋ニオイテ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ」
 太平洋戦争が始まったことを、国民に伝える内容だった。


『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』(方丈社編集部:編集、武田砂鉄:他/方丈社)は、当時活躍していた知識人や著名人がこの12月8日をどう受けとめていたのか、彼らが遺した日記や回想録から読み解いていく本だ。とはいえそれまで何もなかったのに、いきなり真珠湾を目指したわけではない。日本は1931年の満州事変以降、10年もの間中華民国(当時)に攻撃を仕掛けていた。いわば日本人は、その頃すでに戦争的な空気に慣れていたと思われる。だから意外と、驚きは少なかったのではないだろうか?


 読む前からそう予測していたものの、たとえば17歳だった吉本隆明の、


「ものすごく解放感がありました。パーッと天地が開けたほどの解放感でした。」


 という無邪気な言葉や、22歳だった詩人の黒田三郎の、


「今日みたいにうれしい日はまたとない。嬉しいというか何というかとにかく胸の清々しい気持だ。」


 という言葉を目にして、正直面くらった。


「いよいよはじまったかと思つた。なぜか體ががくがく慄へた。ばんざあいと大聲で叫びながら駆け出したいやうな衝動も受けた。」


 と書き遺したのは、児童文学作家で当時28歳の新見南吉だ。新見の『ごんぎつね』は小学校の教科書にも載っているので、親しんだ人も多いだろう。哀しさが漂う児童文学を書いた作者は、開戦を「ばんざあい」と思っていたのだ(しかし彼は終戦を見届けることなく、1943年に結核で亡くなっている)。


 権力や体制に反抗的というイメージを持ってしまいがちな作家や思想家が、軒並み開戦を肯定的に受けとめる言葉を遺している。それは彼らがまだ若く、また時代の空気もあって戦争がどんな悲惨を招くかに、思いをはせられなかったことによるものかもしれない。しかし51歳のジャーナリストの清沢洌こそ、


「けさ開戦の知らせを聞いた時に、僕は自分達の責任を感じた。こういう事にならぬように僕達が努力しなかったのが悪かった」


 と言っているものの、やはりジャーナリストで73歳だった鶯亭金升ときたら、


「明治の日清、日露、両戦役と異りて、我が大日本国空前の戦いなるかな、老の身も若やぐ心地して心神爽快、旭日輝く空を見上げて拳を握る」


 の有様だ。


 彼らの真意がどこにあるかはもはや確かめようがないが、多くが反骨どころか概ねイケイケで捉えている。太平洋戦争は軍部が暴走したから始まったのではなく、知識人はじめ市井の人たちも、ある意味で後押ししていたことがよくわかった。


 解説を担当した武田砂鉄さんも、巻末で、


「この企画を聞かされた段階では、さぞかし重々しい絶望が個々人を襲ったのだろうと推測したが、いざ、読み進めると、そこには、日常を揺さぶられまいと力む言葉があれば、むしろ歓待し、テレビゲームのリセットボタンを押すような快感を覚えている言葉すら見受けられた。それこそ正常性バイアス、これから起きようとしていることは、私たちの日常にとって必要なことなのだと、どこか清々しく受け止められていた。


ええ、そうなると思ってましたよ、こうなるべきだったんですよ、とそのまんま受け止める。泥沼に足を突っ込むのではなく、リセットボタン。あえて俗っぽくいえば、ワクワクしてすらしていたのだ。」


 と書いている。武田さんの言葉を借りれば正常性バイアスとは、有事に直面した人間がこんなことはあり得ないという先入観や偏見を強めることで、眼前の物事を、あくまでも正常の範囲であると認識する心のメカニズムのことだそうだ。

(後略)


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