膨大な著作の内容(あるいは暗黙のうちに伝えている内容)を、その結論が裏切っている、というのが面白い。そして、多くの著作において、その「結論」は、実は子供の頃から頭に刷り込まれてきた社会的ドグマでしかないのではないか。
仮に、この「ペリリュー・沖縄戦記」を読書ガイドなどの書き手が一言で要約するなら、その「内容を裏切る結論部分」に基づいて、「正しい戦争はある」もしくは、「アメリカの、あの戦争は正しい戦争だった」ということになってしまうわけだろう。
そして当然、日本の側も「日本の、あの戦争は正しかった」とする声はいまだに多い。
アメリカほどその声が大きくないのは、これまでは戦争被害者、戦争の惨禍を現実に知っている人がたくさんいたからだ。(靖国神社とは、要するに、戦争で死ななかった上級国民関係者が、自分たちに代わって戦争で死んでくれた人々を祭る、「正しい戦争」の象徴なのである。)
戦争の実体験者の多くは年齢的にはかなり高齢化し、戦争体験を子や孫に伝えている例は少ない。誰が、最悪の記憶を他人に語りたいものか。語るなら義務感からだけであり、それは「反戦活動」という政治的行為、すなわち、一般庶民がもっとも嫌う行為をすることになるのである。人々が政治的行為(特に反体制的政治行為)を嫌うのは、それがしばしば「家族の迷惑」になるからだ。あの家は「アカ」の家だ、と睨まれたくないからである。
さて、「正しい戦争」はあるか、という議論をするか、「防衛戦争は必要だ」という議論にするかで問題は変わってくるわけだが、下に引用された本の内容は、そういう議論以前に「戦争の実体、最前線の実体」を伝えているという点で実に貴重な文章のようである。
日本にも水木しげる(「しげる」の字は漢字だったかもしれないが、失念。)氏の漫画や一部の戦記小説などで最前線の様相は描かれているが、実は、それらを読んでも読者には「戦場の臭い(悪臭)と騒音」は伝わらないのである。
言葉で書かれていても、それは言葉でしかなく、読者にそれを自分の頭で再構成する想像力が無いと何も伝わらない。映画「プライベート・ライアン」冒頭部の戦闘描写は「戦場の騒音」を見事に描いているが、悪臭は伝わらない。弾丸の飛来や爆弾の破裂片の飛来もリアルに感じられるが、硝煙の臭いは伝わらないのである。
膨大な死体の数も、後になればただの数字になる。
多くの死の思い出も忘れられ、膨大な戦死者たちは思い出の中からも消えるという「第二の死」を迎えるわけだ。
(以下引用)
2016-08-30 絶対非戦は「お花畑」か 『ペリリュー・沖縄戦記』
ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』
「戦争はいやだ」という感情に対して
「戦争はいやだ」という反戦・厭戦的感情に対して、ネット上では(あるいはリアルでも)よく「そうだよな。だれも戦争なんか望んでいない。だから攻められたときにはそれを押し返す軍事力で対抗するんだよ(もしくは「だから」ではなく「だけど」でつなぐ場合もあるだろう)」という返事が返ってくるのをよく見る。
たしかに、ぼく自身も個別的自衛権の行使、すなわち自衛戦争を否定する人間ではない。
不合理な侵略があれば、憲法9条のもとで合憲組織として存在している自衛隊が反撃すればいいではないか、と思う。
しかし、9条を擁護する人のなかには、絶対非戦を主張する人もいる。そのような人を「お花畑」と揶揄する空気があることも承知している。*1
「自衛戦争は大義がある。そのための戦争は仕方ないではないか。黙って降伏せよというのか」。こうした意見にたいして、絶対非戦論は、真正面から「戦い」を挑むことになる。自衛戦争に代表される「正しい戦争」(正戦)であっても、決して戦うべきではない、という主張をする絶対非戦論には、ひとつの倫理的な優位がある。戦争は莫大な犠牲をともない、勝者も敗者も深い「傷」を負う愚かしい行為だと主張するからである。むろん、絶対非戦論者は、アメリカのベトナム侵略にたいしても、ベトナム側が立ち向かったような戦争はすべきでない、と主張することになる。
