下の論文はそういう経済学と心理学の融合という点で非常に興味深く、特に「日本の指導者層の心理学」を見事に説明している。
「主観」による判断や決定だからこそ責任が生まれ、「客観」を標榜することで無責任さが生じる(「俺だけの判断じゃない!」「誰も反対しなかった!」)という逆説も面白い。
(以下引用)私にとって特に興味深い3ページ目以降を転載。「取引コスト」と「埋没コスト」という概念はこれから何かを考察する際の大きな思考素になりそうだ。「限定合理的」というのも、本来は当たり前のことなのだが、それを明確に意識するのは大事だと思う。
「五輪を強行した日本のリーダー」と「太平洋戦争に突っ込んだリーダー」はこんなに似ていた
現代の最新の理論の1つである取引コスト理論によると、すべての人間は限定された情報の中で合理的に行動しようする「限定合理的」な存在であり、またスキがあれば全体の利益ではなく利己的利益を追求する「機会主義的」な存在として仮定される。それゆえ、人間同士で交渉取引する場合、相互にだまされないように駆け引きが起こる。この人間関係上の無駄のことを「取引コスト」という。そのコストは、会計上には表れないコストという意味で「見えないコスト」でもある。
旧日本軍のリーダーたちは、このような人間関係上の取引コストの存在も十分認識していた。それゆえ、たとえ現状が非効率的であっても、現状をより効率的な方向へと変化させることが難しいことも理解していた。というのも、変化させようとすれば、必ず抵抗勢力が出現し、それゆえ彼らを説得するには多大な取引コストが発生するからである。
事実、当時、陸軍の分析でも海軍の分析でも、米国との戦争では勝てないことは十分認識されていた。それゆえ、旧日本軍のリーダーたちはみな米国との開戦を回避しようとしていたのである。しかし、米国との開戦を回避するためには、米国の要求にしたがって日本軍は中国の満州から完全に撤退する必要があった。
しかし、旧日本軍のリーダーたちにとって、それを実行することはほとんど不可能に近かった。東条英機が述べたように、手ぶらで帰れない状況にあった。満州における権益である南満州鉄道、旅順、大連は、日露戦争の結果、何十万人の英霊が血を流して得た権益であり、これまで国家予算のほとんど使って開発してきたのであり、それゆえ撤退すればすべて回収できない埋没コストになった。
そして、そのコストを無視して満州から撤退すれば、国民からの非難は大きく、国民を説得するための交渉取引コストは異常に高いものだっただろう。また、軍内部でも、2・26事件のような青年将校のクーデターが起こる可能性もあり、将兵たちを説得する取引コストもまた異常に高いものであった。さらに、日本軍が満州から撤退すれば、中国における権益にもとづいて将来にわたってえることができる多くの利益獲得機会も失うことになる。それゆえ、機会コストも相当大きいものであった。
これらのコストの大きさを考慮すると、日本のリーダーたちは勝てない米国との開戦を選択することが合理的という不条理に陥ったのである。つまり、当時のリーダーたちの多くは、損得計算すれば、満州からの完全撤退よりも勝てない米国と開戦した方がプラスだという点で一致したのであろう。こうして、不条理な黒い空気の中、国家が悲劇に向かっていることを理解しつつ、日本軍のリーダーたちは開戦を決意したのである。
リーダーにとって五輪は「合理的」だった
同様に、現代の日本のリーダーたちもまた、東京オリンピック開催をめぐって損得計算を行っていたと思われる。もしオリンピックを中止すれば、たしかに国内の人流を抑えることができ、コロナ感染の拡大もある程度抑止できる。また、海外の選手や関係者の入国もないので、新種のコロナウイルスが持ち込まれることもない。
しかし、もし東京オリンピックを中止すれば、膨大なコストが発生する。そのことは容易に想像できたであろう。例えば、もし中止すれば、東京オリンピック開催をめぐってすでに建設されている様々な新施設や新競技場をめぐる膨大な投資はすべて回収できない埋没コストになる。また、オリンピック招聘のために使った費用、開会式や閉会式の費用、そしてその他さまざまな準備費用もまたすべて埋没コストとなる。
しかも、そうしたコストを押してでも大会中止を決断しようとする場合、多くの抵抗勢力や多様な利害関係者を説得する必要があり、その取引コストは膨大なものとなったであろう。さらに、開催によって得られる予定のメリットも得られず、結局、利益獲得のための多くの機会を失うことになる。つまり、多大な機会コストを生み出すことになる。
これら一連のコストの大きさを考えると、オリンピックを中止することはほとんど不可能となる。たとえオリンピックを開催することによって、人々の生命が危険にさらされることになるとしても、開催する方が合理的だという不条理に陥ることになる。
こうして、日本のリーダーたちは東京オリンピックの開催をめぐって損得計算すれば、中止ではなく開催した方がプラスだという計算結果で一致したのであろう。このように、現代の日本のリーダーたちもまた不条理な黒い空気の中で、オリンピック開催を決意したのではないかと思われる。
