前々から言っているように、私はフェビアン協会的な漸進的社会主義者、議会制民主主義尊重の「反暴力革命」社会主義者であり、共産主義者ではない。しかし、世間の人間にとっては共産主義も社会主義も同じに見えるだろう。だいぶ前の話だが、当時勤めていた職場で、同僚の社会科講師が生徒に「社会主義と共産主義って何が違うんですか?」と質問されて「同じようなものじゃないか?」と答えた現場を目撃したこともある。大学受験生相手の社会科講師でさえその程度の認識なのである。
また、私は世界支配層(経済界支配者)による陰の政治支配がある、と考えている点では「陰謀実在論者」であるが、これは世間では「陰謀論者」と言われて、まるでその主張者自身が陰謀を好んでいる異常性格者であるかのように思われている。
要するに、すべてが朦朧とした定義のままに世間のほとんどの議論や政治判断は行われているのである。荀子が政治の根幹は名(用語)を正すことにある、という「正名論」を主張したのは紀元前のことだが、ある意味では、世界はそこから一歩も前進していないわけだ。
さて、前置きが長くなったが、私は共産主義者ではない。したがって日本共産党とは思想的に隔たりがあるが、かと言って近親憎悪も無い。むしろ、共産党の正論に世間がもう少し耳を傾けていたら、現在の日本の惨状は無かっただろうと思っている。そして、特にひいきの候補者やロクな候補者のいない選挙では、共産党に投票することがほとんどである。
だが、日本共産党がたとえば原発の危険性について国会で質問し、それを当時の自民党や官僚たちが頭から無視してきたという事実を知らない人も多い。この一事だけでも国会に共産党が存在することに意義があったことは分かるはずだ。共産党が政治の不正を指摘してきたことはもちろん一事にはとどまらない。
共産党がすべての小選挙区で候補を立てることを「敵を利する行為だ」と言う議論も理解しがたいものである。政党である以上は、まず小選挙区に候補を立てることが、その選挙区にいる当該政党支持者への第一の義務ではないか。
こうした議論は、一部の人間によって広められた論法を無批判に受け入れたことから生じる、自動反応的議論ではないか?
と言うわけで、私は共産党に対しては心情的応援者だ、と言えるだろう。
その共産党の「政策委員長・小池晃」氏が、テレビの政治討論番組で橋下徹をコテンパンにしたようだ。ただの電波芸者にすぎない橋下がまともな政策論争でプロの政治家に太刀打ちできないのは当たり前だろうが、他の政治家はそれぞれ思惑や下心があるから最初からまともな議論さえもしない。こうしたまともな議論ができるのも共産党という天下御免の立場があるからだ。つまり、橋下がヤクザであるから怖いもの知らずであるのと同様に、共産党は「アカ」として社会的差別を受けてきた、こちらもある意味では怖いもの知らずなのである。
ヤクザが政治を牛耳る方が「アカ」が政権を取るよりはいい、というのが世間の人間の心情なのだろうが、これまで「アカ」に迷惑を受けた人は、日本には存在しないはずである。にもかかわらず、これほどに共産主義嫌悪症や共産主義憎悪が日本にはびこっているのは、当然過去の人為的操作によるものであるが、そのあたりはこのブログの別論文(「抑圧された秩序と秩序無き自由」)に書いてあるので、参照願いたい。
(以下「阿修羅」より引用)
経団連・米国にモノ言える政治に(赤旗)(「とくダネ」で橋下徹が経団連・米国にモノ言える政治に(赤旗)(「とくダネ」で橋下徹が共産党政策委員長・小池晃に論戦で惨敗)
http://www.asyura2.com/12/senkyo139/msg/671.html
投稿者 こーるてん 日時 2012 年 11 月 26 日 06:15:41: hndh7vd2.ZV/2
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-11-24/2012112402_02_1.html
経団連・米国にモノ言える政治に
TVで小池氏 「維新も押されている」
日本共産党の小池晃政策委員長は23日放送のフジテレビ系「とくダネ!」に出演し、各党代表と経済対策などを中心に議論しました。小池氏は「デフレ不況」対策について「収入を減らすリストラをやめ雇用を立て直すべき。そして収入を奪う消費税増税は、きっぱり中止すべきだ」と主張しました。
