北林あずみ氏(名前から想像しにくい、老齢の男性である。政治的知識量と思考の緻密さと粘りが凄い)のブログ記事である。例によって超長文なので、一部だけ転載する。
(以下引用)下線と赤字にした部分は徽宗による強調。戦争には「侵略戦争」と「防衛戦争」の違いはない。そんなのはただの名目で、庶民にとっては、ただの大量死と飢餓である。
立憲民主党についてみてきたが、日本共産党の党勢の翳りの要因は何だろうか。
わたしは二年前まで「戦略的」に日本共産党を支持し、JCPサポータだっただけに、わたしのように日本共産党に幻滅した支持者が離れていったことが大きな要因だと思っている。
何故にわたしが日本共産党を支持していたかというと、日本の政党の中では、わたしの想い描く社会の実現に一番近い政党だと思えたからだ。
わたしはマルクス・レーニン主義を否定している。マルクスの思想も西欧近代主義批判の部分を受け継いでいるつもりだ。どちらかというと否定的だ。
そんなわたしが日本共産党を支持したのは、日本共産党しかマシな政党はこの国には存在しないし、この政党こそが憲法改悪を阻止し得る政党であり、平和憲法の精神を広く社会に浸透させられる政党だと思ったことによる。
日本共産党の中に理性信仰と科学信仰があることは承知していたが、第一次産業の保護政策など保守的政策を打ち出してきたことから、いつか軌道修正されるという淡い期待もあった。だから、理性信仰と科学信仰の匂いが鼻についたが、我慢してきた。日本共産党を大きくすることでしか、この国の平和は守れないという強い危機感が、わたしの日本共産党支持を後押ししたといえる。
そんなわたしが日本共産党に幻滅し、見限ったのは、ウクライナ戦争への対応だった。
この国の平和を死守する砦とばかり思っていたが、日本共産党が砦になり得ないという事実を突きつけられたからだ。失望が憤怒に火を点けた。Twitterで、そしてブログで、日本共産党批判を展開したのだった。
日本共産党がナショナリズムに絡め取られたのには正直驚いた。一国社会主義を掲げているだけに、ナショナリズムに呆気なくやられてしまったのだろうか。日本共産党の危険極まりない側面を見せつけられたといえる。
志位和夫は「ウクライナ戦争=祖国防衛戦争=正義の戦争」としてみているのだ。あまりにもお目出度い。2014年のユーロ・マイダンからのウクライナの政治的流れを謙虚に辿れば、ゼレンスキーの演説に感情移入し、そして英雄視し、スタンディングオベーションなどという破廉恥な行為はできないはずだ。が、志位和夫は拍手喝采でその破廉恥をやってのけたのだ。わたしは自分の目を疑った。
ゼレンスキーは女子どもも含めた総力戦体制での祖国防衛戦争を明言した。総力戦体制での祖国防衛戦争がどういう様相になるか、志位和夫は想像すらもできない様子だった。沖縄戦を想い浮かべるだけでそのおぞましい地獄絵図がみえてくるはずだ。
日本共産党では平和は守れない。そして平和憲法の精神も守れないと知らされた思いがした。
平和憲法の前文と9条は、「戦争=絶対悪」という祈りにも似た誓いだ。戦争は絶対にしない。たとえ祖国防衛戦争であったとしてもだ。戦争は常に祖国愛と祖国防衛の美名の下に行われてきた。先の戦争もそうだった。沖縄戦は本土防衛のために捨て石にされたのだ。祖国愛と祖国防衛がもたらしたものは、祖国の徹底的な破壊と、民衆が地獄絵図を這いずり回されただけだ。歴史が教えてくれている。
日本共産党は「ウクライナ戦争=祖国防衛戦争=正義の戦争」とし、その上で「専守防衛論」を金科玉条として掲げているが、その論理でいうと、「専守防衛論」では戦争は防げないことになる。つまり「専守防衛論」を掲げた時点で、平和憲法の「戦争=絶対悪」を逸脱してしまっているのだ。
が、日本共産党は平然と、平和憲法は祖国防衛に専守した戦争は認めているというのだ。こういう姿勢だから、ウクライナ戦争を長引かせるための「人道支援」という美名の衣装をまとったウクライナ支援に前のめりなのだ。