不条理に陥った日本のリーダーたちのあいまいな態度
以上のような不条理に陥っていたことは、以下のように、日本のリーダーたちの無責任であいまいな態度からも読み取れる。
丸山眞男によると、ニュールンベルグ裁判の法廷でドイツの指導者の1人ゲーリングは、オーストリア併合をめぐって100%自分の責任であると明快に述べたという。もちろん、ゲーリングのみならず、ドイツのリーダーたちの多くは開戦をめぐって明確な責任意識をもっていた。
ところが、東京裁判における日本のリーダーたちの態度はあいまいで、だれも検察官や裁判長の問には正面から答えようとせず、質問の真意を予測して先回りし、あいまいな返答を繰り返した。そして、日本のリーダーたちに共通していたのは、戦争を遂行したにもかかわらず、だれ一人として戦争を行うことを望んでいなかったことである。それゆえ、彼らはみな戦争責任を否定した。
たしかに、日本のリーダーたちは、一方で戦争を欲したかといえば欲したのであり、他方で戦争を避けようとしたかといえば避けようとしたのである。彼らは見えない膨大な取引コストを忖度しつつ、黒い空気の中で、戦争を回避しようとしたにもかかわらず戦争の道を選んだのである。
このように日本軍のリーダーたちは戦争に関して明確な強い意思を持たなかった。それゆえ、彼らは自分たちの行動を道徳化し正当化しようとした。つまり、自分たちの行動を天皇に関わる特殊な用語で正当化しようとしたのである。日本軍は「皇軍」であり、日本の武力による多民族への圧力は常に「皇道」の宣布であり、それは「聖戦」なのであった。このように、日本軍のリーダーたちは、個々の具体的な殺戮行為のすみずみまで「皇道」と関わらせようとした。そして、これによって主体的な責任はあいまい化されたのである。
同じように、現代の日本のリーダーたちも、オリンピック開催をめぐって、ドイツのリーダーたちのような強い意思をもっていなかった。おそらく、だれも強い意思で東京オリンピックを開催しようと思ったものはいない。
たしかに、日本のリーダーたちも東京オリンピック開催を欲したかといえば欲したのであり、延期あるいは中止しようとしたのかといえば、そうしようとしたのであろう。しかし、様々なコストとベネフィットを忖度し、結局、黒い空気の中、コロナ感染の拡大を抑制しつつオリンピック開催をあえて選んだ。
だからこそ、コロナ感染拡大をできるだけ回避するために、ぎりぎりのところで東京オリンピックは無観客開催となった。しかし、これによって資金不足となることが予想されはじめると、だれがその責任を取り、資金を補填し負担するのかをめぐって日本のリーダーたちはみな腰が引け、あいまいな態度をとりはじめた。そして、相互になすりつけ合いすら起こった。国か、東京都か、組織委員会か。
そして、旧日本軍のリーダーたちと同じように、オリンピック開催をめぐって「人類がコロナに打ち勝った証」とか、「安心と安全の大会」とかいったスローガンを打ち出して正当化しはじめた。これによって、オリンピック開催をめぐる主体的な責任をあいまいにしようとしたのである。
不条理の回避と責任
さて、われわれ人間が生きていく上で、損得計算原理に従うことは重要である。しかし、その原理に頼りすぎると、日本のリーダーたちのように、人間はいつかどこかで必ず不条理に陥る。人間は、どうしても人間関係上の取引コストや埋没コストなどを過大評価する傾向があり、他方ベネフィットは過少評価される傾向がある。そのために、日本軍のリーダーたちのように合理的に非効率な道を選択したり、現在の日本のリーダーたちのように合理的に危険な道を選択したりする可能性がある。
このような不条理で無責任な状態を回避するには、裁判官がまず被告の行動をめぐって事実を確定し、その上で次にその行動が正しかったのかどうかを判決するように、まず徹底的に損得計算を行い、その上でその計算結果に従って行動することが正しいのかどうか、より高次の立場から倫理的に価値判断する必要がある。
そして、もし正しいと価値判断すれば、損得計算の結果にしたがって行動すればよい。しかし、もし正しくないと価値判断するならば、損得計算の結果に従うべきではない。これによって、不条理は回避できるのである。
そのような価値判断にもとづく行動はきわめて主観的なので、逆に非常に危険ではないかと思われるだろう。しかし、そうではない。それが主観的だからこそ、そのような行動には責任が伴うのであり、責任が強く求められるのであり、そして責任を明確に意識しなければならないのである。
日本のリーダーたちは、主体的で主観的な価値判断を避け、より客観的な損得計算原理だけに頼ろうとしたために不条理に陥り、責任がぼやけてしまったのである。
カント,I(1976)『道徳形而上学原論』篠田英雄訳 岩波文庫
菊澤研宗(2017)『組織の不条理―日本軍の失敗に学ぶ』中公文庫
丸山眞男(2015)『超国家主義の論理と心理』岩波文庫
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