「どんなことがあっても戦争という愚かしい行為はすべきではない」。
この主張・感情は、まずたいていは戦争被害を一方的にうけた人たちから起こりうる。たとえば空襲をうけた住民とか、原爆で人生をめちゃくちゃにされた家族とか、侵略兵に蹂躙された村人とか、そういう人たちである。
敗戦国側の兵士からも起こりうる。絶望的な戦況のなかで無残な死を感じるであろうから。
しかし、戦勝国側からは、どうだろうか。戦勝国にとっては、その戦争は「正戦」であったはずであり、戦争の記憶や記録は、輝かしく彩られることになるのは、容易に想像がつく。戦勝国から「どんなことがあっても戦争という愚かしい行為はすべきではない」という主張は出てきにくいように思われる。
「戦争はすべきでない」とは言わないが…
しかし、ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』はそうではない。本書は、第二次世界大戦で太平洋の島であるペリリューでの戦闘と、つづいて日本の沖縄での戦闘に参加した、米海兵隊の一員による戦闘記録である。
戦勝国側兵士の戦記でありながら、
戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である。(p.466)
と結論付ける。そして、それは読み終えた者がおそらく共通して抱く感慨に違いない。
ただし、急いで付け加えるなら、スレッジは次のように本書を結んでいる。
やがて「至福の千年期」が訪れれば、強国が他国を奴隷化することもなくなるだろう。しかしそれまで自己の責任を受け入れ、母国のために進んで犠牲を払うことも必要となる----私の戦友たちのように。われわれはよくこう言ったものだ。「住むに値する良い国ならば、その国を守るために戦う価値がある」。特権は責任を伴う、ということだ。(p.467)
つまり、スレッジは「戦争は愚かしいものだ」ということには同意するが、「決してしてはならない」ということには同意しない。「正戦」には参加する義務があるとしているのだ。
だが、本書の価値にとって大事なことは本書を読み終えたあと、「戦争は愚かしいものだ」という膨大な事実をぼくらが受け取るということだ。そこから得る最終的な価値判断は、読者に開かれているのであって、スレッジ自身の判断はたまたま「正義の戦争であれば戦わねばならない」ということであったにすぎない。実際、本書の圧倒的部分は「正戦は必要」という主張とは無縁のものである。作品はひとり作者(著者)のものではない。世に送り出された瞬間に、作品は社会のものである。スレッジ個人の最終意見はどうでもいいのだ。スレッジが書いた本書の社会的役割は、まさに「戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である」ということを世に問うことにある。
自分に置き換えて読む
では、本書は、意図的な反戦・厭戦感情の記述で埋め尽くされているかといえば、まったくそんなことはない。
逆である。
従軍のさいに著者がもっていた聖書にはさまれた膨大なメモにもとづき、叙述される詳細な戦闘事実の記録にまず驚かされる。
スレッジが、大学にとどまって士官の身分になれることを放棄し、一刻も早く対日戦に参加するために一兵卒となることを志願するところからはじまって、短期間のうちにブートキャンプで訓練をうけ、ペリリューに強襲部隊として乗り込むまでが最初に描かれている。
学生がどのようにして兵士になっていくのかが、記録としてよくわかる。
そして、ペリリューに上陸する日、それを待機する瞬間の緊張が、わがことにように伝わってくる。アムトラック(水陸両用トラクター)に乗り込み、海上でアイドリングしているあいだのことを硝煙やディーゼル燃料の臭い、艦砲射撃の轟音などとともに叙述した後、スレッジはこう書いている。
戦場では待機する時間がかなりの割合を占めるものだが、後にも先にも、ペリリュー島への進攻の合図を待っていたあの耐えがたい拷問のような時間ほど、極度の苦悶に満ちた緊張と不安を味わったことはない。艦砲射撃が苛烈になるにつれて、いやが上にも緊迫感が募り、体じゅうから冷や汗が噴き出した。胃がキリキリと痛む。喉が詰まってつばを飲み込むのもままならない。(p.92)