「金融緩和」と民公
民主党の前原誠司政調会長や公明党の高木陽介幹事長代理などが「金融緩和」を強調。これに対し、ショーン・マクアードル川上氏(経営コンサルタント)は「企業側でいうと、すでに日本全体で10億円の資本金(の企業)だと266兆円がたまっている。さらにお金を流して、一体どうお金を循環させるのか」と問題提起しました。
前原氏と自民党の甘利明政調会長が経済停滞の責任を押し付け合うなか小池氏は「前を向いた議論をしないといけない」と指摘し次のように語りました。
小池 ショーンさんがおっしゃったことが非常に大事だと思う。260兆円も企業の内部留保がたまっている。そのお金を家計に届ければ景気は立ち直る。そのカギを握っているのは雇用。(そして)税制を変えていくことです。公平な税制にしていく。それをやれなかったのは、自民党から民主党にかけて日本経団連にモノが言えないような政治が続いてきた。そこにちゃんとモノを言うような政治をつくっていく。これが本当のグレートリセット。
橋下氏を批判
日本維新の会の橋下徹代表代行は「カジノを認めれば外国人が集まってくる」などと述べ、既得権が参入を規制しているのが原因だと発言。これに小池氏は「カジノとか小さい話です。本当の既得権益、日本経団連とかアメリカにモノが言えない政治だったから(経済の)停滞を招いている」と指摘。「維新」が再稼働容認に転換し、今では「脱原発」も捨てて推進の側にまわっていることをあげ、「(維新の会は)もう既得権益に押されちゃっている。そういう政治から抜け出すこと、本当の既得権益とたたかう政治が求められている」と強調しました。
橋下氏は答えに窮し、大阪市議会のことをもちだして、「(共産党は)何一つ実現できていない」とでたらめを述べるなど議論から逃げたため、小池氏は「それは違うでしょう」「何にも答えていない」と批判しました。
TPP(環太平洋連携協定)については、前原氏や橋下氏、高木氏らが交渉参加に積極的な発言をしました。橋下氏は「交渉すら参加してはいけないとなればルールもつくれない」と述べました。
小池氏は「TPPは関税ゼロが前提。それを認めないと入れない」「TPPは国民生活のあらゆる分野に大破綻したアメリカ流のやり方をもちこもうと(いうもの)」と指摘。前原氏が「農業を守りすぎて競争力がなくなっているのも事実だ」などと発言したことに対し小池氏は、「(農業を)守りすぎてない。これだけ(農産物の)関税の低い国はない」と批判しました。
最後に小池氏は「(総選挙で)議席を倍にして日本の政治に衝撃を与えるような結果をだしたい」と表明。日本共産党が、企業団体献金も政党助成金も受け取らず自前の努力でやってきたことを紹介し、「こういう政党が伸びてこそ、まじめでまともな日本の政治をつくっていくことができる」と語りました。
(追記) 「抑圧された秩序と秩序無き自由」から、関連個所を少し抜き出して転載しておく。この論文は例のサカキバラセイトの事件の頃に書いた古いものだが、内容は今でも通用する。むしろ、その当時よりは今の方がネットの普及によって市民の政治感覚はマシになったと思うので、書かれた内容に共感してくれる人もいると思う。
(引用2)
社会を変えるものは思想である。しかし、思想を伝えるものは言葉である。人々の心に伝わらない言葉が世の中を変えるはずはない。このことになぜ左翼陣営の誰一人として気づかなかったのか。それは、彼ら知識人の発言は大衆にではなく、常に自分と同レベルの知識人階級に向けられていたからである。つまりは彼ら自身の論壇における評価だけが彼らの関心の中心だったからであり、その不誠実さを人々は鋭く見抜いていたからである。
もちろん、仮に誠実な発言をしていたところで一般人の賛同が得られたかどうかは分からない。前に書いたように、人々は理性や論理によって判断するよりも、むしろ雰囲気や直感で判断するものだから、ヒトラーのような巧妙なアジテーターによって人民が扇動されていく可能性は非常に高い。しかし、どのような形であれ、人民の意志が国家の意思を決定していくのが真の民主主義である。知識人のなすべきことは、その決定を誤らないように人々に呼びかけること以外にはない。
