「新リストラなう日記 たぬきちの首」というブログから転載。
私自身はタブレット(って何か、実は今一つ理解できていない。モバイルとは別か? もっとも、モバイルの理解もあやふやで、「携帯用小型パソコン」と思っている。タブレットというのは要するに「キーボード無しで、視聴用に限定された電子端末機」くらいのものだろうか。まあ、調べる気もないが)にはほとんど興味が無いし、出先に電子書籍用端末機を持ち運ぶなど、ご苦労なことだ、としか思わないのだが、これからの出版物の運命には少し興味がある。
紙媒体の出版物が今後衰退していく運命にあることは確かだと思うが、では紙の書籍が不要になるか、というと、私はそうは思わない。持ち運びの利便性だけで言っても、文庫本に勝るものは無い。
さらに、下記記事にあるように、電子書籍と紙の書籍を読む場合では頭の働き方自体が違う、という人は多いだろう。電子書籍では「検索」する感じで読むから、どうしても速読になる。目が疲れるので長く画面を見ていたくないから、情報だけを得れば終わり、という読書になるのだ。それが習慣化すると、紙の書籍に対しても同じ読み方しかできなくなる。
ただ、その結果、「情報処理能力」は速くなるのは確かだろう。知識量も増える。だが、教養にはならない読書だと思われる。(「知識=教養」ではない。教養とは人格の一部となった、血肉化した知識のことだ。)
私が大学(中退したが)に通っていた頃、同級生に、ハードカバーの「バイロン詩集」をいつも持ち歩いている気障な男がいたが、小脇に抱えるのが電子端末機ではあまりロマンチックではなさそうだ。そういう小道具としての本の意義もある。
下記記事の中には電子出版の今後の方向についてのいいヒントがある。それは、「読者数の少ない貴重な本を電子化しておき、需要に応じてデータを売り、あるいは即座に製本化する」ということだ。政治的社会的事情で絶版になった「風流夢譚」など、確かに電子書籍化すれば、非常に有益だろう。あるいは、膨大な長さの古典など、電子化してもらったほうがいい。古典などは辞書や索引付きであればもっといい。
紙の本には紙の本の良さがあり、電子書籍には電子書籍の良さがある。問題は、現代社会では皆が皆、「右へ倣え」になるから、紙の本が消えるのではないか、と危惧されることだ。
蛇足だが、リゾート地で優雅に読書をしている白人(シンガポールの話だが、多分そうだろう)有閑階級の読んでいる本が、すべて「ダ・ビンチ・コード」であった、というのはむしろ喜劇的である。あの連中の頭など、しょせんその程度なのだ。いや、「ダ・ビンチ・コード」が問題なのではなく、ベストセラーしか読まない、という人間を私は無教養な野蛮人だ、と言っているのである。
(以下引用)
2012-10-26
Kindleが上陸したけれど、本当に私たちを幸福にしてくれる電子書籍に気づいている人はやっぱり少ない
◆Amazon、日本版Kindle発売
Kindleの日本版ハードウェアが発売になった、ということだが、「どれを買おうか」と浮かれてる人が多いのを奇妙に思う。
どれ一つ、買う必要なんかないじゃん?
