この世の一切は、与えられたものであり、預かりものであって、だれのものでもない。
という考えは、私には実に自然に思われるのだが、世間の多くの人にとってはそうではないようだ。だから「これは俺のもの」「これは私のもの」という我欲と我欲がぶつかりあい、闘争が起きる。
直近のオデッサの虐殺も、大元を言えば、すべては「所有権」をめぐる争いから来ているのである。つまり、「西側」と「ロシア」がウクライナの所有権をめぐって争っているというのがウクライナ内乱の深層の事実であることは誰の目にも歴然としている。(もちろん、「西側」が一方的に闘争を仕掛けており、この問題ではロシアにはほとんど非は無い。実に珍しいほどに非は無いのである。)
しかし、では所有権を否定した社会が想像できるか、と言えば、これは困難である。
妙な話をする。
子供が泥遊びをしていて、泥団子を作ったとする。その泥団子をきれいな球形にし、固め、固まると表面を磨き、艶を出す。すると、その泥団子はその子供にとっては宝である。実に愛しい、愛しい存在だ。それが愛しい存在であるのは、それが美しいからだけでなく、自分がそれにかけた時間と努力の結果だからでもある。さて、その泥団子を母親が見て「まあ、汚い」と子供から取り上げ、捨てたなら、その子供は母親を恨み、憎まないだろうか。
この子供はその泥団子を自分の所有物と思い、それに限りない愛着、執着を感じるようになっていたのである。これが所有権の起源のようなものだ。「愛着」「執着」である。そして、母親は自分とその所有物を切り離す「敵」となる。その原因となった泥団子は、もとをただせば、ただの泥なのである。
この世のすべての所有物も、この泥のようなものだ。その泥が黄金であっても異性であっても原理は同じである。それらに価値が無いというのではない。たとえば、その泥団子には子供の作業によって「付加価値」がついている。その付加価値や子供のすべての努力を無視した母親の行為は横暴な振る舞いであり、子供の目にはまさに暴君の振る舞いだろう。彼女は子供の「人権」を無視したのである。しかし、その泥団子に対し、子供が所有権を主張できるかと言えば、完全にそうだとは言えないだろう。もともと泥はそこに存在していたのだから。たとえミダス王のように、泥が黄金に変えられたとしても、話は同じである。
話が長くなるので、ここまでとしておく。実は、「ほとんどの母親は子供を自分の所有物と思っている」という話までしたかったのだが、それはまた別の機会に。
いずれにしても、「所有権」という問題は、実に面白い問題である。
般若心経には「以無所得故 心無罣凝 無罣凝故 無有恐怖 遠離一切転倒夢想 究境涅槃」という一節がある。簡単に訳すれば「無所得であるために心にわだかまりが無い。わだかまりが無いから恐怖も無い。すべての転倒した思考や夢想的思考から離れ、最後には涅槃に至ることができる」ということで、「所得」つまり「所有」が、我々を精神的に縛りつけている牢獄の鎖である、ということである。
(以下引用)
この世の一切は、与えられたものであり、預かりものであって、だれのものでもない。
また、”みんなのもの”=共有財産でもある。
あなたのいのち、そのからだですら、「あなたのもの」(=あなたの占有物)ではないのである。
キリスト教などが、自殺否定なのも、無所有の思想に基づいている。
もっとも、現実のキリスト教やなんやは、セールスなので、デタラメを教えてカモをゲットしている。
本来、金持ちはノーサンキューなのだが、カモだから、現実は大歓迎になっているわけだ。
多くの宗教の現実が、サタンの宗教である。
とくに国家元首や宰相が参拝するやつはいけない。
権力者は、なんでも私利私欲で利用する。
参拝は、宗教の政治利用であって、本来の宗教的実践ではないのである。
サタンが”神様”なんぞを拝むのは、自分の所有物や決裁が「神の意思」だと言い張るためである。
自分のわがままを人々に承諾させるために”神様”を引っ張り出してくる…
そして、自分に逆らうことは、神様に逆らうことだと、そういうデタラメを主張する。
彼ら、サタンはいろんなものを引っ張り出して、自分の所有権を主張し、正当化しようとする。
神様でダメなら、法律を使って司直を使う。
それでもダメなら、ゴロツキでも軍隊でも、なんでも使う。
彼らは日々、所有権思想を布教し、人権思想を歪めている。
テレビじゃ、昔、「恐竜が地球を支配していた」などと世迷いごとを繰り返している。
ラジオその他では、「物を盗んではダメだ」と道徳を説くふりをして、所有権思想を植え付けている。
昔、日本人は会社を”ムラ”のようなものと考えていた。
会社は、社員のものでもあり、「共有財産」と考えていた。
だから、会社でケータイを重電したって”盗み”とは思ってはいなかった。
だが、最近は会社は株主の私有物であり、社員のものではないということが”あたりまえ”になってきた。
ホントにこんなことでよいのだろうか?
「会社は誰のモノか」と問うたとき、その公共性をみんな念頭に置いていたが、それはいまやない。
会社は、私有財産であり、所有物(=占有物)であるということで、”公”の観念は消去された。
いや、それどころか、昔「公儀」といえば幕府などの「支配者」を指したように、国を「支配」し、私物化している者を「公儀」ということに戻ってしまった感がある。
永田町や霞が関が、日本を私物化していると、心ある市民は批判するのだが、永田町や霞が関は”自分のモノ”と思っているから、単に権利を行使しているにすぎないと思っている。
「私物化」という批判自体が「ちゃんちゃらおかしい」ものなのである。
また。前回述べたように”民営化”で、国鉄も電信も私有財産となり、私物化された。
こうしてみると、今日の問題は「資本主義」の問題である以前に「私有財産制」の問題であることがわかる。
「私有財産制」とは、公共的なものや、自然のモノ、ときには神様のものでさえ私物化してよいという制度なのである。
いろんなものが、人間でさえ、だれかの「私有財産」として「私物化」されてよいということである。
それゆえにこそ、「タガメ女」という捕食系女子の大繁殖もあるわけだ。
「何をしようと個人の自由」というのは、所有権思想であって、人権思想ではない。
多くの日本人が「個人の自由」をまったく理解していない。
「個人の自由」を侵害することを「人権」だの「個人の自由」だのと言っている始末である。
法というのは、相手との間に結ぶもの。だから、相手を尊重しなければならない。
しかし、所有権思想によれば、「所有者が法」である。どんな無法も許される。
法律をかさにきて「法律だ!したがえ!」とやるのは、所有権思想であって、人権思想ではない。
さあ、みなさん、まだこの”私有財産制”を続けるのですか?
支持して、自然や神や人間をだれかの所有物にして「支配」させることを容認するのですか?
まあ、期待はしません。報いを受ければよいのですから。
ですが、なにゆえこんなことになっているのかは、人間なら知っておくべきだと思います。
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