左翼活動家たちは、言葉に対する鈍感さと不誠実さのために敗れていった。しかし、その事は、保守派の思想が彼らの思想より正しかったことは意味しない。事は単なる技術的問題だったのである。
もう一度、「アカ」という言葉がいかに巧妙なものであったかを示しておこう。
この言葉の持つ異様な迫力は、「赤」が死と破壊の色、殺戮の色であることから来ている。言うまでもなく、共産主義は現体制を破壊するものであり、それが赤色を自らの象徴として選ぶことは当を得ている。しかし、それが人々に与える心理的イメージに対し、共産主義者はあまりに鈍感である。赤とは何よりも血のイメージであり、火事、危険、災厄のイメージである。共産主義という正体不明の「破壊的存在」に対し、相手を「アカ」と呼ぶことほど効果的に相手への嫌悪感や忌避感情を煽り立てるものはないだろう。この感覚は人間の生理に根ざした感覚であるため、聞く者に直截的な恐怖を呼び覚ます。人々は自ら災厄に近づこうとは思わないものだ。こうして「アカ」に対する嫌悪感、忌避感は人々の間に醸成されていったのである。
私は、人々が共産主義を理解した上でそれを忌避したとは思わない。なぜなら、彼らのほとんどは、「鎖のほかには失う物も無い労働者」だったからである。現体制が変わることによって何らの不利益も被らないはずの、そのプロレタリアートの支持さえも得られなかった所に共産主義の敗北の根本原因があったのである。
おそらく人々のほとんどは、共産主義と社会主義の区別もつかず、また社会主義とは必ずしもマルキシズムだけの専売特許でもないことも知らないだろう。バーナード・ショーやH.G.ウェルズら、当時の一流知識人の賛同を集めたウェッブ夫妻らのフェビアン協会のような穏健な漸進的社会主義の存在も知らず、社会主義者とアナーキスト、テロリストを混同している人間がほとんどであるはずだ。そうでないと思うのは、自らは象牙の塔の中にいるおめでたい学者先生くらいのものだ。
人民の知的レベルを買いかぶってはならない。しかしまた、人民の直感的理解を過小評価してもならない。人民が社会主義にノーと言ったのは、マルクスの唱える「科学的社会主義」こそが空想的社会主義であり、現実に即さないものであることを本能的に見抜いていたからかもしれないのである。もっとも、ソ連にせよ中国にせよ、マルクスの社会主義でもレーニンの社会主義でもなく、その時その時の国情に合わせた土着的社会主義であっただろうが。
ともあれ、人間は理性や論理よりも直感や本能で判断し、行動するものであり、ある種のアメーバーのようなものである。その本能的部分に訴えることができた為政者が人民を思いのままに動かしてきたのであろう。その良い方の一例を挙げれば、アメリカの独立戦争(これは米植民地のイギリスに対する革命であったが、この戦争を革命として捉えている人間は少ない。なぜなら、革命が正義であることを認めることは、為政者や支配階級にとって都合の悪いことなので、アメリカの歴史の中ですらこの独立戦争は非常に軽視され、ハリウッド映画などが独立戦争をテーマにした映画を作ることも滅多に無いのである。これまで一本か二本くらいしか無いのではないだろうか。同様に、フランス革命もハリウッド映画では取り上げられない。)の時の、パトリック・ヘンリーの「我に自由を与えよ。しからずんば死を与えよ」という言葉である。この言葉は、あるいはそれ以外の無数の物理的条件以上に、アメリカの勝利に貢献した言葉かもしれないのだ。
一つの言葉は、時には人間を死地に飛び込ませる力を持つものだ。つまり、人間は本能に動かされるばかりでなく、観念のためにでも死ねる奇妙な存在だが、しかし人を動かすその観念なるものは、通常はごく単純な一言なのである。天草のキリシタン一揆にせよ、信長がてこずった石山本願寺の戦いにせよ、信徒たちは宗教の教義や来世の観念について深く知っていたわけではないだろう。今、パレスチナで戦っているイスラム教徒やユダヤ教徒を動かす力も、この人間の奇妙な単純さを考えなければ理解はできない。
