「泉の波立ち」から転載。
現実に毎日大量の人間がガザやウクライナなどで殺されている現実を前に、「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問が愚問であることは明瞭だが、高校生の女の子が一人の人間を殺すというような事件が起きると、この問題がまた浮上してくる。そして、下記記事はその質問に対して、確かに「正解」を与えている。
宗教的な立場、あるいは哲学的な立場から見れば、この解答は「正解」ではないかもしれない。しかし、現実に即して見れば、この解答以外には正解は無いだろう。
人を殺すことは許されている。ただし、それはそれが可能な権力者と、その権力の走狗としての立場(警察・軍隊および雇われテロリスト集団を含む)にいる者たちだけなのである。
もちろん、それが道義的に正しいはずはない。法の前の平等は権力者にもその手下にもその反対者たちにも同等に与えられているはずなのである。だが、現実はまったくそれに反している。その事を、親たちは自分の子供たちに教えねばならないだろう。その結果、子供が「殺す側」になるか、「殺される側」になるかは運任せ、ということになる。
(以下引用)
現実に毎日大量の人間がガザやウクライナなどで殺されている現実を前に、「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問が愚問であることは明瞭だが、高校生の女の子が一人の人間を殺すというような事件が起きると、この問題がまた浮上してくる。そして、下記記事はその質問に対して、確かに「正解」を与えている。
宗教的な立場、あるいは哲学的な立場から見れば、この解答は「正解」ではないかもしれない。しかし、現実に即して見れば、この解答以外には正解は無いだろう。
人を殺すことは許されている。ただし、それはそれが可能な権力者と、その権力の走狗としての立場(警察・軍隊および雇われテロリスト集団を含む)にいる者たちだけなのである。
もちろん、それが道義的に正しいはずはない。法の前の平等は権力者にもその手下にもその反対者たちにも同等に与えられているはずなのである。だが、現実はまったくそれに反している。その事を、親たちは自分の子供たちに教えねばならないだろう。その結果、子供が「殺す側」になるか、「殺される側」になるかは運任せ、ということになる。
(以下引用)
2014年08月02日
◆ なぜ人を殺してはいけないのか?
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という疑問に、正しく答えられる人は少ない。そこで私が正解を教えよう。
──
その正解はこうだ。
「それは問題自体が間違っている」
どうしてそうなのかを、以下で説明しよう。
──
その質問は、次の二点から成り立っている。
(1) 「人を殺してはいけない」というのは真である
(2) その真である命題の理由は何か?
しかしながら、(1) は成立しないのだ! つまり、
「人を殺してはいけない」
というのは真ではないのだ!
──
その証拠は、次のことからわかる。
「人を殺してもいい場合がたくさんある」
具体的には? 戦争の場合がそうだ。ここでは、敵国人を殺すことは悪ではない。たとえば、こうだ。
・ ロシアとウクライナの戦争(殺しあい)
・ イスラエルとパレスチナとの紛争(殺しあい)
・ イラクへの米国の侵攻(ほぼ一方的な虐殺)
これらはいずれも「悪」とは見なされない。
( ※ たとえばウクライナの例では、欧州も米国も日本も、ウクライナの側に味方をして、ロシアを批判しているだけだ。喧嘩を止めようとしているのではなく、自分が喧嘩に参加しようとしている。経済制裁みたいな形で喧嘩の当事者になりたがっている。)
「悪」とは見なされないどころか、戦争の当事者にとっては、「敵国人を殺すのは善である」というふうに見なされる。
・ イスラエルがガザの女子供を殺すのは善である
・ そのイスラエルを支援する米国政府は善である
・ その米国政府を支持する日本政府は善である
安倍首相の「集団的自衛権」も同様である。
「米国が他国で虐殺をしたときに、その米国の軍隊を守るために、敵国兵を殺害することは、善である」
以上の例を見ればわかるように、いずれにおいても、戦争ふうの状況では、「敵兵を殺すことは善」なのである。つまり、「人を殺すことは悪」という命題は成立しない。
──
ここまで見ればわかるだろう。
「人を殺してはいけない」
という命題は、真ではない。正確に言えば、恒真ではない。これは部分的な真であるにすぎない。これが真となるためには、ある条件が必要だ。その条件は? こうだ。
「共同体の内部では」
これを頭に付けて、書き直す必要がある。すなわち、こうだ。
「共同体の内部では、人を殺してはいけない」
これが真である。
したがって、単に
「人を殺してはいけない」
というのは、真ではないのだ。
──
さて。すると、問題は、次のようになる。
「共同体の内部では、人を殺してはいけない」のは、なぜか?
