脱皮と言ってもdappiではなく、文字通り脱皮すべしという趣旨だが、もともと共産主義などに詳しくない私がなぜそんな事を言うかと言えば、立花隆の「日本共産党の研究」を少し読んで、非常に感心し、共産主義や共産党の弱点、あるいは根本的欠陥が分かったように思ったからである。
政党としての日本共産党には、私は非常に好意を持っており、国政選挙で票を入れたことも何度もあるが、その「共産主義」そのものには大いに疑問を持ち続けているわけである。で、できれば「共産党」という名前も変えたほうがいいのではないか、ということは何度か書いている。しかし、自分が共産主義とは何かをロクに知らないので、あまり自信をもっての主張はできなかったのである。
なお、以下で論じる社会主義と共産主義は別物として論じていく。社会主義とはマルクス主義的に言えば、共産主義に至る一過程にすぎないという位置づけだと思うが、私は社会主義こそ政治の最終形態で、共産主義は実現不可能な幻想だ、という意見だ。
なぜそうなるか。それは、マルクスの思想の正統な後継者がレーニンであるとしたら、共産主義とはまったくの空中楼閣になるとしか思えないからである。
最初に、「共産主義の研究」から幾つか引用する。
(徽宗追記)今見つけたツィートだが、共産党の「民主集中制」の一例だろう。まあ、組織というものは多かれ少なかれそういう規約があるとは思うが、その束縛性の強度が共産党の場合、他党とくらべてどうなのか。たとえば自民党などは、そういう束縛の「緩やかさ」は数少ない美点だと思う。
(以下引用)断片的引用なので、理解しやすくするため番号を付けておく。
1:マルクスは「過渡期の国家(社会主義国家)はプロレタリアートの革命的独裁でしかありえない」といい、レーニンも、「これ以外の進み方はありえない」と断言している。
2:「プロレタリアートの独裁は法律によって制限されず、暴力に立脚する」とレーニンは明言している。
3:「資本家がいなくなり、階級がなくなった共産主義社会ではじめて『国家は消滅し、自由を語ることができるようになる』そのときはじめて、ほんとうに完全な民主主義、ほんとうになんの除外例もない民主主義が可能となり、実現されるであろう」(徽宗注:レーニン『国家と革命』)
4:レーニンがこの組織原則(徽宗注:「民主集中制」という、中央集権組織)をとった背景には、革命派が資本主義のもとで多数を獲得することは絶対にできない、労働者の中での多数派すら獲得することはできないという強固な信念があったのである。レーニンにいわせれば、労働者の階級意識というのは、それ自体では、自分たちの経済的利益を守ろうとする労働組合主義にしか至ることはなく、労働組合主義、経済闘争主義は本質的にはブルジョア・イデオロギーだというのだ。
5:トロツキーは、こう予言した。「もし現在の道(徽宗注:ボルシェヴィキの「民主集中制」のこと)を進めば、党は党役員に代行され、党役員は中央委員会に、中央委員会はついに独裁者に代行されるような事態がくるであろう。プロレタリア独裁は、プロレタリアートに対する独裁にいたるだろう」
今日になってみれば、メンシェヴィキの主張とトロツキーの予言がいかに正しかったかは明らかだろう。
6:暴力革命とプロレタリア独裁と民主集中制の組織とは三位一体となっており、この三位一体こそがレーニン主義の真髄であるといってよい。
7:もし共産党(徽宗注:当然、「日本共産党」のこと)が、真に暴力革命路線を捨て、独裁路線を捨て、前衛エリート主義(徽宗注:「民主集中制」のこと)をやめて、平和的、民主的、大衆の多数派獲得の宮本路線(徽宗注:この本は1976年から77年に書かれたものである。)でいくというなら、マルクス・レーニン主義のレーニン主義の部分を捨てることを公然と宣言し、民主集中制という組織原則を変え、組織の体質を根本的に変えていかねばならないだろう。
(以上引用)
私からは何も付け加える必要もないし、現在では「宮本路線」との違いもあるのかもしれないが、ここに書かれた内容は共産党が一般国民の信用を得るためには非常に大事なアドバイスであると私は思う。
まあ、最初に書いたように、私は共産主義は実現不可能であり、社会主義こそが理想的形態だと思っているのである。つまり、政府は国民の満足な生活維持に必要な分配機能だけ持てばいい、ということだ。それを越えて、「平等」まで進もうとすると、必ず無理が出て来るのである。しかも、平等などありえない話で、どんな社会でも「統治者」は必要なのであり、それだけで既に平等は不可能になるのだ。まして、レーニンが理想とする「国家の消滅した状態」など、野獣の世界にしかなりようは無いだろう。