みんなスマホ持ってんじゃん。タブレット持ってる人も多いでしょ。iOSにもAndroidにも、Kindleアプリがあって、昨日日本語対応の新バージョンが出たんだから。これならタダだ。
どのデバイスで読んでも、「何を読んでるか」「どこまで読んだか」「書き込み」などがクラウドで同期されるので、トイレでiPhoneで読み、机でiPadで読み、公園でKindle PaperWhiteで読んでも、シームレスに「前回の続き」から読書を再開できる。Kindleが優れているのはこういうことであって、各々のデバイスは陳腐な機械だ。
この秋、どうしても何か新しいハードを買いたいってんなら、Kindle PaperWhiteがいいんじゃないかな。直射日光の下で快適に読めるのはE-inkだから。戸外で使うのが前提ですから、ケチらずに3G版を買うんですよ。
外国のリゾートに行って驚くのは、プールサイドの客がみんな読書をしていることだ。何年も前だけど、シンガポールのホテルのプールでは、ビーチベッドの客全員が『ダ・ビンチ・コード』を読んでいた。その時は近距離飛行機のパイロットまでが飛行中に『ダ・ビンチ・コード』の軽装版を読んでた。運転中にそんなん読むなコラ!と言いたかったが英語ができないので黙っといた。
それが、今じゃみんなKindleに置き換わったのだ。
Kindle Fireとかは意味がないと思う。液晶のデバイスなら他に優れたものがいっぱいあるし、そもそも縦横比16対10の画面では、1頁の表示がぴったり来ない。マンガを左右いっぱいに表示させると、天地が余る。つまり実質的には「画面が小さい」。
どうしても液晶画面で読みたいなら、縦横比4対3のiPadかiPad mini以外に選択肢はなかろう。
僕? 僕はとくに新しいものは買わない。それよかKindleは字間・行間を自由に変更できるようになってほしいよ。外人は、日本語フォント(かな)がプロポーショナルだってことまだ気づいてないから、いまいち読みにくいものしか開発してくれない。たぶんこの辺に気づいて真っ先に対応してくるのは、AppleのiBooksではなかろうか。
◆電子書籍の本懐とは
本命・Amazonがやって来たので、ついに日本でも電子書籍が本格化する、らしい。
もうずいぶん「電子書籍元年」が続いたから、そろそろ翌年になってもいいよね。Amazonのこと「出る出る詐欺」って言ってた人もいたね。
一方で、koboのために用意した電子書籍タイトル数が水増しじゃないかと楽天が消費者庁から怒られた、という話。前から「koboのやり方は見苦しいなあ」と思ってた。買ったのにうまく使えない、とかで困ってた人は、このニュースに溜飲を下げたんじゃないか。
koboのやり方はいくつかの点で間違っている。
一つは、Amazonと同じ方向に走ろうとしたこと。勝てるわけないのに。
もう一つは、koboのサービス(専用webサイトとか、端末での)は検索機能がすごく弱いこと。ここだけが電子書店の命なのに。
いたずらにタイトル数を増やそう(水増ししよう)としたことは本質的な間違いではなく、楽天が電子書籍をどう捉えているか根本的なところでの間違いから派生したものにすぎない、と思う。
いずれにせよ、このままならkoboはAmazonのKindleによってあっという間に食われ、消えてしまう。楽天がkobo事業から撤退するとしたら、これまでkoboで購入した電子書籍を、別のデバイスで読めるよう保障してくれないだろう。すでにそういう前科(「Raboo」)があるし。山岡荘八『徳川家康』全二十六巻 とか、横山光輝『三国志』全三十巻 、とかはkoboでは買わないほうがよい(売ってないか?!)。
もしkoboが生き残れるとしたら、棋譜を配信するとか、野球のスコアを配信するとか、毎朝釣り情報を配信するとか、なんかものすごくニッチな市場を押さえるしかないんじゃないか。野球のスコアなんてニーズが今あるかどうか知らんが。野村スコープ付きだったらちょっと面白いかも、なんてね。