もう一度確認しておこう。人間は論理よりも感覚的、直感的判断で行動するものである。そして、その判断は、些細な言葉の持つイメージによって大きく左右されるものである。世の中のレッテル的言葉というものは我々の行動を決定する大きな働きを持つものであり、我々はそういう言葉の存在に常に気をつけなければならない。
また、私は世界支配層(経済界支配者)による陰の政治支配がある、と考えている点では「陰謀実在論者」であるが、これは世間では「陰謀論者」と言われて、まるでその主張者自身が陰謀を好んでいる異常性格者であるかのように思われている。
要するに、すべてが朦朧とした定義のままに世間のほとんどの議論や政治判断は行われているのである。荀子が政治の根幹は名(用語)を正すことにある、という「正名論」を主張したのは紀元前のことだが、ある意味では、世界はそこから一歩も前進していないわけだ。
さて、前置きが長くなったが、私は共産主義者ではない。したがって日本共産党とは思想的に隔たりがあるが、かと言って近親憎悪も無い。むしろ、共産党の正論に世間がもう少し耳を傾けていたら、現在の日本の惨状は無かっただろうと思っている。そして、特にひいきの候補者やロクな候補者のいない選挙では、共産党に投票することがほとんどである。
だが、日本共産党がたとえば原発の危険性について国会で質問し、それを当時の自民党や官僚たちが頭から無視してきたという事実を知らない人も多い。この一事だけでも国会に共産党が存在することに意義があったことは分かるはずだ。共産党が政治の不正を指摘してきたことはもちろん一事にはとどまらない。
共産党がすべての小選挙区で候補を立てることを「敵を利する行為だ」と言う議論も理解しがたいものである。政党である以上は、まず小選挙区に候補を立てることが、その選挙区にいる当該政党支持者への第一の義務ではないか。
こうした議論は、一部の人間によって広められた論法を無批判に受け入れたことから生じる、自動反応的議論ではないか?
と言うわけで、私は共産党に対しては心情的応援者だ、と言えるだろう。
その共産党の「政策委員長・小池晃」氏が、テレビの政治討論番組で橋下徹をコテンパンにしたようだ。ただの電波芸者にすぎない橋下がまともな政策論争でプロの政治家に太刀打ちできないのは当たり前だろうが、他の政治家はそれぞれ思惑や下心があるから最初からまともな議論さえもしない。こうしたまともな議論ができるのも共産党という天下御免の立場があるからだ。つまり、橋下がヤクザであるから怖いもの知らずであるのと同様に、共産党は「アカ」として社会的差別を受けてきた、こちらもある意味では怖いもの知らずなのである。
ヤクザが政治を牛耳る方が「アカ」が政権を取るよりはいい、というのが世間の人間の心情なのだろうが、これまで「アカ」に迷惑を受けた人は、日本には存在しないはずである。にもかかわらず、これほどに共産主義嫌悪症や共産主義憎悪が日本にはびこっているのは、当然過去の人為的操作によるものであるが、そのあたりはこのブログの別論文(「抑圧された秩序と秩序無き自由」)に書いてあるので、参照願いたい。
(以下「阿修羅」より引用)
経団連・米国にモノ言える政治に(赤旗)(「とくダネ」で橋下徹が経団連・米国にモノ言える政治に(赤旗)(「とくダネ」で橋下徹が共産党政策委員長・小池晃に論戦で惨敗)
http://www.asyura2.com/12/senkyo139/msg/671.html
投稿者 こーるてん 日時 2012 年 11 月 26 日 06:15:41: hndh7vd2.ZV/2
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-11-24/2012112402_02_1.html
経団連・米国にモノ言える政治に
TVで小池氏 「維新も押されている」
日本共産党の小池晃政策委員長は23日放送のフジテレビ系「とくダネ!」に出演し、各党代表と経済対策などを中心に議論しました。小池氏は「デフレ不況」対策について「収入を減らすリストラをやめ雇用を立て直すべき。そして収入を奪う消費税増税は、きっぱり中止すべきだ」と主張しました。
「金融緩和」と民公