これについて回答するなら、こうなる。
「共同体を維持するために、共同体がそういう制度を作ったから。つまり、法律で決まっているから」
要するに、「人を殺してはいけない」と法律に書いてあるから、人を殺してはいけない。それだけのことだ。
逆に、「人を殺してもいい」と法律に書いてあれば、人を殺してもいいことになる。
( ※ ちなみに、封建制の下では、王様や領主が市民を殺すのはやり放題だったし、日本でも武士が町民を殺すのは「斬り捨てご免」だった。)
──
ここまで言えば、現実と照合できるだろう。現代において「人を殺してもいい」と法律に書こうと狙っているのが、安倍首相だ。
本来ならば、人でも国でも、「自衛以外では人を殺してはいけない」はずだった。「自衛のときにやむを得ない範囲で人を殺すことがあっても仕方ない」という立場だった。
( ※ たとえば、「敵が頭の上から爆弾を落としてきたなら、その爆弾を落とす飛行機を撃墜してもいい」ということ。)
ところが、安倍首相は、まったく新たな概念を持ちだした。それは「集団的自衛権」である。
これは、典型的には、次のことになる。
「イスラエルがパレスチナ人を虐殺して、米国がそれを支持したとき、パレスチナ人が米国を攻撃することがある。それを見た日本は、集団的自衛権を発揮して、パレスチナ人を虐殺してもいい」
これは、従来の見解とはまったく異なる。従来の見解では、「自衛権」が前提だったから、「日本が攻められない限りは、日本から攻撃してはいけない」はずだった。
ところが、安倍首相の方針では、「盟友である米国が攻められたから、米国を守るために日本も攻撃していい」という理屈になる。
こういう心配に対して、安倍首相は「そんなことはやりません。杞憂です」と弁解している。しかし、そのことを保証するのは、安倍首相の舌先三寸だけだ。少なくとも、彼の主張する「集団的自衛権」という概念によれば、「米国軍を守るために、敵国兵を殺害する」のは、善なのである。
こうして、「自分が攻撃されたわけでもないのに、敵国兵を殺害すること」が善だと見なされる。そして、それを保証するのは、法律なのだ。
その法律を、好き勝手に書き換えてしまえば、人を殺すのは善になるのだ。
──
まとめ。
・ 「なぜ人を殺してはいけないのか?」という疑問に正解はない。
・ 「人を殺してはいけない」という命題は真ではない。
・ 「人を殺してはいけない」のは、共同体の内部だけだ。
・ 共同体の外部に対しては、人を殺してもいいことがある。
・ 「外部の人を殺してもいい」という法律を作れば、人を殺してもいい。
・ 安倍首相は、そういう法律を作ろうとしている。
・ 従って将来的には、日本人も人を殺していいようになる。
・ ただし現時点では、その法律ができていないので、人を殺してはいけない。
・ 人を殺していいかどうかは、法律しだい。
・ 法律を勝手に変えてしまえば、いくらでも人を殺すことができる。
・ 佐世保の女子高生が殺そうとした相手はたったの一人だけ。
・ 日本の首相が殺そうと狙っている相手の数は……不明。
[ 付記1 ]