日本の電子書籍は、Amazonの参入(というか到来、だな)でやっと本格化する。しかし、Amazonのやり方も現段階ではイマイチだ。
Kindleには、大手出版社が数多、書籍を出している。紙の新刊との同時発売も多い。
でもそんなのは、電子書籍の意義としては低い。
新刊は、電子で読む必要はない。紙で読むのが読者・書店・出版社・著者、誰にとっても一番良い。電子が売れてもAmazonが喜ぶだけだ。
電子書籍で読まれるべきは、紙ではもう手に入らない本なのだ。
中上健次『枯木灘』 、フランク・ハーバート『デューン砂の惑星』 、『近世神奈川の被差別部落』 といった本が、いつでも、自由に読めるようになるのが電子書籍の最大のメリットであり、理想なのだ。
あ、『枯木灘』は河出文庫 で手に入るか。ごめん。
Amazonがすごいのは、すべての和書のページに「Kindle化リクエスト」のボタンを設置していることだ。抜け目がない。みんな、稀覯本のページではガンガンこのボタンを押してください。
残念ながら、楽天のkoboには、こうした視点はなかったね。余裕がない、思想がない、喜びがない事業だった。
◆日本で一番、電子書籍のことを理解している出版社
AmazonのKindleには、それまでkoboなどに参入していなかった出版社も多数参集している。僕が前に働いていた会社も、ベストセラーの警察小説を目玉として投入したようだ。
でも、何度も言うけど、いま現在、書店で手に入れることができる本を、電子書籍で買って読むことに意味はない。価値がない。メリットがない。
メリットは、電子書籍はかさばらない、というだけだ。電気がなければ昼でも読めないし(反原発で「たかが電気」と言った人がいましたねー)、ページをサッとめくれないし、楽天Rabooみたいにサービス停止されたら昔の本を読み返すこともできなくなる。Amazonのサーバだって万が一、停まらないって保障はない。
紙の本なら、日に焼けて褪色しても、読める。虫に食われたところは穴があくけど、それでも読める。濡れても、読める(防水の電子書籍デバイスはまだないよね)。
作る立場に成り代わって考えても、紙の本のほうがメリットだらけだ。著者は、まとまった印税を受け取れる。書店はリアル物販ができる(多くの雇用を生む、優れた産業である。電子書籍は雇用を減らすので、産業としては望ましくない)。出版社は…在庫を持たねばならないのでちょっとしんどいけど、利益率が一番高いのは紙の本だ。また、写真などの表現力もいまのところ紙が勝っている。
こんなことは、出版社の人ならみーんな気づいているはずだ。
なのに、どこの会社も足並み揃えて、新刊をKindle向けに投入してくる。
バカじゃなかろうか。
失礼、口が滑りました。でも、よそと同じことをやるって、つまらなくないですか? 出版社の中の人さん。
たとえば、電子書籍にいちばんふさわしいのは、こういう本だろう。みんながタイトルを知ってるけれど、誰一人読んだことがない、といった本。
この本を出している志木電子書籍という出版社は、小さいけど、どんな電子書籍が読者を幸福にするか、という哲学をもって活動している会社だ。
たとえば、この会社が深沢七郎『風流夢譚』をKindle向けに出して(きっと近々出してくれると思うが)、もしそれがKindle日本語タイトルのベストセラーリストに食い込んだら、面白いと思わないか? 痛快じゃないか?
世間の大きな出版社で、「どんな本を出したら世界の幸福が増えるだろう」と考えてるところは、どれくらいあるだろうか。電子書籍に限ってでもいい、Amazonのジェフ・ベゾスと「われわれの電子書籍というミッション」について互角に議論できる出版人はどれほどいるだろうか。
とりあえず、日本聖書協会は新共同訳(でなくてもいいが)をKindle向けに出してほしい。聖書マンガアプリじゃなくってね。
