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徽宗皇帝のブログ

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生活苦への過剰な恐怖
「阿修羅」から転載。
先に「酔生夢人のブログ」を書いたので、その後追い記事、または補足になるが、「葬式、墓、戒名は不要」という意見にはまったく同意である。ついでに言えば、冠婚葬祭のほとんどは、今の大貧民時代には不適合だろう。ああいうのは金に余裕のある人間だけの特権でいいのであり、貧乏人が借金してまでやるようなものではない。
そして、貧乏はべつに恥ではない。子供などには家が貧乏で他人と同じような生活ができないのは屈辱に思われるだろうが、子供がそう思うならば「不義にして、かつ富むことは恥なり」と孔子は言っているよ、と教えればいい。貧乏だから生活が楽しめない、というのは、その人間の精神能力の貧しさを示すものであり、その方が物質的貧困よりも問題だろう。

なお、ガザなどで虐殺されつつある人々には同情するが、実は彼らにも、祖国を離れて生きるという選択はあったのではないか、と思う。それができないのは、難民となった場合の「生活苦への不安」のためだろう。つまり、爆撃による死は「免れる可能性がある」のに対し、難民となった場合の生活苦は100%確実だ、という、(あるいは無意識的かもしれない)選択がそこにはあったのではないか。ガザのような状況では、その選択は誤りだ、と私は思うのだが、これは事情を知らない部外者の無責任な感想かもしれない。しかし、要するに、「生活苦」への恐怖による不合理的判断というものもあるのではないか、ということである。
ガザには限らない。死の危険性が確実に存在する場所からは、逃げるのが一番の選択だろう。日本にもそういう場所はあるはずだ。場所だけではない。職場(軍隊やブラック企業)も同じことである。




(以下引用)



終活ブームに喝! 仏教学者が断言「葬式、墓、戒名は不要」(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/14/hasan89/msg/500.html
投稿者 赤かぶ 日時 2014 年 7 月 31 日 07:27:15: igsppGRN/E9PQ

           「その都度手を合わせればいい」/(C)日刊ゲンダイ


終活ブームに喝! 仏教学者が断言「葬式、墓、戒名は不要」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/152227
2014年7月31日 日刊ゲンダイ


 お盆に帰省する人は多いだろう。家族が集まったついでに、エンディングノートを見せながら、自分らしい最期について話し合ったりするかもしれない。「周りに迷惑をかけずに終活を…」なんて言うと、カッコよく見えるが、終活は不要だ。


「終活なんておやめなさい」(青春出版社)の著者で、仏教学者のひろさちや氏が言う。
「終活する人にとって、葬式をどうやって行うかは、大きなテーマです。<オレの葬式だから、オレがやりたいようにやるんだ>ともっともらしいことを言いますが、葬式は死者の仕事ではありません。遺族が自由裁量で行うものです。仏教の経典によると、その遺族が望まなければ葬式をやらなくていいと解釈できます。葬式をやらなくてもいいということは、お釈迦様の“お墨つき”なのです。でも、日本中のお寺で葬式が? あれは、お坊さんや葬儀屋の営業努力のたまもので、仏教の教えではありません。終活で葬式についてあれこれ指示するのはやめた方がいい」


■増加する直葬


 首都圏の葬式費用は約220万円。祭壇を設けず、すぐに火葬する直葬なら、20万~30万円ほどで済む。ある調査によると、直葬を行う割合はまだ6%と少ないが、増加傾向だという。
 地方から都心に出てきた人は、終活に備えて墓を用意しておくケースもあるだろうが、墓もいらない。


「仏教発祥の地・インドでは、火葬が基本で、焼かれた遺骨はすべて川に流されます。遺骨を墓に保管することはありません。なぜかというと、死者は、死後49日でどこかの世界に生まれ変わるという輪廻の考え方が深くかかわっているのです。だから、墓も不要で、戒名もいりません。戒名は仏門に入った証し。サラリーマンの方なら、仏門とは無関係ですから、俗名のままでいいのです。同じ理由で位牌も必要ありません」


 もちろん、すでに先祖の墓があるなら、そこに埋葬するのは構わない。実際、ひろさちや氏も先祖の墓が京都にあるが、子供には遺骨を埋葬しても、しなくてもいいと伝えているという。


では、埋葬しない遺骨はどうするか。


「散骨です。91年には、当時の厚生省と法務省が『葬送のための祭祀として節度をもって行われる限り(散骨は)遺骨遺棄罪に該当しない』と発表しました。『節度』とは、粉末状に砕いた遺骨を、周りの迷惑にならない場所にまくという配慮。それを守れば、遺族一人一人が、故人の骨を少しずつ分けて、思い思いの場所に散骨するのもいい。墓がなくても、遺族が故人を思い出したときに、その都度手を合わせればいいのです」


 葬儀の祭式をあれこれ指示するエンディングノートはエゴの塊で、死を受け入れたように見せかけながら、現世への執着心が垣間見える“執活”になっていることがほとんど。何も考えずに旅立つ方が気軽でいいのだ。



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