民主党の前原誠司政調会長や公明党の高木陽介幹事長代理などが「金融緩和」を強調。これに対し、ショーン・マクアードル川上氏(経営コンサルタント)は「企業側でいうと、すでに日本全体で10億円の資本金(の企業)だと266兆円がたまっている。さらにお金を流して、一体どうお金を循環させるのか」と問題提起しました。
前原氏と自民党の甘利明政調会長が経済停滞の責任を押し付け合うなか小池氏は「前を向いた議論をしないといけない」と指摘し次のように語りました。
小池 ショーンさんがおっしゃったことが非常に大事だと思う。260兆円も企業の内部留保がたまっている。そのお金を家計に届ければ景気は立ち直る。そのカギを握っているのは雇用。(そして)税制を変えていくことです。公平な税制にしていく。それをやれなかったのは、自民党から民主党にかけて日本経団連にモノが言えないような政治が続いてきた。そこにちゃんとモノを言うような政治をつくっていく。これが本当のグレートリセット。
橋下氏を批判
日本維新の会の橋下徹代表代行は「カジノを認めれば外国人が集まってくる」などと述べ、既得権が参入を規制しているのが原因だと発言。これに小池氏は「カジノとか小さい話です。本当の既得権益、日本経団連とかアメリカにモノが言えない政治だったから(経済の)停滞を招いている」と指摘。「維新」が再稼働容認に転換し、今では「脱原発」も捨てて推進の側にまわっていることをあげ、「(維新の会は)もう既得権益に押されちゃっている。そういう政治から抜け出すこと、本当の既得権益とたたかう政治が求められている」と強調しました。
橋下氏は答えに窮し、大阪市議会のことをもちだして、「(共産党は)何一つ実現できていない」とでたらめを述べるなど議論から逃げたため、小池氏は「それは違うでしょう」「何にも答えていない」と批判しました。
TPP(環太平洋連携協定)については、前原氏や橋下氏、高木氏らが交渉参加に積極的な発言をしました。橋下氏は「交渉すら参加してはいけないとなればルールもつくれない」と述べました。
小池氏は「TPPは関税ゼロが前提。それを認めないと入れない」「TPPは国民生活のあらゆる分野に大破綻したアメリカ流のやり方をもちこもうと(いうもの)」と指摘。前原氏が「農業を守りすぎて競争力がなくなっているのも事実だ」などと発言したことに対し小池氏は、「(農業を)守りすぎてない。これだけ(農産物の)関税の低い国はない」と批判しました。
最後に小池氏は「(総選挙で)議席を倍にして日本の政治に衝撃を与えるような結果をだしたい」と表明。日本共産党が、企業団体献金も政党助成金も受け取らず自前の努力でやってきたことを紹介し、「こういう政党が伸びてこそ、まじめでまともな日本の政治をつくっていくことができる」と語りました。
(追記) 「抑圧された秩序と秩序無き自由」から、関連個所を少し抜き出して転載しておく。この論文は例のサカキバラセイトの事件の頃に書いた古いものだが、内容は今でも通用する。むしろ、その当時よりは今の方がネットの普及によって市民の政治感覚はマシになったと思うので、書かれた内容に共感してくれる人もいると思う。
(引用2)
社会を変えるものは思想である。しかし、思想を伝えるものは言葉である。人々の心に伝わらない言葉が世の中を変えるはずはない。このことになぜ左翼陣営の誰一人として気づかなかったのか。それは、彼ら知識人の発言は大衆にではなく、常に自分と同レベルの知識人階級に向けられていたからである。つまりは彼ら自身の論壇における評価だけが彼らの関心の中心だったからであり、その不誠実さを人々は鋭く見抜いていたからである。
もちろん、仮に誠実な発言をしていたところで一般人の賛同が得られたかどうかは分からない。前に書いたように、人々は理性や論理によって判断するよりも、むしろ雰囲気や直感で判断するものだから、ヒトラーのような巧妙なアジテーターによって人民が扇動されていく可能性は非常に高い。しかし、どのような形であれ、人民の意志が国家の意思を決定していくのが真の民主主義である。知識人のなすべきことは、その決定を誤らないように人々に呼びかけること以外にはない。
左翼活動家たちは、言葉に対する鈍感さと不誠実さのために敗れていった。しかし、その事は、保守派の思想が彼らの思想より正しかったことは意味しない。事は単なる技術的問題だったのである。
もう一度、「アカ」という言葉がいかに巧妙なものであったかを示しておこう。