個人的には、曹洞宗に『普勧坐禅儀』を出してもらいたい。『正法眼蔵』も出してほしいなー。
◆追記。透過光での読書について
ちょっと追記しておきたい。液晶などの光を発するデバイスで読書するのと、紙やE-inkなど反射光で読書するのとでは、どうも脳の働く部位が異なるようだ(こういう論は前からあるらしいし、近年実感する人が増えてるんじゃないかな)。
目が疲れる、疲れない、というのは気のせいとか馴れの問題で済むと思う。しかし、脳の働き方が違うというのはけっこう問題だ。透過光で読むと批判的に読めない、情動がまさってしまう、というのでは、たとえば荒唐無稽なオカルトが電子書籍の時代に息を吹き返すかもしれないね。
「ゲーム脳の恐怖」があるなら、「スマホ脳」だってあるんじゃないか。と思いませんか(笑)。
私自身はタブレット(って何か、実は今一つ理解できていない。モバイルとは別か? もっとも、モバイルの理解もあやふやで、「携帯用小型パソコン」と思っている。タブレットというのは要するに「キーボード無しで、視聴用に限定された電子端末機」くらいのものだろうか。まあ、調べる気もないが)にはほとんど興味が無いし、出先に電子書籍用端末機を持ち運ぶなど、ご苦労なことだ、としか思わないのだが、これからの出版物の運命には少し興味がある。
紙媒体の出版物が今後衰退していく運命にあることは確かだと思うが、では紙の書籍が不要になるか、というと、私はそうは思わない。持ち運びの利便性だけで言っても、文庫本に勝るものは無い。
さらに、下記記事にあるように、電子書籍と紙の書籍を読む場合では頭の働き方自体が違う、という人は多いだろう。電子書籍では「検索」する感じで読むから、どうしても速読になる。目が疲れるので長く画面を見ていたくないから、情報だけを得れば終わり、という読書になるのだ。それが習慣化すると、紙の書籍に対しても同じ読み方しかできなくなる。
ただ、その結果、「情報処理能力」は速くなるのは確かだろう。知識量も増える。だが、教養にはならない読書だと思われる。(「知識=教養」ではない。教養とは人格の一部となった、血肉化した知識のことだ。)
私が大学(中退したが)に通っていた頃、同級生に、ハードカバーの「バイロン詩集」をいつも持ち歩いている気障な男がいたが、小脇に抱えるのが電子端末機ではあまりロマンチックではなさそうだ。そういう小道具としての本の意義もある。
下記記事の中には電子出版の今後の方向についてのいいヒントがある。それは、「読者数の少ない貴重な本を電子化しておき、需要に応じてデータを売り、あるいは即座に製本化する」ということだ。政治的社会的事情で絶版になった「風流夢譚」など、確かに電子書籍化すれば、非常に有益だろう。あるいは、膨大な長さの古典など、電子化してもらったほうがいい。古典などは辞書や索引付きであればもっといい。
紙の本には紙の本の良さがあり、電子書籍には電子書籍の良さがある。問題は、現代社会では皆が皆、「右へ倣え」になるから、紙の本が消えるのではないか、と危惧されることだ。
蛇足だが、リゾート地で優雅に読書をしている白人(シンガポールの話だが、多分そうだろう)有閑階級の読んでいる本が、すべて「ダ・ビンチ・コード」であった、というのはむしろ喜劇的である。あの連中の頭など、しょせんその程度なのだ。いや、「ダ・ビンチ・コード」が問題なのではなく、ベストセラーしか読まない、という人間を私は無教養な野蛮人だ、と言っているのである。
(以下引用)
2012-10-26
Kindleが上陸したけれど、本当に私たちを幸福にしてくれる電子書籍に気づいている人はやっぱり少ない
◆Amazon、日本版Kindle発売
Kindleの日本版ハードウェアが発売になった、ということだが、「どれを買おうか」と浮かれてる人が多いのを奇妙に思う。
どれ一つ、買う必要なんかないじゃん?
