忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

政治用語の日本語訳という、誰も気づかない大問題
「混沌堂主人雑記」所載の「蚊居肢」記事の引用文だが、長大な記事で、私はつまみ食いならぬ「つまみ読み」しただけである。
で、私の無知のためか、私は「ナショナリズム」を「国家主義」の意味だと思っていたが、それが実は「国民主義」であるらしいことを、下の引用文で知った。(引用はかなり後ろにある)

「国民主義」と「国家主義」はほとんど正反対で、後者は「国家=政府」とした上で、「国家のためには国民はいくら死んでもいい、政府がそう命令するなら死ぬべきだ」という、ファナティックな「愛国主義」という、右翼が大好きな思想になる。だが、「国民主義」だと、「(政府が決めた)戦争のために国民が死ぬのは本質的に間違っている」となる。政府大好き人間だけが戦場に行って死ねばいい。税金を納めるのと徴兵されて生命を失うのはまったく次元が違う話だ。(自主的に軍隊に入った人間は、当然その限りではない。戦場に行って戦うのが仕事であり義務なのである。)

そして、「国民主義」と「民主主義」がまったく別物であるのは言うまでもない。現実として、民主主義は代議政治にしかならないのであり、代議政治は結局は「政府絶対主義(国家主義)」だからである。そして、代議士を操作できるカネと力のある集団(資本家と暴力組織)によって、国家はいくらでも好き勝手に動かせる。

自分の会社に「ナショナル電機」と名付け、大富豪になった後、政治を動かすために「松下村塾(今の政治の悪質なジョーカーとなっている連中の母体)」を作った資本家は、まさに「National」の二重の意味をよく知っていたと言うべきだろう。

最低限、これからは「ナショナリズム=国民主義」と訳すべきである。

下の引用文について言えば、「国民」とは「親族を拡大したもの」であり、「ナショナリズム」は「同じ文化を共有する集団の精神的紐帯」という点では、確かに

《ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義 nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単である。》

と言えるだろう。ナショナリズムの是非や長所短所(他民族への差別性など)は別の話だ。まあ、ナショナリズムが宗教的な「支配性」を持つのは確かだとは思う。
ただし、それは「国家主義」の悪質性とは桁が違う。マイナカード問題や新コロワクチン問題などで分かるように、今や、政府は我々の生活の隅々まで支配しようとしているのである。
つまり、政府が国民の敵となっている以上、「国家主義」と「国民主義」は完全に断絶しているのである。


(以下引用)

フロイトは宗教の事例を出して歴史への固着と抑圧されたものの回帰を語っているが、ネーション自体、宗教として扱いうる、ーー《ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義 nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単である[It would, I think, make things easier if one treated it as if it belonged with 'kinship' and 'religion', rather than with 'liberalism' or 'fascism'. ]》(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体(Imagined Communities)』1983年)

拍手

PR

コメント

コメントを書く