上陸してただちに海岸を離れないと格好の標的になること、さえぎるものが何もない飛行場をわたらねばならないときのことを、「ぼくだったらどうするか」と置き換えて読んだ。スレッジの残したメモは膨大だったのだろう。細部にわたる詳細な叙述は、その光景をまざまざと思い起こさせるので、読者はぼくのように置き換えて考えざるをえない。
身を隠すところもない飛行場をわれわれは足早に進んだ。…自分の脚力だけを信じて走っていた。…敵の銃弾が金属的な音を立ててはじけ、体の両側を腰の高さで曳光弾が飛び去っていく。だが炸裂する砲弾のなかでは、小銃弾などどうでもよい気がしてくる。爆音が響き、飛び散る破片がぶんぶんと唸りながら宙を切り裂く。吹き飛ばされた珊瑚の高まりが顔や手を刺し、鋼鉄の破片が都会の道路に降る雹のように硬い岩の上にぱらぱらと落ちる。どこを見ても、砲弾は巨大な爆竹のように閃光を走らせていた。/立ちこめる硝煙を透かして、被弾した海兵隊員たちが次々ともんどり打って倒れるのが見えた。私はもう右も左も見ずに、ただまっすぐ正面を見すえる。前進するほど敵の攻撃は熾烈を極めた。爆発の衝撃と騒音が万力のように耳を圧する。今にも被弾して倒れるのではないかと、歯を食いしばってその衝撃を覚悟する。身を隠せそうな窪地がいくつかあったが、前進しつづけよとの命令が頭をよぎる。誰一人として飛行場を渡りきることなどできないように思われた。(p.122~124)
この記録を読むと、こんな身を隠す場所もないところで、傷ついて倒れた戻って戦友を介抱している。身を隠す場所のない米軍でさえこうなのだから、武田一義『ペリリュー 楽園のゲルニカ』で日本兵が戦友を介抱するのは十分にありそうなことだろうと思った。
わが身に置き換えて読むと、一刻も早くこの戦場を離れたいという感情が沸き起こってくる。そして、死なずに負傷をした場合は、名誉を保ったまま、戦場を離脱することができる。「後遺症が残らない程度に負傷して最前線を早く離れたい」。こんな感情がおきても不思議ではない。負傷して後送される兵士をみて、スレッジが「百万ドルの負傷」と呼ぶのは、まさにそれである。
こうした戦闘そのものだけではなく、スレッジが戦闘中に味わった水のまずさや、充満する死体の臭いの叙述も印象的である。
水がない状況で渇きに耐えられなくなった部隊の一人が、井戸の底にたまった乳白色の水を飲んで激しく嘔吐する。そのあと、作業班がもってきた缶の水をのむスレッジ。
意外にも水は茶色かった。それでもかまわず口を満たした----そしてひどく喉が渇いていたにもかかわらず、思わず吐き出しそうになった。ひどい味だ。錆と油をたっぷり含み、悪臭がする。あらためて手元のコップをみて仰天した。鼻を突く茶色い水の表面に、青い油の膜がゆらゆらとゆれていたのだ。腹がよじれるように痛んだ。/いかにひどくても、この水を飲むか、熱ばてで倒れるかしかない。飲み干すと、コップの底にコーヒー滓のような錆の澱が残り、胃がキリキリ痛んだ。(p.120~121)
死体や排泄物、放棄食糧の放つ悪臭は、繰り返し登場する。
そして、ペリリューの場合は、硬い珊瑚で覆われているために、死体が土に還らず、ウジとハエが大繁殖すること、沖縄の場合は、雨が続き泥まみれになる中で放置された大量の日本兵の死体の臭いが充満していることが描かれる。
お互いの兵士が、敵兵の死体をどう損壊し、辱めるか、あるいは、米兵が日本兵の金歯をとろうとして、瀕死の日本兵にどんな残虐を働くのか、また、日本兵に対してわきあがってくる憎悪についても、スレッジは容赦なく描写している。
ぼくの中で「日本軍の抵抗の無意味」が刻み付けられる
このようなスレッジの叙述全体から、ぼくがうけた抱いた感想は、次のようなものだ。
- 戦勝国アメリカといえども、最前線の兵士は本当に消耗品のようにどんどん死ぬ状況なのだということ。冒頭でスレッジの兵卒志願を「砲弾の餌食」だと嘆く家族の気持ちがものすごくよくわかる。