みんなスマホ持ってんじゃん。タブレット持ってる人も多いでしょ。iOSにもAndroidにも、Kindleアプリがあって、昨日日本語対応の新バージョンが出たんだから。これならタダだ。
どのデバイスで読んでも、「何を読んでるか」「どこまで読んだか」「書き込み」などがクラウドで同期されるので、トイレでiPhoneで読み、机でiPadで読み、公園でKindle PaperWhiteで読んでも、シームレスに「前回の続き」から読書を再開できる。Kindleが優れているのはこういうことであって、各々のデバイスは陳腐な機械だ。
この秋、どうしても何か新しいハードを買いたいってんなら、Kindle PaperWhiteがいいんじゃないかな。直射日光の下で快適に読めるのはE-inkだから。戸外で使うのが前提ですから、ケチらずに3G版を買うんですよ。
外国のリゾートに行って驚くのは、プールサイドの客がみんな読書をしていることだ。何年も前だけど、シンガポールのホテルのプールでは、ビーチベッドの客全員が『ダ・ビンチ・コード』を読んでいた。その時は近距離飛行機のパイロットまでが飛行中に『ダ・ビンチ・コード』の軽装版を読んでた。運転中にそんなん読むなコラ!と言いたかったが英語ができないので黙っといた。
それが、今じゃみんなKindleに置き換わったのだ。
Kindle Fireとかは意味がないと思う。液晶のデバイスなら他に優れたものがいっぱいあるし、そもそも縦横比16対10の画面では、1頁の表示がぴったり来ない。マンガを左右いっぱいに表示させると、天地が余る。つまり実質的には「画面が小さい」。
どうしても液晶画面で読みたいなら、縦横比4対3のiPadかiPad mini以外に選択肢はなかろう。
僕? 僕はとくに新しいものは買わない。それよかKindleは字間・行間を自由に変更できるようになってほしいよ。外人は、日本語フォント(かな)がプロポーショナルだってことまだ気づいてないから、いまいち読みにくいものしか開発してくれない。たぶんこの辺に気づいて真っ先に対応してくるのは、AppleのiBooksではなかろうか。
◆電子書籍の本懐とは
本命・Amazonがやって来たので、ついに日本でも電子書籍が本格化する、らしい。
もうずいぶん「電子書籍元年」が続いたから、そろそろ翌年になってもいいよね。Amazonのこと「出る出る詐欺」って言ってた人もいたね。
一方で、koboのために用意した電子書籍タイトル数が水増しじゃないかと楽天が消費者庁から怒られた、という話。前から「koboのやり方は見苦しいなあ」と思ってた。買ったのにうまく使えない、とかで困ってた人は、このニュースに溜飲を下げたんじゃないか。
koboのやり方はいくつかの点で間違っている。
一つは、Amazonと同じ方向に走ろうとしたこと。勝てるわけないのに。
もう一つは、koboのサービス(専用webサイトとか、端末での)は検索機能がすごく弱いこと。ここだけが電子書店の命なのに。
いたずらにタイトル数を増やそう(水増ししよう)としたことは本質的な間違いではなく、楽天が電子書籍をどう捉えているか根本的なところでの間違いから派生したものにすぎない、と思う。
いずれにせよ、このままならkoboはAmazonのKindleによってあっという間に食われ、消えてしまう。楽天がkobo事業から撤退するとしたら、これまでkoboで購入した電子書籍を、別のデバイスで読めるよう保障してくれないだろう。すでにそういう前科(「Raboo」)があるし。山岡荘八『徳川家康』全二十六巻 とか、横山光輝『三国志』全三十巻 、とかはkoboでは買わないほうがよい(売ってないか?!)。
もしkoboが生き残れるとしたら、棋譜を配信するとか、野球のスコアを配信するとか、毎朝釣り情報を配信するとか、なんかものすごくニッチな市場を押さえるしかないんじゃないか。野球のスコアなんてニーズが今あるかどうか知らんが。野村スコープ付きだったらちょっと面白いかも、なんてね。
日本の電子書籍は、Amazonの参入(というか到来、だな)でやっと本格化する。しかし、Amazonのやり方も現段階ではイマイチだ。
Kindleには、大手出版社が数多、書籍を出している。紙の新刊との同時発売も多い。
でもそんなのは、電子書籍の意義としては低い。
新刊は、電子で読む必要はない。紙で読むのが読者・書店・出版社・著者、誰にとっても一番良い。電子が売れてもAmazonが喜ぶだけだ。