詳しくは、前に書いたいくつかの日本共産党批判のブログを参照してほしい。重複するし、これ以上冗長な記事にしたくはないので割愛するが、絶対的な平和主義者は、ウクライナ戦争の対応で日本共産党に幻滅し、消極的支持を返納した人たちが多かったように思う。
二つ目は、ウクライナ戦争でも顕著な形で露見していたのだが、中村哲医師が日本のアフガニスタン支援について批判的に書いていたように、日本共産党の視点が、あまりにも欧米の視点に偏りすぎているという側面だ。
欧米の視点というと漠然としているから具体的にいうと、西欧近代主義における欧米中心主義と人間中心主義を土台とした、自由と平等と基本的人権の尊重と民主主義という「普遍的価値」で、何でもかんでも、「正義は我にあり」と言って大上段からバッサリと切り捨てることだ。これではたまったものではない。中村哲医師が言っているように、日本の歴史でいうと江戸時代を生きているアフガニスタンの社会に、欧米中心主義の「普遍的価値」など持ち込んで、やれ正義だ、やれ悪だとレッテルを貼って食料支援を止めたり、自由と平等のための教育整備だなどと欧米式の学校を建てたって、今日食うものがないのにアフガニスタンの民衆はどうやって生きて行くのだ、アフガニスタンの歴史と風土と慣習など無視して、欧米中心主義でしかない「普遍的価値」で生きろ、と強いるのは「死ね」というに等しい行為だと判らないのだ。アフガニスタンの風土は過酷だ。生きる基盤が脆い。ほとんど砂漠のような風土に近い。その脆弱な風土のアフガニスタンにこれでもかと空爆しておいて、「さあ、これからは自由と平等と基本的人権の社会だ」などとほざいたって、今日をやっとで生きているアフガニスタンの民衆にとっては何のありがたみもない。有り難がるのは、首都のカブールで欧米式の生活をしている一部の富裕層だけだ。
中村哲医師の言葉は、わたしにいろいろな視点を教えてくれたといえる。
今度のイスラエルによるガザ地区への無差別爆撃でも、日本共産党の視点は、あまりにも欧米中心主義的だ。無理もない。志位和夫をみれば判るとおり、西欧近代主義バンザイであり、理性信仰と科学信仰の人だからだ。無邪気であり、お目出度い。
こうした日本共産党の欧米中心主義を見せつけられれば、消極的支持者の許容範囲を逸脱してしまうことになるのではないか。
三つ目は、二つ目とも関連するが、欧米中心主義という点でいうと、日本共産党はリベラルを自認する立憲民主党とも、自民党とも共通しているといえる。
図らずも、「ウクライナ戦争=祖国防衛戦争=正義の戦争」という等式を、れいわ新選組以外のすべての政党が共有したことで、翼賛政治的雰囲気と色彩を浮き立たせたが、欧米中心主義という括りをすれば、自民党から日本共産党までが同じ船に乗っているという本質が暴露されてしまったといえないか。
ウクライナ戦争とイスラエルによるガザ地区への無差別爆撃を契機にして、欧米中心主義が大きく揺らぎ始めてきたことが否応なく見えてきた。これまでのように、欧米中心主義によるご都合主義でしかない「普遍的価値」を振り回すだけでは、自殺行為にもなり得るだろう。日本共産党は日本の政党の中で異質であり、特異だと思われてきたが、欧米中心主義の「普遍的価値」という視点でみれば、何ら異質でもなく、特異でもないことが暴かれてしまったといえないか。翼賛政治に飲み込まれてしまう可能性は大いにある。現実としてウクライナ戦争の対応は翼賛政治そのものだろう。
こうした日本共産党の素顔が暴かれてしまうと、日本共産党に幻滅して支持を止める支持者もいるのではないだろうか。
四つ目は、日本共産党という組織内部のゴタゴタだ。日本共産党という組織の民主主義的運営に関するゴタゴタだが、この問題に嫌気がさして支持を止めた支持者がいるのではないだろうか。
