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徽宗皇帝のブログ

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日本陸軍と阿片商売
「憎まれ愚痴」というサイトから転載。
「東海アマ」ツィッターで「昭和通商」のことを知って、ネットで調べてこのサイトに行き当たったのだが、ネット時代は便利なものである。ついでに、その「東海アマ」氏のツィートも転記しておく。

アマちゃんだ @tokaiama  ·  10 時間

岸信介と朴正煕 陸軍統制派によって朝鮮府と満州の資金的事業経営を委嘱された岸は昭和通商という麻薬販売会社を設立 そこに戦後政治ボスの大半が顔を出していた 笹川良一 児玉ヨシオ 文鮮明 朴正煕 金日成や小泉純也までいた 大東亜共栄圏会だ


なかなか興味深い、戦争秘史である。
下記記事の中にも、面白い情報はたくさん入っている。三井、三菱が阿片商売に深く関わっていたこと、読売が当時から軍部と深くつながっていたこと、敗戦時の公文書隠滅などもその一つ。しかし、日本国旗が阿片の商標だと一部の中国人には思われていた、というのは大笑いである。もっとも、今でも日の丸は一種の阿片効果を一部の連中に対して持ってはいるようだ。
最大の問題は、こうした戦争犯罪者の大半が、戦後にいつのまにか免責されて、いつのまにか政治経済の中心人物となっていることだろう。しかも、それは日本だけのことではないのである。戦後にこれらの戦争犯罪者たちを重用したのは、米国政府なのである。東京裁判で死刑になった連中は、日本の戦後統治の上からは不要とされ、そして見せしめの生贄は必要だから、単に「適当に選ばれた」にすぎない。



(以下引用)



勅令「阿片謀略」
その3:湮滅を免れた奇跡

湮滅を免れた『極秘』文書の奇跡


 筆者自身も、この「阿片戦略」を知ったのは比較的遅い。しかも、紙数がないので省略するが、偶然の機会に恵まれただけであって、他のマスコミ関係者を不勉強呼ばわりする資格は全くない。


 たまたま筆者は、「興亜院」という耳馴れない戦争中の官庁名にぶつかって現代史の不勉強を悟らされ、いささか参っていた。[注3]


 手元の『大日本百科辞典』(小学館)にも、国会図書館の索引カードにも、「興亜院」の項目がない。あとで気が付いたのだが、世界大百科辞典』(平凡社)と『アジア歴史辞典』(同)にはあった。しかし、当局側の「建前」発表の域を出ていないので、むしろ見なかったのが幸いであった。見ていたら、それを引き写して終ったかもしれない。


 どこで調べようかと悩んでいた折、『皇軍“阿片”謀略』(千田夏光著、汐文社、1980年)の宣伝用横帯が目に入った。


「支那事変はアヘン戦争だった?!/蒙疆銀行元行員が語る東条チャハル兵団と金融工作員のアヘン謀略の実態!/興亜院・蒙疆連絡部“経済第一課”の張家口進出から“大東亜薬品(=阿片)会議”の密計に至る、アヘンにからまる戦争の裏面史を抉る!」


 さらには、「大平首相と閣僚たちの黒い結合のルーツは?」とある。


 オヤッ! ギクッ! である。


 謎の「興亜院」が出てきただけでなく、阿片」というドギツイしろものが突如現れたのである。ビックリしないわけがない。


 文中の「蒙疆」(もうきょう)という地名を載せた辞典は、筆者の知る限りでは『広辞苑』(岩波書店)だけであった。「中国の旧察哈爾(チャハル)・綏遠両省および山西北部の称」とある。分りやすくいうと、現在は「内蒙古」と呼ばれているあたりである。日本はここでも、「徳王」と呼ばれる蒙古人をかついで、傀儡政権をデッチ上げていた。


「大平首相」は故人となったが、大蔵省から現地の「経済第一課長」として派遣され、蒙疆の現地で阿片の増産・輸出に携わっていたという。


「興亜院」は、「支那事変中内閣総理大臣ヲ総裁トシ、外務、大蔵、陸軍及海軍ノ四大臣ヲ副総裁トスル対支中央機関ヲ設置」という閣議決定に基づいて設置された。当時、中国での占領地の拡大と各地傀儡政権の樹立を巡って、各省の権限争いが激化し、相次ぐ外相辞任問題にまで発展していた。その、すったもんだの一応の結末が、「四大臣を副総裁とする」異例の中央機関であった。


 紛争の中心は、阿片の利権を巡る特務機関の独断専行であったという。


 副総裁に「大蔵」大臣が並ぶのにも、もっとも理由があった。日本は台湾統治以来、植民地で阿片の「漸減政策」と「専売制度」合せて「阿片制度」)を定め、歳入を確保してきた。塩や煙草、アルコールからの専売収入、高率課税と同じ発想であり、一番手っ取早い収奪方法である。ラストエンペラーの満州国」傀儡政権は、「建国当初の歳入見積り6千 400万元」のうちに「約1千万元のアヘン専売収入」を計上していた。


 だが、これまでの文献には、共通の弱点があった。「回想・記憶・伝聞および2次資料に依拠してなされており、日本側の1次資料がほとんどまったく用いられていない」(資料/日中戦争期阿片政策』)のである。


「抹殺」との関係でいうと、これはやはり、決定的な問題点だといわざるをえない。


 もっとも、証拠不足の理由は明白である。


 阿片に関してだけではない。敗戦直後、当局による「湮滅作戦」が展開されていた。


 8月15日のボツダム宣言受諾発表から3日目の8月18日あたりから、全国の各官庁、軍需工場、団体、会社、そして陸・海軍部隊が、手当りしだいに、戦争中の文書の焼却を始めたのである。