政党としての日本共産党には、私は非常に好意を持っており、国政選挙で票を入れたことも何度もあるが、その「共産主義」そのものには大いに疑問を持ち続けているわけである。で、できれば「共産党」という名前も変えたほうがいいのではないか、ということは何度か書いている。しかし、自分が共産主義とは何かをロクに知らないので、あまり自信をもっての主張はできなかったのである。
なお、以下で論じる社会主義と共産主義は別物として論じていく。社会主義とはマルクス主義的に言えば、共産主義に至る一過程にすぎないという位置づけだと思うが、私は社会主義こそ政治の最終形態で、共産主義は実現不可能な幻想だ、という意見だ。
なぜそうなるか。それは、マルクスの思想の正統な後継者がレーニンであるとしたら、共産主義とはまったくの空中楼閣になるとしか思えないからである。
最初に、「共産主義の研究」から幾つか引用する。
(徽宗追記)今見つけたツィートだが、共産党の「民主集中制」の一例だろう。まあ、組織というものは多かれ少なかれそういう規約があるとは思うが、その束縛性の強度が共産党の場合、他党とくらべてどうなのか。たとえば自民党などは、そういう束縛の「緩やかさ」は数少ない美点だと思う。
共産党には共産党規約十七条ってのがあってな。党員は党の全国方針に反することはできないの。 表現規制問題は超党派で行うものなんだけど、党が表現規制を打ち出すと、共産党員は「表現規制反対という超党派活動」はできないんだわ。
(以下引用)断片的引用なので、理解しやすくするため番号を付けておく。
1:マルクスは「過渡期の国家(社会主義国家)はプロレタリアートの革命的独裁でしかありえない」といい、レーニンも、「これ以外の進み方はありえない」と断言している。
2:「プロレタリアートの独裁は法律によって制限されず、暴力に立脚する」とレーニンは明言している。
3:「資本家がいなくなり、階級がなくなった共産主義社会ではじめて『国家は消滅し、自由を語ることができるようになる』そのときはじめて、ほんとうに完全な民主主義、ほんとうになんの除外例もない民主主義が可能となり、実現されるであろう」(徽宗注:レーニン『国家と革命』)
4:レーニンがこの組織原則(徽宗注:「民主集中制」という、中央集権組織)をとった背景には、革命派が資本主義のもとで多数を獲得することは絶対にできない、労働者の中での多数派すら獲得することはできないという強固な信念があったのである。レーニンにいわせれば、労働者の階級意識というのは、それ自体では、自分たちの経済的利益を守ろうとする労働組合主義にしか至ることはなく、労働組合主義、経済闘争主義は本質的にはブルジョア・イデオロギーだというのだ。
5:トロツキーは、こう予言した。「もし現在の道(徽宗注:ボルシェヴィキの「民主集中制」のこと)を進めば、党は党役員に代行され、党役員は中央委員会に、中央委員会はついに独裁者に代行されるような事態がくるであろう。プロレタリア独裁は、プロレタリアートに対する独裁にいたるだろう」
今日になってみれば、メンシェヴィキの主張とトロツキーの予言がいかに正しかったかは明らかだろう。
6:暴力革命とプロレタリア独裁と民主集中制の組織とは三位一体となっており、この三位一体こそがレーニン主義の真髄であるといってよい。
7:もし共産党(徽宗注:当然、「日本共産党」のこと)が、真に暴力革命路線を捨て、独裁路線を捨て、前衛エリート主義(徽宗注:「民主集中制」のこと)をやめて、平和的、民主的、大衆の多数派獲得の宮本路線(徽宗注:この本は1976年から77年に書かれたものである。)でいくというなら、マルクス・レーニン主義のレーニン主義の部分を捨てることを公然と宣言し、民主集中制という組織原則を変え、組織の体質を根本的に変えていかねばならないだろう。
(以上引用)
私からは何も付け加える必要もないし、現在では「宮本路線」との違いもあるのかもしれないが、ここに書かれた内容は共産党が一般国民の信用を得るためには非常に大事なアドバイスであると私は思う。
まあ、最初に書いたように、私は共産主義は実現不可能であり、社会主義こそが理想的形態だと思っているのである。つまり、政府は国民の満足な生活維持に必要な分配機能だけ持てばいい、ということだ。それを越えて、「平等」まで進もうとすると、必ず無理が出て来るのである。しかも、平等などありえない話で、どんな社会でも「統治者」は必要なのであり、それだけで既に平等は不可能になるのだ。まして、レーニンが理想とする「国家の消滅した状態」など、野獣の世界にしかなりようは無いだろう。
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