日本の首相にとっては、人間の命も、ウナギの命も、たいして変わりはない。どっちもいくらでも減らしていい。いくら減ろうと知ったこっちゃない。まして、佐世保の一人なんて、ちっとも気にしない。
また、日本人の大部分にとっても、同様である。彼らにとって大切なのは、小保方さんを処分することだけだ。そのことばかりに熱中している。(学術会議もそうだしね。)
ちなみに、分子生物学会については、本日別項を参照。
→ STAP:分子生物学会の不正
なお、分子生物学会の言い分が正しいのであれば、東大の捏造には百倍の批判をぶちかけてもいいはずだ。だが、彼らはそういうことはしない。あくまで小保方さんだけに集中砲火を浴びせる。( → 前日項目 )
また、脱法ハーブでは、「死亡したとみられる人は40人」という記事もある。なのに、40人が死ぬ話題はほったらかしで、マウスが死ぬだけの実験が「不正だ」と大騒ぎする。人間の命など、マウスの命に比べれば、無視してもいいということなのだろう。
政府であれ、学会であれ、人々は人間の命のことなど、どうでもいいのだ。
この世で大切なのは? 政治家にとっては、金であり、学者にとっては、「自分は正しい」と威張れる権利だ。それこそが大切なものだ。一方、人の命なんかどうでもいいのだ。……これが、この世の常識なのである。
[ 付記2 ]
現在の日本でも、殺人が合法化されている場合がある。「まさか」と思うかもしれないが、本当である。
それは、「過労死」という分野だ。人を死ぬまで過度に働かせて、ついには死なせてしまう。……こういうことが容認されている。
実例は、ワタミだ。
すき家も同様だ。
→ 「すき家」過酷労働明らかに“過労死ライン”超えも
別に、これらの企業に限ったことではない。日本では、大幅残業による過労死が続出している。企業側が社員を休ませずに働かせて過労死させる。
そして安倍首相は、それを止めるどころか、逆に「残業代ゼロ法案」を推進することで、大幅にタダ働きをさせようとしている。
というわけで、日本では「会社側(経営社側)の強制による殺人」は、合法化されているのである。それはかつて武士に「切り捨てご免」が認められていたのと同様である。日本は昔も今も、人殺しが容認されている社会なのである。
( ※ ただし、人殺しの権利が与えられているのは、経営者だけだ。労働者の側には与えられていない。それはちょうど、イスラエルとパレスチナの関係に似ている。イスラエルがパレスチナを殺すことは容認されているが、パレスチナがイスラエルを殺すことは容認されていない。実質的にはそうなっている。日本でも同様だ。人を殺していいのは、「経営者が労働者を殺す」という場合のみである。経営者ならば、労働者を殺しても逮捕されないし、それどころか、国会議員になれる。)
──
その正解はこうだ。
「それは問題自体が間違っている」
どうしてそうなのかを、以下で説明しよう。
──
その質問は、次の二点から成り立っている。
(1) 「人を殺してはいけない」というのは真である
(2) その真である命題の理由は何か?
しかしながら、(1) は成立しないのだ! つまり、
「人を殺してはいけない」
というのは真ではないのだ!