 全国一斉の理由も明らかになっている。当時は内務省が諸官庁の上に立つ位置にあったが、同省の中枢、地方局行政課にいた鈴木俊一(現都知事)が、こう証言している。


「公文書等をやはり米軍に見られては適当でないと思われるようなものは、極力焼却するというようなことで、本省、各府県庁それぞれへ連絡をして、そういう廃棄処分を相当やりました」(『内政史研究資料』)


 だから、冒頭にも記した『極秘』公文書の大量出現は、日本の現代史研究史上まれにみる奇跡的な大事件、といってもいい過ぎではないである。


 注3:「興亜院」はのち「大東亜省」になり、戦後廃止された。私自身がこの不気味な官庁の名を知ったのは、日本テレビ相手の不当解雇撤回闘争中、必要に迫られて、読売新聞副社長から日本テレビ社長に天下り、のち読売新聞社長、現会長の小林與三次の経歴を調べたからである。小林は内務省から興亜院文化部に栄転し、そこで大陸に向かう若者の教育係をしていた。詳しくは本基地「総合はしがきの城/販売中の拙著」『読売新聞・歴史検証』を参照されたい。




勅令「阿片謀略」
その6:陸軍昭和通商

幻の国際商社「陸軍昭和通商」



 しかし、まだまだ謎は深い。江口圭一は、こう記している。


「確保された資料はこの問題の全容解明のためにはまだきわめて限られている。とくに問題の最深層にあるアヘン収益がどのように処理されたかという資料はあいかわらず皆無の状態であり、秘密のベールはなお厚い」


 蒙疆傀儡政権の「歳入」としての予算決算の数字は、一部が明らかになった。だが麻薬販売には、末端価格が桁違いに跳上がるという特色がある。「配給」された阿片は、どのように「大東亜共栄圏」の各段階を潤したのであろうか。


 販売ルートには、お馴染みの「児玉機関」も登場する。阿片を機密費として、戦略上不可欠なタングステンなどの資源を求めたのだが、児玉らは、その手先となった。戦争の相手の重慶側の物資まで、横流しで手に入れていたという。


 阿片独特の機関としては「里見機関」があり、主宰者の里見甫(元新聞記者、中国名リーチェンブー)自身の口述調書が東京裁判に出されている。


 興亜院は、阿片の分配のために「宏済善堂」という阿片問屋を創立したが、里見はその副理事長(理事長空席)となった。関係者の証言によると、「上海でひらかれた興亜院のある会議」のあと、「三井物産上海支店長から招待される。白系ロシア人の、当時としてはこれも日本国内ではご禁制だったヌードショーにも招待される。さらに宏済善堂……の酒池肉林の宴に招待」(『皇軍“阿片”謀略』)という状況もあったらしい。


 だが、「阿片戦略」の需給規模の巨大さ、収益の大きさには、計り知れないものがあるようだ。当初の「イラン」産阿片の輸入についても、超一流の三井物産と三菱商事が激しい争奪戦を繰広げていた。さらには、児玉機関などは足元に及びもつかない、巨大な特殊商社が設立されていた。


「一時期、北米はニューヨーク、南米はペルーのリマとボリビア、ヨーロッパではベルリン、ローマをはじめ満州、中国各地、南方諸地域にわたって支店や出張所をもち、正社員三千人、現地臨時雇用を含めると六千人にも及んだ巨大組織」(『阿片と大砲/陸軍昭和通商の七年』)である。


 これまた、痛恨の一書である。著者の山本常雄は、早大卒業と同時に「昭和通商」に入社した。「両股関節機能障害」による「不具廃疾兵役免除」を「不名誉」と感じる山本は、「国家のために尽せる男だ」と入社を切願した。


 そんな山本に目を掛けてくれた社長の堀三也は、元陸軍大佐で、「東条英機に嫌われ……予備役となったと言われている」人物。会社の統括権は陸軍大臣が握り、資本金は三井物産・三菱商事・大倉商事の三社に割当てられた。関係各所には「陸機密第67号」の通牒で「便宜と支援」が要請された。


 同社への「指導要綱要旨」にいう。


「本会社は国産兵器の積極的海外進出と陸軍所要の外国製兵器及び軍需用原材料、機械類等の輸入を実施し、陸軍の施策遂行とその秘密保持のため設立されたものであるから、その使命を達成するよう積極的に指導する」


「阿片工作」については、何人もの旧社員の証言が収められている。しかし、全容を知るものは堀三也社長(故人)だけ、という組織だったようだ。


 山本は「あとがき」でこう書いている。


「調査部機能による情報収集や牒報・謀略活動をはじめ、物資調達や宣撫工作の見返り品として旧式兵器が枯渇すると満州産の阿片をふんだんに使っていたことなどは初めて知ることであり、わたしにとっては大きな驚きだった」


 末端の販売店には、日の丸が掲げられていた。日本人か日本国籍の朝鮮人を一人雇えば、「日章旗の掲揚」が許可され、「治外法権」が成立した。そのため、「日本の国旗凌辱事件が起り、外交問題に発展することがあったが、よく調べると中国人はそれを国旗とは知らず、アヘンの商標だと思っていたという、まったく笑い話のような滑稽談さえあった」(『陸軍葬儀委員長』)そうである。




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