「ジョブリストマガジン」というウェブ雑誌の中の西川司という人の書いた記事の1節である。
(以下引用)
その他にもいろんなことがわかってきた。バグダッド、モスル、アマラ、バスラに建設している病院や学校の建設費は日本のODAから出ている。
サダム・フセインが一年前に大統領に就いた時、日本政府が石油の供給をつづけてもらうための、いわば貢物というわけだ。
「こんなしょっちゅう砂嵐が吹く砂漠の真ん中に、どんな立派なビルを建てたって、十年ももちゃしないってよ」
阿部が私をホテルのバーに誘ったとき、酔いに任せて白状した。イラクは基本的には禁酒なのだが、外国人がホテルで酒を飲むことは認められている。
「このロッカーの組み立ての仕事だけどな。これで、俺たちの会社にいくら入ると思う?」
阿部が突然訊いてきた。阿部の会社は元M物産の子会社にいた同僚たち三人で作ったもので、M物産の元上司から仕事をもらっているという。私が答えられずにいると、阿部はニヤッと笑って、「一億円だよ」と自慢げに言った。その当時の一億円といったら、途方もない巨額な金だ。その一億円が、私たちのような学生崩れに三百万円払って、フィリピン労働者を使い、買い叩いた売れ残りのロッカーを組み立たせれば手元に入るという。
「ロッカーだけで一億だぜ。じゃあ、あのビルの建設費はいくらだって話だよ。しかも、十年も経たないうちに砂漠に埋まるって、まさに砂上の楼閣だよな。しかもそれ、全部、俺たちの税金だぜ。世の中、狂ってんのよ、おかしいのよ」
阿部が酔って言った言葉が私の頭の中でいつまでもこだましていた。
悪夢のような一日
あと一か月もすれば、日本に帰れるという九月二十二日のことだった。いつものようにタクシーで現場に行くと、フィリピン人たちがいるだけで、大手ゼネコンのC建設の社員たちの姿はどこにもなかった。フィリピン人たちの話によると、昨夜のうちに彼らはトラックに荷物を積み込んでどこかへ行ってしまったという。阿部は次の現場であるバスラにまだロッカーが届いていないという連絡を一週間前に受けて、バスラに行ったきりだった。
私は嫌な予感がして、C建設の社員たちのプレハブ小屋や食堂を見て回った。よほど慌てていたのだろう。ほとんどそのままの状態だった。
そして、ホテルに戻り、昼寝をしている時だった。突然、ドーン!という地響きがして、目を覚ました。ホテルのロビーに行くと、イラク人たちが外に両手を向けて泣き叫んでいた。外に出てみると、近くの民家という民家が、跡形もなく吹き飛ばされていた。そして、ホテルの前の道路には、戦車や兵士を乗せた軍用トラックが長蛇の列を作っていた。と、そこへ耳をつんざくような音を立てた戦闘機が飛んできて、戦車や兵士を乗せた軍用トラックめがけて小型ミサイルを撃ち込んだ。阿鼻叫喚というのは、ああいうことをいうのだろう。手や足を吹き飛ばされて血まみれになった兵士たちは大声で喚き散らしながら、物陰に隠れた。空からの空爆は止まらず、私たちの目の前に内臓らしきものや、腕や足、眼球が飛んで落ちてくる。一瞬、吐き気を催す強烈な生臭さが鼻を衝くが、すぐに消えてしまう。おそらくあまりの暑さのせいで、生臭さも乾燥してしまい、臭いも消し去るのだろう。
私たちはいつも現場まで行くタクシーの運転手に有り金のすべてを渡し、バグダッド空港に走らせた。途中で見えた、沙漠に建っていたビルはすべて破壊されていた。
丸一昼夜、タクシーを走らせ、ようやくバグダッド空港に着いたものの、兵士たちによって封鎖されていた。空港の中には、私たちの知らないフィリピン人たちが大勢いた。イラク各地で働いていた人たちだろう。兵士に、「俺たちは日本人だ。どうすればいい?」と必死で訊くと、明日、ここに国際赤十字社のバスがくるから、それに乗って脱出しろという。
イラクからの脱出
翌朝、赤十字社のバスが二台やってきた。空港の中にいたフィリピン人たちは、いっせいにバスを目指して走り出した。私たちも負けじと走り、二手に分かれてなんとかバスに乗ることができた。しかし、発車したとたん、ドーン!という音ともに反対方向に走っていったバスに戦闘機からの小型ミサイルが命中し、粉々に破壊された。明らかに誤爆だ。その中に、私と一緒にイラクにきた二人が乗っていた。しかし、もうどうすることもできない。
私ともうひとりの学生崩れを乗せた国際赤十字社のバスは、ヨルダンまで走り、私は命からがら日本政府が用意した専用機で帰国することができた。あとでわかったことだが、誤爆されたバスはクゥエートに向かう予定だったらしい。帰国して数日後、私は阿部の会社を訪ねてみたが、その事務所は引き払われていた。結局、私はタダ働きをしたことになる。だが、命が助かっただけでも儲けものと思わなければならないだろう。
あれから四十年
あのイラン・イラク戦争に巻き込まれてからちょうど四十年になる。あれから私は、大手ゼネコンがODAを食いものにしていたこと、一緒に行った学生崩れの二人が乗った国際赤十字社のバスにイランの戦闘機が放った小型ミサイルが命中し、彼らが死んでしまったことなど、その真実をなんとかして世間に知らせたいと思ったのが物書きになろうとしたきっかけだった。しかし、日々の生活に追われているうちに、いつの間にか私は初心を忘れてしまっていた。
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