エマニュエル・トッドの『西洋の敗北』(2024)に関わるインタビュー記事がいろいろ話題になっているね、
ロシアに代表される制度が「権威主義的民主主義」、西側の制度が自由主義的寡頭制ーー権威主義的民主主義[démocratie autoritaire]/リベラル寡頭制[oligarchie libérale]ーーというのは、おそらく一般には意表を突く言い方だろうが、前者は「デマゴギー的デモクラシー」と言い換えうるだろうよ➡︎「デマゴギーなきデモクラシーはない」。もともとデマゴーグには悪い意味はなく民衆の指導者という意味であり、デモクラシー(大衆の支配)にはプーチンのようなデマゴーグが必ず必要。
他方、「自由主義的寡頭制」というのは、まずは「世界資本主義的寡頭制」としたいところだね、
自由主義は本来世界資本主義的な原理であるといってもよい。そのことは、近代思想にかんして、反ユダヤ主義者カール・シュミットが、自由主義を根っからユダヤ人の思想だと主張したことにも示される。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収) |
自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。(岩井克人「二十一世紀の資本主義論」初出2000年『二十一世紀の資本主義論』所収、2000年) |
トッドの『西洋の敗北』Emmanuel Todd, La Défaite de l'Occident(2024)の序論だけだがPDFで落ちていたので覗いてみた。
1960年代以来、WASP文化ーー白人、アングロサクソン、プロテスタントーーが段階的に崩壊し、中心もプロジェクトもない帝国が誕生し、(人類学的意味で)文化を持たず、権力と暴力だけが基本的な価値観である集団が率いる本質的に軍事的な組織が生み出された。このグループは一般に「ネオコン」と呼ばれている。かなり狭いグループだが、原子化されたアノミックな上流階級の中で動いており、地政学的・歴史的な害をもたらす大きな力を持っている。 L'implosion, par étapes, de la culture WASP – blanche, anglo-saxonne et protestante – depuis les années 1960 a créé un empire privé de centre et de projet, un organisme essentiellement militaire dirigé par un groupe sans culture (au sens anthropologique) qui n'a plus comme valeurs fondamentales que la puissance et la violence. Ce groupe est généralement désigné par l'expression « néocons ». Il est assez étroit mais se meut dans une classe supérieure atomisée, anomique, et il a une grande capacité de nuisance géopolitique et historique.(エマニュエル・トッド『西洋の敗北』Emmanuel Todd, La Défaite de l'Occident, 2024) |
ーーこのネオコンの定義を受け入れるなら、先のリベラル寡頭制=世界資本主義的寡頭制は「世界資本主義的ネオコン制」としてもよいかも。 |
プーチンやラブロフなどがしばしば使う集団的西側[коллективного Запада]については次のようにある。 |
米国は国民国家ではなく、帝国的国家と見るべきか?多くの人がそう考えている。ロシア人自身、それを超えているわけではない。ロシアが「集団的西側」と呼ぶものは、一種の多元主義的帝国システムであり、ヨーロッパは単なる属国にすぎないということだ。しかし、帝国という概念を使うには、支配する中心と支配される周辺という一定の基準を使用する必要がある。中心部にはエリートたちの共通の文化があり、理性的な知的生活が営まれているはずである。後述するように、アメリカではもはやそうではない。 Faut-il voir dans les États-Unis, plutôt qu'un État-nation, un État impérial ? Beaucoup l'ont fait. Les Russes eux-mêmes ne s'en privent pas. Ce qu'ils appellent « Occident collectif », au sein duquel les Européens ne sont que des vassaux, est un genre de système impérial pluraliste. Mais utiliser le concept d'empire exige l'observance de certains critères : un centre dominant et une périphérie dominée. Ce centre est censé posséder une culture commune des élites ainsi qu'une vie intellectuelle raisonnable. Ce n'est plus le cas, on le verra, aux États-Unis.(エマニュエル・トッド『西洋の敗北』Emmanuel Todd, La Défaite de l'Occident, 2024) |
序論を読んだ範囲だけだが、私には《西欧ではもはや国民国家は存在しない[à l'Ouest, l'État-nation n'existe plus. ]》という文が一番面白い。トッドはミアシャイマーに十分に敬意を払いつつも、こう書いている。 |
国際関係論の理論家であるミアシャイマーは、西欧ではもはや国民国家は存在しないという、非常に単純な真理を見ようとしない。Mearsheimer, théoricien des rapports internationaux, refuse carrément de voir est une vérité toute simple : à l'Ouest, l'État-nation n'existe plus. 〔・・・〕 国民国家の概念は、民主主義的、寡頭政治的、権威主義的、全体主義的には関わらず、所定の政治体制のもとで、ある地域のさまざまな階層が共通の文化に属していることを前提としている。また、この概念が適用されるためには、当該地域が最低限の経済的自治を享受していることも必要である。Le concept d'État-nation présuppose l'appartenance des diverses strates de la population d'un territoire à une culture commune, au sein d'un système politique qui peut être indifféremment démocratique, oligarchique, autoritaire, totalitaire. Pour être applicable, il exige aussi que le territoire en question jouisse d'un degré minimal d'autonomie économique (エマニュエル・トッド『西洋の敗北』Emmanuel Todd, La Défaite de l'Occident, 2024) |
で、この後は当然、西側諸国ではもはやさまざまな階層が共通の文化に属していない、あるいは最低限の経済的自治を享受していないという話になる。 |
よかったね、極東の島国日本は。いまだ国民国家の妄想に耽れて。天皇制も大きく貢献してるよ。これからも日本文化の粋である象徴天皇制のもとデマゴギー的デモクラシーを固守して、世界資本主義的ネオコン制を蹴散らかさないとな。半世紀ほどは少子高齢化の茨の道に耐えなければならずこの必然的帰結である「低福祉高負担」ーー《「低福祉、高負担」への転換を余儀なくされることとなりかねない》(令和2年度予算の編成等に関する建議、令和元年 11 月 25 日)の「なりかねない」なんてのは大嘘で必ずそうなるよーーは今の若い人に我慢?してもらったらいいさ。こう書くと冗談っぽく読む人がいるかもしれないが、なかばマジで言ってんだぜ。 |
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