- できるだけ多く一人でも殺そうとする行為の無意味さ。米兵の側に立った叙述を読むと、日本兵の「頑強な抵抗」の無意味さが際立った。ペリリュー以降、日本軍は「バンザイ突撃」をしてあっけなく死ぬのではなく、網の目のように張り巡らされた陣地を構築して「縦深防御」による徹底抗戦、一大消耗戦をやるようになり、日米ともに犠牲が激増する。もはや戦略的に決着のついた戦争に、「一人でも多くの敵兵を殺すことが祖国侵攻を1日でも遅らせる」と言わんばかりに、戦術的抵抗を試みる。戦術的にみれば「強大な米軍をきりきり舞いさせ、ふるえあがらせた日本軍」であるが、日本兵にとっても、米兵にとっても、そんな戦闘で死ぬ、または悲惨な経験を植え込まれることにどんな意味があったのだろうか。スレッジがp.390で日本兵の死は家族には「天皇陛下の御ために名誉の戦死をした」と告げられるけども「実際は、無駄死にだった」「満足な理由もなく、ただいたずらに失われていったのだ」としているのは、憎まれ口ではなく、まさにこの無意味さへの憐憫である。「カミカゼ」特攻も沖縄でスレッジは見ているが、日本兵は無駄死(犬死)をすることで「尊い平和の礎」になったという感慨がぼくに迫ってくる。
- それは「戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄」という世界観を深化させること。自衛戦争や「正戦」のためであっても、こんな愚劣なことをすべきなのか。早いうちに「負けました」といって、犠牲を生み出さない選択をするほうが、たとえ侵略に屈するにしてもまだマシではないか、そういう感慨にとらわれるのである。絶対非戦論を「お花畑」と批判する人は、逆にこのような戦争の現実を知らない「平和ボケ」の「お花畑」ではないのか。
- ペリリューと沖縄でこんな巨大な消耗をしてしまったら、日本本土侵攻は「米兵百万人の犠牲」が出ると信じても無理はないと思ってしまったこと。「米兵百万の犠牲と日本人20万人の犠牲、どっちがいい?」という神話が生まれる現場はここだろうと思った。ぼく自身が被爆の実相を知らなければこうした神話に傾きかねなかった。
絶対非戦論への再敬意
繰り返すが、ぼく自身は自衛戦争の必要性を依然として主張する左翼である。そのために自衛隊を使うことは必要だと考えている。この点(何らかの正戦の必要性を説く点)はスレッジと似ている。
しかしそうであっても、戦争は愚かしいという思想を、本書を読むことで、深めることができた。うーん、なんと言っていいのだろうか、「戦争はおろかだ」というのはとてもシンプルな世界観なのであるが、それが戦記を読むことでいっそう深まりをもってとらえられるとは正直思ってもみなかった。別の言い方をすれば、絶対非戦論への再敬意である。本当に深い絶対非戦の主張に対して、決して「お花畑」という悪罵を投げつけることなどできないはずだということである。
戦勝国側の戦記がこのような「レベルの高い記録」(p.472)たりえたのは、本書の解説で保阪正康が述べているように、著者スレッジの内省のたまものだろう。保阪はこう書いている。
平時になって著される戦記には、建て前のみが強調されたり、兵士として狂気をかかえこんでいる事実が伏せられていたり、戦場においての残虐行為を避ける記述がめだつ作品も多く、それがゆえに戦闘の実態がわからない書も多い。まるでゲーム感覚のような戦記があらわれてくるのは、著者自身に内省化する能力と知識がないからだろう。本書にはそうした特徴がまったく見られない。(p.472)
そして、保阪が敗戦国である日本側の戦記の状況について次のように記して解説を結んでいるのは、まことに印象的である。
日本軍の将校、下士官、兵士からこのような内省的な作品がかかれなかったことに、私は改めて複雑な思いをもったのである。(p.476)
本書は2008年にようやく出版されたばかりだ。
もっともっと知られてよい、すぐれた戦記である。
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