──
その証拠は、次のことからわかる。
「人を殺してもいい場合がたくさんある」
具体的には? 戦争の場合がそうだ。ここでは、敵国人を殺すことは悪ではない。たとえば、こうだ。
・ ロシアとウクライナの戦争(殺しあい)
・ イスラエルとパレスチナとの紛争(殺しあい)
・ イラクへの米国の侵攻(ほぼ一方的な虐殺)
これらはいずれも「悪」とは見なされない。
( ※ たとえばウクライナの例では、欧州も米国も日本も、ウクライナの側に味方をして、ロシアを批判しているだけだ。喧嘩を止めようとしているのではなく、自分が喧嘩に参加しようとしている。経済制裁みたいな形で喧嘩の当事者になりたがっている。)
「悪」とは見なされないどころか、戦争の当事者にとっては、「敵国人を殺すのは善である」というふうに見なされる。
・ イスラエルがガザの女子供を殺すのは善である
・ そのイスラエルを支援する米国政府は善である
・ その米国政府を支持する日本政府は善である
安倍首相の「集団的自衛権」も同様である。
「米国が他国で虐殺をしたときに、その米国の軍隊を守るために、敵国兵を殺害することは、善である」
以上の例を見ればわかるように、いずれにおいても、戦争ふうの状況では、「敵兵を殺すことは善」なのである。つまり、「人を殺すことは悪」という命題は成立しない。
──
ここまで見ればわかるだろう。
「人を殺してはいけない」
という命題は、真ではない。正確に言えば、恒真ではない。これは部分的な真であるにすぎない。これが真となるためには、ある条件が必要だ。その条件は? こうだ。
「共同体の内部では」
これを頭に付けて、書き直す必要がある。すなわち、こうだ。
「共同体の内部では、人を殺してはいけない」
これが真である。
したがって、単に
「人を殺してはいけない」
というのは、真ではないのだ。
──
さて。すると、問題は、次のようになる。
「共同体の内部では、人を殺してはいけない」のは、なぜか?
これについて回答するなら、こうなる。
「共同体を維持するために、共同体がそういう制度を作ったから。つまり、法律で決まっているから」
要するに、「人を殺してはいけない」と法律に書いてあるから、人を殺してはいけない。それだけのことだ。
逆に、「人を殺してもいい」と法律に書いてあれば、人を殺してもいいことになる。
( ※ ちなみに、封建制の下では、王様や領主が市民を殺すのはやり放題だったし、日本でも武士が町民を殺すのは「斬り捨てご免」だった。)
──
ここまで言えば、現実と照合できるだろう。現代において「人を殺してもいい」と法律に書こうと狙っているのが、安倍首相だ。
本来ならば、人でも国でも、「自衛以外では人を殺してはいけない」はずだった。「自衛のときにやむを得ない範囲で人を殺すことがあっても仕方ない」という立場だった。
( ※ たとえば、「敵が頭の上から爆弾を落としてきたなら、その爆弾を落とす飛行機を撃墜してもいい」ということ。)
ところが、安倍首相は、まったく新たな概念を持ちだした。それは「集団的自衛権」である。
これは、典型的には、次のことになる。
「イスラエルがパレスチナ人を虐殺して、米国がそれを支持したとき、パレスチナ人が米国を攻撃することがある。それを見た日本は、集団的自衛権を発揮して、パレスチナ人を虐殺してもいい」
これは、従来の見解とはまったく異なる。従来の見解では、「自衛権」が前提だったから、「日本が攻められない限りは、日本から攻撃してはいけない」はずだった。
ところが、安倍首相の方針では、「盟友である米国が攻められたから、米国を守るために日本も攻撃していい」という理屈になる。
こういう心配に対して、安倍首相は「そんなことはやりません。杞憂です」と弁解している。しかし、そのことを保証するのは、安倍首相の舌先三寸だけだ。少なくとも、彼の主張する「集団的自衛権」という概念によれば、「米国軍を守るために、敵国兵を殺害する」のは、善なのである。
こうして、「自分が攻撃されたわけでもないのに、敵国兵を殺害すること」が善だと見なされる。そして、それを保証するのは、法律なのだ。
その法律を、好き勝手に書き換えてしまえば、人を殺すのは善になるのだ。
──
まとめ。
・ 「なぜ人を殺してはいけないのか?」という疑問に正解はない。
・ 「人を殺してはいけない」という命題は真ではない。
・ 「人を殺してはいけない」のは、共同体の内部だけだ。
