「村野瀬玲奈の秘書課広報室」所載の阪南大学経済学部下地真樹教授の文章を転載。
左派(左翼)とか右派(右翼)とかいう区別そのものが有害かもしれないのだが、便利なところもある言葉なので私も時々使っている。そして、言論の場において、左派勢力が共感層をなかなか増やせない、というのもよく分かる。私自身も漸進的社会主義論者だから左派に属するのかもしれないが、改良資本主義論者とも言えるから右派に属しないこともない。まあ、大雑把に言えば、やはり左派だろう。左派(左翼)と右派(右翼)の定義そのものが不明瞭なのだから、話がややこしくなるのである。
ところで、左派がなぜ支持者を増やせないのか、というのは簡単な話であり、右派でいることは社会的に有利(利益がある)であり、左派であることは不利(損害が多い)であるからだ。社会全体は常に、そうなるように仕組まれ、動かされているのである。それも当然であり、権力を擁護する者には利益を配分し、権力に逆らう者は罰を与えることで、権力は守られることになる、という簡単な話だ。そこで、権力による悪事(社会悪)はほとんど改善されることは無い、というのが現実だ、というのは少し社会に生きてきた大人なら誰でも知っているはずである。このことは社会悪を改善しようとする人々、つまり左派は常に弾圧され、迫害される、ということである。
左派であることが不利益であるのが自明である以上、左派であることはただ「良心」に従う結果でしかないわけだ。その重さを知っている者だけが左派であり続ける。つまり、「利よりも義を選ぶ」人間である。
たとえば反原発の戦いをしている人々は自ら意識していなくても権力との闘争をしている以上は左派と目されるしかないのである。にも関わらず、左派批判の声がこうした闘争の内部でも常に上がるというのが現実である。もちろん、左派政党への批判の中には傾聴すべき部分もあるだろうが、それらの批判の大半は、運動自体を分裂させてまでそういう批判をする価値などあるのか、という盲目的批判である、という印象が私には強い。左派批判者は、運動を分裂させているのは左派の方だ、と言うだろうが、そうした運動の中にいることが既に左派なのだ、ということを彼らは分かっていない。つまり、左派批判者であること、つまり体制側にいることは、反原発側にいることと既に矛盾しているのである。
話が長くなったのでこの辺で切り上げる。私も下の文章とほぼ同じ考えである。特に共感した部分は赤字に転換しておく。
(以下引用)
●モジモジ君の日記。みたいな。
■運動の戦略、とか言われるものについて
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061127/p1
2006-11-27
社民的なものが後退戦を続ける中で「自己批判せよ」みたいな話がよく聞かれる。戦略がバカげているから支持を集められないのだとか、正しいことを述べているだけではダメだとか、まぁ、そういう話。
(中略)
前提を整理しよう。私たちと彼らの目指すものは異なっている。単に方向が違うだけではない。私たちは一部の人たちに重荷を押し付けるようなやり方をやめよう、と言い、むしろその重荷を共に背負うこと、そうした重荷を減らすことを主張すると同時に、重荷を減らすための努力を求めるという意味においてさらなる重荷を背負うことを求める。(中略)私たちに同意することは多少の覚悟を要求する。
(中略)私たちは一人一人に考えることを、決断することを求めねばならない。しかも、決断した人が後になって翻すことのないように互いに支えあうことも必要だ。そうした中でもなお、流されていく人は後を絶たない。私たちが直面しているのはそういう状況である。その中で、私たちは私たちが歩くべきだと思う道を共に歩こうという人を増やしていかねばならない。・・・以上のことから、さしあたりひとつのことは言える。彼らに学ぶべき戦略など何もない。ただ、私たちは、私たちの道の困難さに見合った戦略を、自前で考え出さなければならない。・・・このことを確認するだけでも、薄っぺらい左派批判のほとんどは聞く価値がないものになると思われる。これはもとより、左派に反省すべき点がないことを意味しない。ただ、彼らに学ぼうとしても学べるものはないよ、と述べているだけだ。
さて、私たちはいかにして、人を誘惑して、より困難な道の方を選ばせることができるのだろうか。普通に考えて、そんな選択をすることはありえない。ありえないのだが、しかし、そもそもの私たちがより困難な道の方を選んでいる理由を考えてみればよい。(中略)私は食べることができ、彼は食べることができず、ほっておけば死んでしまう。そのような状況を事実として知るとき、その事実を私は拒否したい気持ちになる。拒否したい気持ちが高まるとき、その事実を前に何もしないことそのものが苦痛となる。この良心の苦痛によって、より困難な道は、むしろより居心地のよい道となる。だからこそ、私たちはわざわざその道を行こうとするのである。だから、私たちの第一の武器は、この良心の呵責を生じさせるところの真実を隣人に手渡すことである。だから、私たちの基本戦略が話すことに、表に出ることに、暴露することにあるのに対して、彼らの基本戦略は黙ること、隠れること、隠蔽することにある。
(中略)
