最初に新聞記事を引用する。
《東京都議会の本会議で18日、みんなの党会派の塩村文夏(あやか)議員(35)が、女性の妊娠・出産を巡る都の支援体制について一般質問をしていた際に、男性の声で「早く結婚しろよ」「子供もいないのに」などのヤジが飛んだ。同会派は、議員席からだったとして「公の場でセクハラ発言を受けた」と反発。発言議員を特定し、注意するよう議会運営委員会に申し入れる--略--》(以上:毎日新聞6月19日朝刊。ソースはこちら)
当件については、
「あきれた」
という以上の感想は述べないことにする。
個人的な論評を付け加えてどうなる問題でもないからだ。
感想は、記事を読んだ上でそれぞれの裁量で処理してください。
ゲロ袋も、各自用意してくださるとありがたいです。
どっちにしても、バカにつけるクスリは無い。
バカを覚醒させる薬剤が存在するという話もあるにはある。が、覚醒したバカが無害であるとは限らないわけで、だとすれば、うかつな治療はかえって逆効果だ。
北区選出のさる都議会議員が自身のホームページの中で明らかにしているところによると、ヤジのひどさもさることながら、議場では、その下劣なヤジにどっと笑いが起こっていたのだそうだ。
目に浮かぶようだ。
誰がどんなヤジを飛ばしたからその議員を特定して処分をどうこうとか、そういう話をする以前に、議会を満たす空気の殺伐さに圧倒されて、ものを言う気力が湧いて来ない。
……と、こういう話をすると、
「なにを上品ぶってるんだか」
「パチパチパチ。さすがは女性の権益に敏感な文化人さまですね」
みたいな反応が返ってくることになっている。
それもこれも21世紀のお約束だ。
ヤジが下品であること自体については、おそらく、ほとんどすべての日本人が賛成してくれると思う。
あの下衆で下世話で下劣な不規則発言を真正面から支持擁護称賛応援しようという都民は、23区から郡部島嶼をくまなく捜してして歩いても、何十人とは見つけられないはずだ。
それでも、下劣なヤジが下劣である旨を指摘する人間に反発する都民の数は、そんなに少なくない。
なんというのか、「下劣なものの下劣さを指摘している人間の正義の構え」の中に、「正義の立場に立つ者に特有な自己陶酔」を嗅ぎ取るみたいなドヤ顔の本音主義者が、ネット言論の周縁部に蟠踞していて、彼ら「偽善」が大嫌いな論客の皆さんは、
「じゃあ、あんたはサバンナでも同じことが言えるのか?」
であるとか
「一度も罪を犯したことが無い者だけが石を投げなさい」
であったりする十年一日のテンプレートディベートで、今日もご清潔なご意見を葬り去ろうとしているからだ。
今回は、「本音」について考えてみたい。
思うに、議会で下劣なヤジが飛ぶことと、住民と意見交換をする立場にある環境大臣が「最後は金目でしょ」などという中学生が大人ぶってみましたみたいな発言をしてしまうことには、共通の背景がある。
いかなる共通の背景が、政治家に無思慮かつ粗暴な発言を促しているのかというと、要するに、そのタイプの男たちは、誰もが「本音」を最重要視しているということだ。
彼らは「本音」が、まさに「本音」であるそのこと自体によって免罪されるはずのものだということを強烈に信じ込んでいる人々だ。
「だって、これはオレの本当の気持ちなんだから」
「不潔もなにも、それが現実だろ?」
「理屈はともかく、事実は事実だろうが」
といった調子で、彼らは、世が世である「現状」と「帰結」を、その「悪辣さ」や「残酷さ」や「不正」や「不平等」も含めて、もののみごとに全面肯定してしまう。
ついでに、自分の「欲望」や、「偏見」や「差別感情」にも、あっさりと承認印を押す。
「オレがこう思ってるということ以外に、何の現実があるっていうんだ?」
という彼らによれば、「本音」は、「現実」であり、「いまここにある事実」であり、「リアルな世界」であり、「ぶっちゃけ」の「ありのまま」の「真正直」な「真実」なのであって、それゆえ、本音を容認しない人間は、「お花畑」の「理想主義者」であり、「ルーピー」な「幻視者」であり、「自分が気持ちよくなりたいだけ」の「偽善者」ということになる。
