「狂気の増殖」というキーワードで闘争のメカニズムを考えてみようと思っている。これは、闘争や暴力は、いったん始まると狂気の増殖が始まるというものだ。つまり、身内の人間が殺されると、その怒りや恨みを持つ人間が復讐に立ち上がる。彼らにとっては、平和や許しを呼びかける声は、自分たちの深い恨みや悲しみを理解しない偽善の声に聞こえるために、彼らの復讐の行動を止める力にはならない。こういう「狂気の増殖」がジェノサイドや民族紛争があれほどの規模になる原因ではないか、という考えである。もちろん、その当人たちには、自分たちの行動が一種の狂気であるという意識はほとんど無いだろう。だが、怒りに我を忘れているとき、我々は狂気の中にあるのである。狂気の中にある人間には理性の声など無意味なのだ。
これが、戦争状態にある国家での人間心理なのである。つまり、理性と狂気は併存できない、ということだ。そこをどのように解決に導くかが、この問題の主題となる。
とりあえず、現代の狂気の一例として、ルワンダ内戦の記事をウィキペディアから転載しておく。
(補足) もちろん、「支配する者」は、この狂気のメカニズムを利用して民衆を操るわけだが、彼らもその狂気を完全に制御できるわけではない。火薬庫に火をつけることはできるが、その爆発の程度がどの程度になるかはわからないのである。
(備忘)項目として「狂気と理性」「持続的狂気」「冷静な狂気」「狂気の利用」「発火と増殖」「狂気を停止するもの」などを考えている。
(以下引用)
概要[編集]
詳細は「ルワンダ虐殺」を参照
ルワンダは第一次世界大戦まではドイツ、第一次世界大戦以降はベルギーの植民地であったが、植民地下で少数派であるツチを君主及び首長等の支配層とする間接支配体制が築かれ、多数派のフツとごく少数のトゥワはより差別を受けるようになった、1962年の独立の前にツチとベルギー当局との関係が悪化し、ベルギー当局は国連からの関係改善の勧告を無視し、社会革命としてフツによる体制転覆を支援した。
ツチは報復を恐れて近隣諸国に脱出したが、1973年にジュベナール・ハビャリマナがクーデターを起こすと、当初は和解策をとったものの独裁批判が強まると反ツチ傾向を強めた。ウガンダのツチ系難民がルワンダ愛国戦線 (RPF) を組織して、ウガンダを拠点にフツ族のハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させることになる。
1990年10月にはRPFがルワンダ北部に侵攻し、内戦が勃発。
1993年8月にRPFの猛攻と国際世論の高まりにより、アルーシャ協定が結ばれ、和平合意に至ったものの、1994年4月6日にフツのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領を乗せた飛行機が何者か(「フツの過激派による犯行」と「ツチの犯行」の二説有り)に撃墜されたことに端を発して、フツによるツチの大量虐殺(ジェノサイド)が始まった。
1994年7月にRPFがツチ系の保護を名目に全土を完全制圧し、フツのパステール・ビジムングを大統領、ツチのポール・カガメを副大統領(現大統領)として新政権が発足。紛争は終結した。
あまり指摘されないが、フランス政府が、虐殺側に立ったフツの援助を組織的に行っていた(フランス軍の展開、武器援助等)事など、冷戦時代からの名残を引きずった西欧諸国の思惑がさらに事態の鎮圧を遅らせていたという面もある(その一方で、アメリカは早くからRPFに接近しており、内戦が本格化する以前からカガメと接触していた)。なお、ルワンダ政府は、後にカガメを戦争犯罪者として告発したことなどを理由にフランスと国交断絶をしているが、2010年にニコラ・サルコジ大統領がルワンダを訪問し、外交的・軍事的な後押しをしたことに対し「大きな判断の誤りがあった」と虐殺に関する責任の一端があることを認めている[1]。
この紛争では、ラジオ放送がツチへの敵愾心を煽る放送を流したことが、一般人までもが虐殺に荷担することにつながった。
「ツチ対フツ」の形成 [編集]
フツとツチは元々は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、貧富の差がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧であった。遊牧業が主な生業であったツチは、牛を多数所有するなど比較的豊かであった[2]。しかし、ベルギー人をはじめとする白人による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られた。ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「野蛮」であるという神話・人種概念を流布(ハム仮説)し、ツチとフツは大きく対立し始めた[3]。1948年に188万7千人だった人口が1992年には750万人と4倍になり、土地不足や土壌の疲弊が起こり[4]、農業が主だったフツには貧困が蔓延するようになった。
植民地支配の道具としてツチの支配が形成され、1930年代にはIDカードの導入により固定化が図られ[4]、フツとトゥワはあらゆる面で差別を受けた。いずれの民族に属するかの基準は、父方の血統をもとに決められた[5]。父方の血統が受け継がれた。植民地解放の気運が高まるとベルギー当局とカトリック教会は多数派のフツ側に立場を逆転させたが、現地のカトリック教会の神父・修道者に犠牲者が出ており、教区全員を虐殺された教会もある。
映画化 [編集]
2004年、ルワンダの高級ホテルのマネージャーだったポール・ルセサバギナの体験を下に、映画『ホテル・ルワンダ』が公開され話題になった。日本での公開は当初、興行的に採算が合わないということで配給会社の買い手がつかなかったが、「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」(現『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会)による活動により配給元が決まり、日本でも公開されることとなった。公開は2006年1月。また、『ルワンダの涙』という映画も公開され、日本でも2007年にDVD化された。2006年には、カナダのロバート・ファヴロー監督が『愛の叫び ~運命の100日~』という映画を撮影した。
人口統計 [編集]
