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徽宗皇帝のブログ

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教養と道徳性、無教養と犯罪性

大学の人文系学部削減の問題について、人文系学問の価値と大学の人文系学部学科の価値の混同があるように思う。私は、人文系学問の価値については下の(引用部分の)お二人の考えと同じである。
だが、大学で人文系学問を学ぶ必要は無いと思っている。
と言うより、文系の学問は基本的に独学するのが正しい方法だと思っている。大学で学べば、少しは合理的に学べるかもしれないが、基本は「自分に、学ぶ気がある」ことであり、学ぶ気があれば独学でも学べる、ということだ。(いや、これは言いすぎで、「学問的資料」は大学に行かないと容易には見聞できないかもしれない。大学図書館を一般開放すればいいのだが。)
そして、今の大学の文系学生の中で、大学に学びに来ているという学生がどれだけいるか。大半は、女漁り、男漁りに来ているのではないか。友達や恋人を作って、4年間を楽しく過ごす、というのが平均的な文系学生像ではないか、と思う。そんな学生を大量生産する意味は無い、というのが文部科学省の考えなら、私もそれに同意する。
ただ、国民的合意無しに、文部科学省の独断で(あるいは安倍政権の命令で)強権的に文系学部削減をしようという、そのやり方はまったく気に食わない。お上至上主義そのものである。

なお、教養の価値について言えば、実利的な狡猾さはあるが教養がまったく感じられない人間の代表として堀江貴文(だったか? ほりエモンのことだ。)と橋下徹を挙げておく。
教養は知識とはまったく別であり、知識はあってもそれが教養にはなっていない人間はたくさんいる。ほりエモンの「小説を読むのはコスパが悪い」発言は、まさしくその無教養性を露呈した言葉だろう。橋下徹に至っては、例の文楽への補助金廃止に見られるように、日本文化への憎悪や嫌悪を持っているようにすら感じる。お二人とも新自由主義者で拝金主義者で機会便乗主義者である。こういうのが無教養な人物の代表と言っていいだろう。
昔の庶民は知識量は少なかったが文化的伝統の中で生きており、それが「庶民的教養」であったと思う。芝居や落語は、その庶民的教養の世界だ。第二次大戦の敗戦と属国化で日本は文化的伝統から切り離され、それとともに下品になっていったと私は思っている。倫理や道徳も、その過去の文化の一部だったのだから、今の日本に無道徳な人間(ここでもほりエモンと橋下徹が想起される。)が蔓延しているのも当然だろう。
要するに、教養とは血肉化した文化のことである。ただの知識や情報は教養ではない。
毎日のように現れる凶悪事件の犯罪者の本棚を調査してみたら、教養と道徳性に大きな相関性(比例関係)があることが判明するだろう、と私は考えている。もちろん、教養のある犯罪者もいるだろうが、教養とは「自律性」を生むものでもあるから、犯罪者のほとんどは無教養な人間だろうと私は推測している。なお、「問題家庭」もその家族全体の無教養性から生まれるとも考えている。さらに言えば、安倍政権の愚劣な行動もその政権メンバー全員の無教養性から来ていると思う。(世間で言う「反知性主義」という言葉を私は採らない。これは「主義」というようなものではないからだ。単なる無知・無教養にすぎない。)



(以下引用)



fromdusktildawn @fromdusktildawn 8月22日

  1. 「人文系の学問は役に立つのか?」というと、お金を稼ぐ役には立たない。でも、そもそも何のためにお金を稼ぐのかというと、人生を豊かにするためだ。人文系の学問は人生を豊かにする。結局、人文系の学問も、いわゆる実学も、どちらも人生を豊かにするのだから、価値は変わらない。

    1. 私個人は、哲学によって私の人生はとてつもなく豊かになったと思ってるけど、世の中の多くの人は、哲学とは無縁な自分の人生を誇らしく思ってると思う。


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