・ 共同体の外部に対しては、人を殺してもいいことがある。
・ 「外部の人を殺してもいい」という法律を作れば、人を殺してもいい。
・ 安倍首相は、そういう法律を作ろうとしている。
・ 従って将来的には、日本人も人を殺していいようになる。
・ ただし現時点では、その法律ができていないので、人を殺してはいけない。
・ 人を殺していいかどうかは、法律しだい。
・ 法律を勝手に変えてしまえば、いくらでも人を殺すことができる。
・ 佐世保の女子高生が殺そうとした相手はたったの一人だけ。
・ 日本の首相が殺そうと狙っている相手の数は……不明。
[ 付記1 ]
日本の首相にとっては、人間の命も、ウナギの命も、たいして変わりはない。どっちもいくらでも減らしていい。いくら減ろうと知ったこっちゃない。まして、佐世保の一人なんて、ちっとも気にしない。
また、日本人の大部分にとっても、同様である。彼らにとって大切なのは、小保方さんを処分することだけだ。そのことばかりに熱中している。(学術会議もそうだしね。)
ちなみに、分子生物学会については、本日別項を参照。
→ STAP:分子生物学会の不正
なお、分子生物学会の言い分が正しいのであれば、東大の捏造には百倍の批判をぶちかけてもいいはずだ。だが、彼らはそういうことはしない。あくまで小保方さんだけに集中砲火を浴びせる。( → 前日項目 )
また、脱法ハーブでは、「死亡したとみられる人は40人」という記事もある。なのに、40人が死ぬ話題はほったらかしで、マウスが死ぬだけの実験が「不正だ」と大騒ぎする。人間の命など、マウスの命に比べれば、無視してもいいということなのだろう。
政府であれ、学会であれ、人々は人間の命のことなど、どうでもいいのだ。
この世で大切なのは? 政治家にとっては、金であり、学者にとっては、「自分は正しい」と威張れる権利だ。それこそが大切なものだ。一方、人の命なんかどうでもいいのだ。……これが、この世の常識なのである。
[ 付記2 ]
現在の日本でも、殺人が合法化されている場合がある。「まさか」と思うかもしれないが、本当である。
それは、「過労死」という分野だ。人を死ぬまで過度に働かせて、ついには死なせてしまう。……こういうことが容認されている。
実例は、ワタミだ。
ワタミグループ全社員に渡される『理念集』には「365日24時間死ぬまで働け」など、驚愕の言葉が書かれている。
実際に、ワタミでは、女性社員が6日連続深夜勤務などで時間外労働が月140時間を超えるなどして適応障害を発症し、自殺する事件が発生した。
また、ワタミのグループ会社「ワタミの介護」が運営する施設で、当時74歳の女性が入浴中に溺死したことや、当時87歳の男性が床ずれを悪化させ敗血症になるまで放置され、その後入院した病院で死亡したことも昨年報じられている。
さらに、今年2月には弁当宅配会社「ワタミタクショク」の担当者が、独り暮らしの女性宅を弁当宅配のために訪問した際、玄関チャイムにその女性が応答しなかったにもかかわらず立ち去り、翌日死亡しているのが発見された。
( → ワタミ相次ぐ死亡事故で訴訟続出 )
すき家も同様だ。
→ 「すき家」過酷労働明らかに“過労死ライン”超えも
別に、これらの企業に限ったことではない。日本では、大幅残業による過労死が続出している。企業側が社員を休ませずに働かせて過労死させる。
そして安倍首相は、それを止めるどころか、逆に「残業代ゼロ法案」を推進することで、大幅にタダ働きをさせようとしている。
というわけで、日本では「会社側(経営社側)の強制による殺人」は、合法化されているのである。それはかつて武士に「切り捨てご免」が認められていたのと同様である。日本は昔も今も、人殺しが容認されている社会なのである。
( ※ ただし、人殺しの権利が与えられているのは、経営者だけだ。労働者の側には与えられていない。それはちょうど、イスラエルとパレスチナの関係に似ている。イスラエルがパレスチナを殺すことは容認されているが、パレスチナがイスラエルを殺すことは容認されていない。実質的にはそうなっている。日本でも同様だ。人を殺していいのは、「経営者が労働者を殺す」という場合のみである。経営者ならば、労働者を殺しても逮捕されないし、それどころか、国会議員になれる。)
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