(以下引用)下線と赤字にした部分は徽宗による強調。戦争には「侵略戦争」と「防衛戦争」の違いはない。そんなのはただの名目で、庶民にとっては、ただの大量死と飢餓である。
立憲民主党についてみてきたが、日本共産党の党勢の翳りの要因は何だろうか。
わたしは二年前まで「戦略的」に日本共産党を支持し、JCPサポータだっただけに、わたしのように日本共産党に幻滅した支持者が離れていったことが大きな要因だと思っている。
何故にわたしが日本共産党を支持していたかというと、日本の政党の中では、わたしの想い描く社会の実現に一番近い政党だと思えたからだ。
わたしはマルクス・レーニン主義を否定している。マルクスの思想も西欧近代主義批判の部分を受け継いでいるつもりだ。どちらかというと否定的だ。
そんなわたしが日本共産党を支持したのは、日本共産党しかマシな政党はこの国には存在しないし、この政党こそが憲法改悪を阻止し得る政党であり、平和憲法の精神を広く社会に浸透させられる政党だと思ったことによる。
日本共産党の中に理性信仰と科学信仰があることは承知していたが、第一次産業の保護政策など保守的政策を打ち出してきたことから、いつか軌道修正されるという淡い期待もあった。だから、理性信仰と科学信仰の匂いが鼻についたが、我慢してきた。日本共産党を大きくすることでしか、この国の平和は守れないという強い危機感が、わたしの日本共産党支持を後押ししたといえる。
そんなわたしが日本共産党に幻滅し、見限ったのは、ウクライナ戦争への対応だった。
この国の平和を死守する砦とばかり思っていたが、日本共産党が砦になり得ないという事実を突きつけられたからだ。失望が憤怒に火を点けた。Twitterで、そしてブログで、日本共産党批判を展開したのだった。
日本共産党がナショナリズムに絡め取られたのには正直驚いた。一国社会主義を掲げているだけに、ナショナリズムに呆気なくやられてしまったのだろうか。日本共産党の危険極まりない側面を見せつけられたといえる。
志位和夫は「ウクライナ戦争=祖国防衛戦争=正義の戦争」としてみているのだ。あまりにもお目出度い。2014年のユーロ・マイダンからのウクライナの政治的流れを謙虚に辿れば、ゼレンスキーの演説に感情移入し、そして英雄視し、スタンディングオベーションなどという破廉恥な行為はできないはずだ。が、志位和夫は拍手喝采でその破廉恥をやってのけたのだ。わたしは自分の目を疑った。
ゼレンスキーは女子どもも含めた総力戦体制での祖国防衛戦争を明言した。総力戦体制での祖国防衛戦争がどういう様相になるか、志位和夫は想像すらもできない様子だった。沖縄戦を想い浮かべるだけでそのおぞましい地獄絵図がみえてくるはずだ。
日本共産党では平和は守れない。そして平和憲法の精神も守れないと知らされた思いがした。
平和憲法の前文と9条は、「戦争=絶対悪」という祈りにも似た誓いだ。戦争は絶対にしない。たとえ祖国防衛戦争であったとしてもだ。戦争は常に祖国愛と祖国防衛の美名の下に行われてきた。先の戦争もそうだった。沖縄戦は本土防衛のために捨て石にされたのだ。祖国愛と祖国防衛がもたらしたものは、祖国の徹底的な破壊と、民衆が地獄絵図を這いずり回されただけだ。歴史が教えてくれている。
日本共産党は「ウクライナ戦争=祖国防衛戦争=正義の戦争」とし、その上で「専守防衛論」を金科玉条として掲げているが、その論理でいうと、「専守防衛論」では戦争は防げないことになる。つまり「専守防衛論」を掲げた時点で、平和憲法の「戦争=絶対悪」を逸脱してしまっているのだ。
が、日本共産党は平然と、平和憲法は祖国防衛に専守した戦争は認めているというのだ。こういう姿勢だから、ウクライナ戦争を長引かせるための「人道支援」という美名の衣装をまとったウクライナ支援に前のめりなのだ。