彼らの武器は、自己完結している上に、即効性のあるものである。これに対して私たちの武器は、相手次第のものであり、効果も徐々にしか現れない。このこともまた、弁えておかねばならない。だから、私たちは、その戦略の効果を、短期的に評価することはできない。私たちの用いる武器は、彼らの用いる武器とは違うのである。・・・このことは、私たちが自分たちの戦略を反省する必要がないことを意味しない。ただ、彼らがあげる短期的な戦果を基準にして自分たちを測っても意味がない、ということである。
(中略)
彼らの用いる基本的な戦略は黙ること、隠れること、隠蔽することである。自己完結しており、それを崩さない限り、決して私たちが付け入ることはできない。しかし、誰かの語りを耳にしてしまえば、人はその語りと自己のあり方の整合性を気にしてしまう。その語りが自分のあり方と整合しないものであるならば、つまり自分を否定する、批判するものであるならば、何かを言いたくなってしまうのも人なのである。だから、ついつい自ら口を開いてしまう。自ら姿を現してしまう。自ら暴露してしまう。私たちは、ただ正しいと信じることを語り続け、示し続け、暴露し続ける。それはそれで、十二分に強力な武器なのである。
(中略)
しかし実は、もう一つ、警戒を要する危険な武器がある。それは、彼らが黙るのではなく、むしろ私たちを黙らせること、閉じ込めることである。
(中略)
私たちが戦略と言うときに考えなければならないことは、この「黙らせる」ことに対抗する戦略である。私たちを黙らせる力、それは小さなものから大きなものまで、様々である。しかし、いずれにせよ、私たちに黙る意思がないにも関わらず黙らせる力とは、誰かをして第三者の意思に従わしめるものであり、それは一言で言えば権力である。どこにどのような権力が配置されているのか、ここで語るとき、どのような権力がどのような方向に作動するのか、これを見極めなければならない。
(中略)
ここで一つ注意が必要である。この権力をめぐっても、私たちと彼らの間ではまったく異なる戦略が取られることになる。彼らの戦略は黙らせるためのものである以上、彼らはより大きな権力を求めるのであり、よって、小さな権力を束にしてより大きな権力にまとめあげていくことを基本とする。これに対して私たちの戦略は、相手に語らせることも含めて語りの場を維持・拡大していくことを目的とするのであるから、権力をより小さい単位に分解し、互いに均衡させることによって非‐権力が作動する余地を増やすことが基本戦略となる。場合によっては、自らの保持する権力を放棄することが正しい戦略でありえる場面さえ存在する*1。
私の考える戦略とは、このようなものである。彼らに学ぶことなど何一つない。
(中略)
11/27 12:40 修正。「奴ら」を「彼ら」に統一。
左派(左翼)とか右派(右翼)とかいう区別そのものが有害かもしれないのだが、便利なところもある言葉なので私も時々使っている。そして、言論の場において、左派勢力が共感層をなかなか増やせない、というのもよく分かる。私自身も漸進的社会主義論者だから左派に属するのかもしれないが、改良資本主義論者とも言えるから右派に属しないこともない。まあ、大雑把に言えば、やはり左派だろう。左派(左翼)と右派(右翼)の定義そのものが不明瞭なのだから、話がややこしくなるのである。
ところで、左派がなぜ支持者を増やせないのか、というのは簡単な話であり、右派でいることは社会的に有利(利益がある)であり、左派であることは不利(損害が多い)であるからだ。社会全体は常に、そうなるように仕組まれ、動かされているのである。それも当然であり、権力を擁護する者には利益を配分し、権力に逆らう者は罰を与えることで、権力は守られることになる、という簡単な話だ。そこで、権力による悪事(社会悪)はほとんど改善されることは無い、というのが現実だ、というのは少し社会に生きてきた大人なら誰でも知っているはずである。このことは社会悪を改善しようとする人々、つまり左派は常に弾圧され、迫害される、ということである。
左派であることが不利益であるのが自明である以上、左派であることはただ「良心」に従う結果でしかないわけだ。その重さを知っている者だけが左派であり続ける。つまり、「利よりも義を選ぶ」人間である。
たとえば反原発の戦いをしている人々は自ら意識していなくても権力との闘争をしている以上は左派と目されるしかないのである。にも関わらず、左派批判の声がこうした闘争の内部でも常に上がるというのが現実である。もちろん、左派政党への批判の中には傾聴すべき部分もあるだろうが、それらの批判の大半は、運動自体を分裂させてまでそういう批判をする価値などあるのか、という盲目的批判である、という印象が私には強い。左派批判者は、運動を分裂させているのは左派の方だ、と言うだろうが、そうした運動の中にいることが既に左派なのだ、ということを彼らは分かっていない。つまり、左派批判者であること、つまり体制側にいることは、反原発側にいることと既に矛盾しているのである。
話が長くなったのでこの辺で切り上げる。私も下の文章とほぼ同じ考えである。特に共感した部分は赤字に転換しておく。
(以下引用)
●モジモジ君の日記。みたいな。
■運動の戦略、とか言われるものについて
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061127/p1
2006-11-27
