(以下引用)長いので途中をかなり省略する。
権藤 成卿(ごんどう せいきょう(せいけい)、1868年4月13日(慶応4年3月21日) - 1937年(昭和12年)7月9日)は、日本の農本主義思想家、制度学者。本名は善太郎。号は成卿、間々道人,間々子など[1]。明治政府の絶対国家主義や官治主義(官僚制)[2]、資本主義、都会主義を批判し、農村を基盤とした古代中国の社稷型封建制を理想として共済共存の共同体としての「社稷国家」の実現と農民・人民の自治および東洋固有の「原始自治」(「自然而治」[3])を唱えた[1][4]。
思想
[編集]社稷自治論
[編集]権藤は村落共同体一般や、同時代の農村(民)をそのまま肯定したわけではなく、自治機能をもった公権力に抵抗しえた中世の郷村を理想としていた[22]。社稷の「社」とは「地を神とする所以の道」であり、大地を意味し、「稷」とは五穀の長、粟を意味し、食物を意味する[23]。あるいは社稷とは「社会」と同じ意味とも権藤はいう[22]。
権藤は「土ありて而る後民人あり、民人ありて而る後君長あり」と政治の実体は君主でなく、民人(社稷)と述べる[23]。さらに「万々世の後、理想が実現するに到れば、『天下ヲ公トナス』」と論じ、社稷が「天下」となり、社稷が体現した公共性こそが、国家の公共性にとって代わるべきとも論じた[24]。
権藤は明治藩閥政府のプロシア式の国家主義を排撃し、「社稷を離れたる国は、必ず尊己卑他の国にして、其民衆は権力者の奴隷となる」とし[3]、明治以来の日本の国家主義は「一幅牛頭馬頭跋扈の地獄図」という弱肉強食や「欧州式の私有財産制度」を強引に採用した結果、一国の主力たるべき農民は「草野に枯死」かのごとき「租税製造機」として取り扱われているとして、すべての生民(人民)が和親修睦をもって相互扶助し、一人単独に満足するよりも、「一家より一伍一邑共に楽しむ」ことをより好むことで、「国民共存の大義」が展開されると論じた[25]。
このような社稷自治論は農業立国論や浅薄な反都会・反商工観念とは異なり、権藤はそれらを批判していた[26]。
大同
[編集]また権藤成卿は礼記礼運篇にある「大同」の思想を理想とした[27]。礼記では、「大道の行わるるや、天下を公となし、賢者と能者を選び、信義と和親を重んず。ゆえに人は、わが親のみを親とせず、わが子のみを子とせず。老人をして天寿を全うせしめ、壮丁をして職を持たしめ、幼児をして養育を受けしめ、寡婦、孤児、廃疾者、寄るべなきものをしてみな養護を受けしむ。男には分あり。女には帰あり。財貨の地に棄てらるるを憎めども、己れの一身に蓄えんとはせず、力を振るわざるを憎むも、己れ一身のためにせんとはせず。このゆえに陰謀は止みて興らず、窃盗乱賊も起こることなし。ゆえに門戸を閉じず。これを大同という」と説かれ、このような大同の世に対して、「小康の世」では私的価値が追求されるために戦乱が起こると対比される[27]。このような大同の思想は、春秋公羊学派、康有為の大同三世説で発展された[27]。権藤の大同論には康有為の影響もあった[28]。
権藤はまた、大化の改新に影響を与えた南淵請安の思想にも大同説があると解釈した[27]。
国家資本主義批判
[編集]昭和11年6月9日、逓信省による電力国家管理法案が発表された。1937年1月に権藤は、「ファッショ的統制案」として批判した[31]。同案は日中戦争の激化にともない1938年4月に電力管理法として実現する。
権藤は「国家社会主義なるものは、学理上からいえば我輩とは全然異なるが、今次の逓信省案の如きふざけたものではない。官僚統制と結びついた究極的な資本家保護は、国家資本主義である。ファッショと呼ばれるのは、かかるところに因由し居る」と、日本政府の国家管理案を国家資本主義またはファシズムとして批判した[31]。
評価
[編集]社稷を人民相互の共同契約のもとに構成された共同体とする権藤の思想には、ジャン=ジャック・ルソーの社会契約論や[22]、またトーマス・ペインの自然に定礎された社会に対して、政府は作為の表象であるとする思想との相似も指摘されている[32]。
山川均は権藤の思想の核心を「最も素朴な形のアナキズム」とし、土田杏村は権藤のアナキズムを大同説と老荘思想に求めている[33]。松本健一は安藤昌益との類似を指摘している[34]。
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