前述されているように100万人近い人間が虐殺された。なおルワンダの人口は1995年に約170万人減少したが、2000年には約200万人増加した。これは、ザイール(コンゴ民主共和国)、ウガンダ、ブルンジ、タンザニア等の各国にツチ系ルワンダ人が亡命したことと、その亡命者が大量に帰還したためだと指摘されている[6]。
これが、戦争状態にある国家での人間心理なのである。つまり、理性と狂気は併存できない、ということだ。そこをどのように解決に導くかが、この問題の主題となる。
とりあえず、現代の狂気の一例として、ルワンダ内戦の記事をウィキペディアから転載しておく。
(補足) もちろん、「支配する者」は、この狂気のメカニズムを利用して民衆を操るわけだが、彼らもその狂気を完全に制御できるわけではない。火薬庫に火をつけることはできるが、その爆発の程度がどの程度になるかはわからないのである。
(備忘)項目として「狂気と理性」「持続的狂気」「冷静な狂気」「狂気の利用」「発火と増殖」「狂気を停止するもの」などを考えている。
(以下引用)
概要[編集]
詳細は「ルワンダ虐殺」を参照
ルワンダは第一次世界大戦まではドイツ、第一次世界大戦以降はベルギーの植民地であったが、植民地下で少数派であるツチを君主及び首長等の支配層とする間接支配体制が築かれ、多数派のフツとごく少数のトゥワはより差別を受けるようになった、1962年の独立の前にツチとベルギー当局との関係が悪化し、ベルギー当局は国連からの関係改善の勧告を無視し、社会革命としてフツによる体制転覆を支援した。
ツチは報復を恐れて近隣諸国に脱出したが、1973年にジュベナール・ハビャリマナがクーデターを起こすと、当初は和解策をとったものの独裁批判が強まると反ツチ傾向を強めた。ウガンダのツチ系難民がルワンダ愛国戦線 (RPF) を組織して、ウガンダを拠点にフツ族のハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させることになる。
1990年10月にはRPFがルワンダ北部に侵攻し、内戦が勃発。
1993年8月にRPFの猛攻と国際世論の高まりにより、アルーシャ協定が結ばれ、和平合意に至ったものの、1994年4月6日にフツのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領を乗せた飛行機が何者か(「フツの過激派による犯行」と「ツチの犯行」の二説有り)に撃墜されたことに端を発して、フツによるツチの大量虐殺(ジェノサイド)が始まった。
1994年7月にRPFがツチ系の保護を名目に全土を完全制圧し、フツのパステール・ビジムングを大統領、ツチのポール・カガメを副大統領(現大統領)として新政権が発足。紛争は終結した。
あまり指摘されないが、フランス政府が、虐殺側に立ったフツの援助を組織的に行っていた(フランス軍の展開、武器援助等)事など、冷戦時代からの名残を引きずった西欧諸国の思惑がさらに事態の鎮圧を遅らせていたという面もある(その一方で、アメリカは早くからRPFに接近しており、内戦が本格化する以前からカガメと接触していた)。なお、ルワンダ政府は、後にカガメを戦争犯罪者として告発したことなどを理由にフランスと国交断絶をしているが、2010年にニコラ・サルコジ大統領がルワンダを訪問し、外交的・軍事的な後押しをしたことに対し「大きな判断の誤りがあった」と虐殺に関する責任の一端があることを認めている[1]。
この紛争では、ラジオ放送がツチへの敵愾心を煽る放送を流したことが、一般人までもが虐殺に荷担することにつながった。
「ツチ対フツ」の形成 [編集]
フツとツチは元々は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、貧富の差がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧であった。遊牧業が主な生業であったツチは、牛を多数所有するなど比較的豊かであった[2]。しかし、ベルギー人をはじめとする白人による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られた。ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「野蛮」であるという神話・人種概念を流布(ハム仮説)し、ツチとフツは大きく対立し始めた[3]。1948年に188万7千人だった人口が1992年には750万人と4倍になり、土地不足や土壌の疲弊が起こり[4]、農業が主だったフツには貧困が蔓延するようになった。
植民地支配の道具としてツチの支配が形成され、1930年代にはIDカードの導入により固定化が図られ[4]、フツとトゥワはあらゆる面で差別を受けた。いずれの民族に属するかの基準は、父方の血統をもとに決められた[5]。父方の血統が受け継がれた。植民地解放の気運が高まるとベルギー当局とカトリック教会は多数派のフツ側に立場を逆転させたが、現地のカトリック教会の神父・修道者に犠牲者が出ており、教区全員を虐殺された教会もある。
映画化 [編集]
2004年、ルワンダの高級ホテルのマネージャーだったポール・ルセサバギナの体験を下に、映画『ホテル・ルワンダ』が公開され話題になった。日本での公開は当初、興行的に採算が合わないということで配給会社の買い手がつかなかったが、「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」(現『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会)による活動により配給元が決まり、日本でも公開されることとなった。公開は2006年1月。また、『ルワンダの涙』という映画も公開され、日本でも2007年にDVD化された。2006年には、カナダのロバート・ファヴロー監督が『愛の叫び ~運命の100日~』という映画を撮影した。
人口統計 [編集]
前述されているように100万人近い人間が虐殺された。なおルワンダの人口は1995年に約170万人減少したが、2000年には約200万人増加した。これは、ザイール(コンゴ民主共和国)、ウガンダ、ブルンジ、タンザニア等の各国にツチ系ルワンダ人が亡命したことと、その亡命者が大量に帰還したためだと指摘されている[6]。
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