詳しくは、前に書いたいくつかの日本共産党批判のブログを参照してほしい。重複するし、これ以上冗長な記事にしたくはないので割愛するが、絶対的な平和主義者は、ウクライナ戦争の対応で日本共産党に幻滅し、消極的支持を返納した人たちが多かったように思う。
二つ目は、ウクライナ戦争でも顕著な形で露見していたのだが、中村哲医師が日本のアフガニスタン支援について批判的に書いていたように、日本共産党の視点が、あまりにも欧米の視点に偏りすぎているという側面だ。
欧米の視点というと漠然としているから具体的にいうと、西欧近代主義における欧米中心主義と人間中心主義を土台とした、自由と平等と基本的人権の尊重と民主主義という「普遍的価値」で、何でもかんでも、「正義は我にあり」と言って大上段からバッサリと切り捨てることだ。これではたまったものではない。中村哲医師が言っているように、日本の歴史でいうと江戸時代を生きているアフガニスタンの社会に、欧米中心主義の「普遍的価値」など持ち込んで、やれ正義だ、やれ悪だとレッテルを貼って食料支援を止めたり、自由と平等のための教育整備だなどと欧米式の学校を建てたって、今日食うものがないのにアフガニスタンの民衆はどうやって生きて行くのだ、アフガニスタンの歴史と風土と慣習など無視して、欧米中心主義でしかない「普遍的価値」で生きろ、と強いるのは「死ね」というに等しい行為だと判らないのだ。アフガニスタンの風土は過酷だ。生きる基盤が脆い。ほとんど砂漠のような風土に近い。その脆弱な風土のアフガニスタンにこれでもかと空爆しておいて、「さあ、これからは自由と平等と基本的人権の社会だ」などとほざいたって、今日をやっとで生きているアフガニスタンの民衆にとっては何のありがたみもない。有り難がるのは、首都のカブールで欧米式の生活をしている一部の富裕層だけだ。
中村哲医師の言葉は、わたしにいろいろな視点を教えてくれたといえる。
今度のイスラエルによるガザ地区への無差別爆撃でも、日本共産党の視点は、あまりにも欧米中心主義的だ。無理もない。志位和夫をみれば判るとおり、西欧近代主義バンザイであり、理性信仰と科学信仰の人だからだ。無邪気であり、お目出度い。
こうした日本共産党の欧米中心主義を見せつけられれば、消極的支持者の許容範囲を逸脱してしまうことになるのではないか。
三つ目は、二つ目とも関連するが、欧米中心主義という点でいうと、日本共産党はリベラルを自認する立憲民主党とも、自民党とも共通しているといえる。
図らずも、「ウクライナ戦争=祖国防衛戦争=正義の戦争」という等式を、れいわ新選組以外のすべての政党が共有したことで、翼賛政治的雰囲気と色彩を浮き立たせたが、欧米中心主義という括りをすれば、自民党から日本共産党までが同じ船に乗っているという本質が暴露されてしまったといえないか。
ウクライナ戦争とイスラエルによるガザ地区への無差別爆撃を契機にして、欧米中心主義が大きく揺らぎ始めてきたことが否応なく見えてきた。これまでのように、欧米中心主義によるご都合主義でしかない「普遍的価値」を振り回すだけでは、自殺行為にもなり得るだろう。日本共産党は日本の政党の中で異質であり、特異だと思われてきたが、欧米中心主義の「普遍的価値」という視点でみれば、何ら異質でもなく、特異でもないことが暴かれてしまったといえないか。翼賛政治に飲み込まれてしまう可能性は大いにある。現実としてウクライナ戦争の対応は翼賛政治そのものだろう。
こうした日本共産党の素顔が暴かれてしまうと、日本共産党に幻滅して支持を止める支持者もいるのではないだろうか。
四つ目は、日本共産党という組織内部のゴタゴタだ。日本共産党という組織の民主主義的運営に関するゴタゴタだが、この問題に嫌気がさして支持を止めた支持者がいるのではないだろうか。
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