電子書籍で読まれるべきは、紙ではもう手に入らない本なのだ。
中上健次『枯木灘』 、フランク・ハーバート『デューン砂の惑星』 、『近世神奈川の被差別部落』 といった本が、いつでも、自由に読めるようになるのが電子書籍の最大のメリットであり、理想なのだ。
あ、『枯木灘』は河出文庫 で手に入るか。ごめん。
Amazonがすごいのは、すべての和書のページに「Kindle化リクエスト」のボタンを設置していることだ。抜け目がない。みんな、稀覯本のページではガンガンこのボタンを押してください。
残念ながら、楽天のkoboには、こうした視点はなかったね。余裕がない、思想がない、喜びがない事業だった。
◆日本で一番、電子書籍のことを理解している出版社
AmazonのKindleには、それまでkoboなどに参入していなかった出版社も多数参集している。僕が前に働いていた会社も、ベストセラーの警察小説を目玉として投入したようだ。
でも、何度も言うけど、いま現在、書店で手に入れることができる本を、電子書籍で買って読むことに意味はない。価値がない。メリットがない。
メリットは、電子書籍はかさばらない、というだけだ。電気がなければ昼でも読めないし(反原発で「たかが電気」と言った人がいましたねー)、ページをサッとめくれないし、楽天Rabooみたいにサービス停止されたら昔の本を読み返すこともできなくなる。Amazonのサーバだって万が一、停まらないって保障はない。
紙の本なら、日に焼けて褪色しても、読める。虫に食われたところは穴があくけど、それでも読める。濡れても、読める(防水の電子書籍デバイスはまだないよね)。
作る立場に成り代わって考えても、紙の本のほうがメリットだらけだ。著者は、まとまった印税を受け取れる。書店はリアル物販ができる(多くの雇用を生む、優れた産業である。電子書籍は雇用を減らすので、産業としては望ましくない)。出版社は…在庫を持たねばならないのでちょっとしんどいけど、利益率が一番高いのは紙の本だ。また、写真などの表現力もいまのところ紙が勝っている。
こんなことは、出版社の人ならみーんな気づいているはずだ。
なのに、どこの会社も足並み揃えて、新刊をKindle向けに投入してくる。
バカじゃなかろうか。
失礼、口が滑りました。でも、よそと同じことをやるって、つまらなくないですか? 出版社の中の人さん。
たとえば、電子書籍にいちばんふさわしいのは、こういう本だろう。みんながタイトルを知ってるけれど、誰一人読んだことがない、といった本。
この本を出している志木電子書籍という出版社は、小さいけど、どんな電子書籍が読者を幸福にするか、という哲学をもって活動している会社だ。
たとえば、この会社が深沢七郎『風流夢譚』をKindle向けに出して(きっと近々出してくれると思うが)、もしそれがKindle日本語タイトルのベストセラーリストに食い込んだら、面白いと思わないか? 痛快じゃないか?
世間の大きな出版社で、「どんな本を出したら世界の幸福が増えるだろう」と考えてるところは、どれくらいあるだろうか。電子書籍に限ってでもいい、Amazonのジェフ・ベゾスと「われわれの電子書籍というミッション」について互角に議論できる出版人はどれほどいるだろうか。
とりあえず、日本聖書協会は新共同訳(でなくてもいいが)をKindle向けに出してほしい。聖書マンガアプリじゃなくってね。
個人的には、曹洞宗に『普勧坐禅儀』を出してもらいたい。『正法眼蔵』も出してほしいなー。
◆追記。透過光での読書について
ちょっと追記しておきたい。液晶などの光を発するデバイスで読書するのと、紙やE-inkなど反射光で読書するのとでは、どうも脳の働く部位が異なるようだ(こういう論は前からあるらしいし、近年実感する人が増えてるんじゃないかな)。
目が疲れる、疲れない、というのは気のせいとか馴れの問題で済むと思う。しかし、脳の働き方が違うというのはけっこう問題だ。透過光で読むと批判的に読めない、情動がまさってしまう、というのでは、たとえば荒唐無稽なオカルトが電子書籍の時代に息を吹き返すかもしれないね。
「ゲーム脳の恐怖」があるなら、「スマホ脳」だってあるんじゃないか。と思いませんか(笑)。
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