この言葉の持つ異様な迫力は、「赤」が死と破壊の色、殺戮の色であることから来ている。言うまでもなく、共産主義は現体制を破壊するものであり、それが赤色を自らの象徴として選ぶことは当を得ている。しかし、それが人々に与える心理的イメージに対し、共産主義者はあまりに鈍感である。赤とは何よりも血のイメージであり、火事、危険、災厄のイメージである。共産主義という正体不明の「破壊的存在」に対し、相手を「アカ」と呼ぶことほど効果的に相手への嫌悪感や忌避感情を煽り立てるものはないだろう。この感覚は人間の生理に根ざした感覚であるため、聞く者に直截的な恐怖を呼び覚ます。人々は自ら災厄に近づこうとは思わないものだ。こうして「アカ」に対する嫌悪感、忌避感は人々の間に醸成されていったのである。
私は、人々が共産主義を理解した上でそれを忌避したとは思わない。なぜなら、彼らのほとんどは、「鎖のほかには失う物も無い労働者」だったからである。現体制が変わることによって何らの不利益も被らないはずの、そのプロレタリアートの支持さえも得られなかった所に共産主義の敗北の根本原因があったのである。
おそらく人々のほとんどは、共産主義と社会主義の区別もつかず、また社会主義とは必ずしもマルキシズムだけの専売特許でもないことも知らないだろう。バーナード・ショーやH.G.ウェルズら、当時の一流知識人の賛同を集めたウェッブ夫妻らのフェビアン協会のような穏健な漸進的社会主義の存在も知らず、社会主義者とアナーキスト、テロリストを混同している人間がほとんどであるはずだ。そうでないと思うのは、自らは象牙の塔の中にいるおめでたい学者先生くらいのものだ。
人民の知的レベルを買いかぶってはならない。しかしまた、人民の直感的理解を過小評価してもならない。人民が社会主義にノーと言ったのは、マルクスの唱える「科学的社会主義」こそが空想的社会主義であり、現実に即さないものであることを本能的に見抜いていたからかもしれないのである。もっとも、ソ連にせよ中国にせよ、マルクスの社会主義でもレーニンの社会主義でもなく、その時その時の国情に合わせた土着的社会主義であっただろうが。
ともあれ、人間は理性や論理よりも直感や本能で判断し、行動するものであり、ある種のアメーバーのようなものである。その本能的部分に訴えることができた為政者が人民を思いのままに動かしてきたのであろう。その良い方の一例を挙げれば、アメリカの独立戦争(これは米植民地のイギリスに対する革命であったが、この戦争を革命として捉えている人間は少ない。なぜなら、革命が正義であることを認めることは、為政者や支配階級にとって都合の悪いことなので、アメリカの歴史の中ですらこの独立戦争は非常に軽視され、ハリウッド映画などが独立戦争をテーマにした映画を作ることも滅多に無いのである。これまで一本か二本くらいしか無いのではないだろうか。同様に、フランス革命もハリウッド映画では取り上げられない。)の時の、パトリック・ヘンリーの「我に自由を与えよ。しからずんば死を与えよ」という言葉である。この言葉は、あるいはそれ以外の無数の物理的条件以上に、アメリカの勝利に貢献した言葉かもしれないのだ。
一つの言葉は、時には人間を死地に飛び込ませる力を持つものだ。つまり、人間は本能に動かされるばかりでなく、観念のためにでも死ねる奇妙な存在だが、しかし人を動かすその観念なるものは、通常はごく単純な一言なのである。天草のキリシタン一揆にせよ、信長がてこずった石山本願寺の戦いにせよ、信徒たちは宗教の教義や来世の観念について深く知っていたわけではないだろう。今、パレスチナで戦っているイスラム教徒やユダヤ教徒を動かす力も、この人間の奇妙な単純さを考えなければ理解はできない。
もう一度確認しておこう。人間は論理よりも感覚的、直感的判断で行動するものである。そして、その判断は、些細な言葉の持つイメージによって大きく左右されるものである。世の中のレッテル的言葉というものは我々の行動を決定する大きな働きを持つものであり、我々はそういう言葉の存在に常に気をつけなければならない。
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