社民的なものが後退戦を続ける中で「自己批判せよ」みたいな話がよく聞かれる。戦略がバカげているから支持を集められないのだとか、正しいことを述べているだけではダメだとか、まぁ、そういう話。
(中略)
前提を整理しよう。私たちと彼らの目指すものは異なっている。単に方向が違うだけではない。私たちは一部の人たちに重荷を押し付けるようなやり方をやめよう、と言い、むしろその重荷を共に背負うこと、そうした重荷を減らすことを主張すると同時に、重荷を減らすための努力を求めるという意味においてさらなる重荷を背負うことを求める。(中略)私たちに同意することは多少の覚悟を要求する。
(中略)私たちは一人一人に考えることを、決断することを求めねばならない。しかも、決断した人が後になって翻すことのないように互いに支えあうことも必要だ。そうした中でもなお、流されていく人は後を絶たない。私たちが直面しているのはそういう状況である。その中で、私たちは私たちが歩くべきだと思う道を共に歩こうという人を増やしていかねばならない。・・・以上のことから、さしあたりひとつのことは言える。彼らに学ぶべき戦略など何もない。ただ、私たちは、私たちの道の困難さに見合った戦略を、自前で考え出さなければならない。・・・このことを確認するだけでも、薄っぺらい左派批判のほとんどは聞く価値がないものになると思われる。これはもとより、左派に反省すべき点がないことを意味しない。ただ、彼らに学ぼうとしても学べるものはないよ、と述べているだけだ。
さて、私たちはいかにして、人を誘惑して、より困難な道の方を選ばせることができるのだろうか。普通に考えて、そんな選択をすることはありえない。ありえないのだが、しかし、そもそもの私たちがより困難な道の方を選んでいる理由を考えてみればよい。(中略)私は食べることができ、彼は食べることができず、ほっておけば死んでしまう。そのような状況を事実として知るとき、その事実を私は拒否したい気持ちになる。拒否したい気持ちが高まるとき、その事実を前に何もしないことそのものが苦痛となる。この良心の苦痛によって、より困難な道は、むしろより居心地のよい道となる。だからこそ、私たちはわざわざその道を行こうとするのである。だから、私たちの第一の武器は、この良心の呵責を生じさせるところの真実を隣人に手渡すことである。だから、私たちの基本戦略が話すことに、表に出ることに、暴露することにあるのに対して、彼らの基本戦略は黙ること、隠れること、隠蔽することにある。
(中略)
彼らの武器は、自己完結している上に、即効性のあるものである。これに対して私たちの武器は、相手次第のものであり、効果も徐々にしか現れない。このこともまた、弁えておかねばならない。だから、私たちは、その戦略の効果を、短期的に評価することはできない。私たちの用いる武器は、彼らの用いる武器とは違うのである。・・・このことは、私たちが自分たちの戦略を反省する必要がないことを意味しない。ただ、彼らがあげる短期的な戦果を基準にして自分たちを測っても意味がない、ということである。
(中略)
彼らの用いる基本的な戦略は黙ること、隠れること、隠蔽することである。自己完結しており、それを崩さない限り、決して私たちが付け入ることはできない。しかし、誰かの語りを耳にしてしまえば、人はその語りと自己のあり方の整合性を気にしてしまう。その語りが自分のあり方と整合しないものであるならば、つまり自分を否定する、批判するものであるならば、何かを言いたくなってしまうのも人なのである。だから、ついつい自ら口を開いてしまう。自ら姿を現してしまう。自ら暴露してしまう。私たちは、ただ正しいと信じることを語り続け、示し続け、暴露し続ける。それはそれで、十二分に強力な武器なのである。
(中略)
しかし実は、もう一つ、警戒を要する危険な武器がある。それは、彼らが黙るのではなく、むしろ私たちを黙らせること、閉じ込めることである。
(中略)
私たちが戦略と言うときに考えなければならないことは、この「黙らせる」ことに対抗する戦略である。私たちを黙らせる力、それは小さなものから大きなものまで、様々である。しかし、いずれにせよ、私たちに黙る意思がないにも関わらず黙らせる力とは、誰かをして第三者の意思に従わしめるものであり、それは一言で言えば権力である。どこにどのような権力が配置されているのか、ここで語るとき、どのような権力がどのような方向に作動するのか、これを見極めなければならない。
(中略)
ここで一つ注意が必要である。この権力をめぐっても、私たちと彼らの間ではまったく異なる戦略が取られることになる。彼らの戦略は黙らせるためのものである以上、彼らはより大きな権力を求めるのであり、よって、小さな権力を束にしてより大きな権力にまとめあげていくことを基本とする。これに対して私たちの戦略は、相手に語らせることも含めて語りの場を維持・拡大していくことを目的とするのであるから、権力をより小さい単位に分解し、互いに均衡させることによって非‐権力が作動する余地を増やすことが基本戦略となる。場合によっては、自らの保持する権力を放棄することが正しい戦略でありえる場面さえ存在する*1。
私の考える戦略とは、このようなものである。彼らに学ぶことなど何一つない。
(中略)
11/27 12:40 修正。「奴ら」を「彼ら」に統一。
PR
コメント