彼らは、自らの失言について、TPOを間違えたことや、身のまわりに密告者がいることを見落としていた見通しの甘さを反省することはあっても、発言の真意そのものについては決して撤回しない。
なぜなら、間違っているのは、本音を本音のまま吐露することを許さない議会の硬直した建前や、多少とも世情に通じた意見を述べると一斉にびっくりして口をパクパクしてみせるカマトト揃いの記者クラブ会見の設定の方で、本来なら、自分のような血も涙もある生身の人間が語るナマの本音は、もっと尊重されてしかるべきだと自負しているからだ。
であるからして、いつもどおりの平常運転で、露悪的な言葉を並べ、不埒な発言を繰り返し、差別意識を露呈し、偏見を丸出しにして語っている彼らは、自身を特段の「悪党」だとは見なしていない。
むしろ、自分は自らの気持ちに正直なだけで、口のきき方やマナーにはもしかしたら若干の問題があるかもしれないけれども、人間として、男としての生き方について言うなら、それが間違っているなどということは、ひとっかけらもあり得ない、と、考えている。
仲間も同じだ。
本音主義を標榜する直言系議員の周辺に集まる同じように口の悪い、無遠慮な、正直であることだけが自分の欠点だと考えている支持者たちは、議員が罵詈讒謗を発する度に快哉をあげ、悪口雑言を並べれば、その度ごとにシンバルを持った猿のおもちゃみたいに両手を叩いて大喜びの仕草をする。
「さすがは○○先生。オレたちが口にできないことをあっさり言ってのける」
「そこにしびれるあこがれるぅー」
(中略)
ただ、ヤジを飛ばす議員を弁護する意味で言うわけではないのだが、それでは不規則発言を完全に排除した議会が、厳粛かつ活発な議論の場としてよみがえるのかというと、絶対にそんなことにはならない。
ヤジの無い議会は、たぶん、小学生のホームルームどころか、悪い意味での学芸会みたいな、はなはだしく興趣を欠いた田舎芝居になるはずだ。というのも、現状の国会は、予算委員会であれ本会議であれ、あらかじめ互いに手の内を晒した質問と回答について、それぞれが手元のペーパーを読み上げながら時間通りに進行するだけの、BGMすら流れない貧寒たる朗読劇だからだ。
「うそつけ」
「おまえがやってみろ」
「そのセリフ何回目だ」
という、品格を欠いてはいても、そこそこに的を射たヤジが、ジャストなタイミングで挿入されているからこそ、あの不毛な国会論議にも耐えられるという側面は、たしかにある。
そういう意味で、形骸化した議会の建前にうんざりしている議員が、「本音」主義に傾く気持ちは私にもよく理解できる。
まして、些細な「失言」をあげつらって議員や大臣の「クビ」を取ることを自分たちの職務と心得ている、政局ズレした政治部の記者連中に言葉尻をつつき回される日常を送っていれば、議員先生諸氏の「本音」への信仰は、いやがうえにも高まろうというものだ。
てなわけで、善悪や正邪とは別に、「本音」と「建前」という座標軸が現れた時、無条件に「本音」を神聖視する考え方が力を持つに至る。
と、ここにおいて、
「露悪的な人間ほど信用できる」
という倒錯が生じる。
つまり、より残酷で、より差別的で、より無遠慮で、より助平で、より欲望丸出しなご意見を申し述べる人間だけが「本当のことを言う人」として信用されるみたいな、黒魔術の秘密結社みたいなものが誕生するのである。しかも、政治の世界に、である。
米軍に対して風俗産業を利用して兵員の性欲処理を促進することを進言する政治家が英雄視されたり、近隣諸国の人民を劣等民族扱いにする議員が支持を集めているのは、偶然ではない。
(以下省略)
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