今日は書くことが二つある。
一つは昨日の参議院での森ゆうこについて。
もう一つは、「山科恭介のブログ」に掲載されていた原口一博の手記のこと。
この2点に共通する点もある。それは政治家を評価することの難しさだ。
まず、第一点。昨日の森ゆうこの政府への質問は、正直言ってがっかりした。彼女の誠実さは分かるのだが、現在の政治の大局を見ていない、あるいは自分の質問が国民にどういう印象を与えるかについて見えていない質問の仕方だった。
要するに、彼女の質問は「小沢党首を敵から守るためにその敵を攻撃しているだけ」という印象を与えてしまったのである。少なくとも、後半の検察攻撃の質問はそうとしか見えなかった。すなわち、「国民のための質問」ではなく「党派利益のための質問」にしか見えなかったのである。国会中継を見ていた人には彼女がなぜそのような質問をしているかの意味さえ分からないような質問の仕方で、まるで重箱の隅をつつくように、検察の手続き瑕疵をくどくど追及することで貴重な質問時間の大半を費やしてしまったのだ。
小沢を守るのはいい。しかし、頭の中がそれだけで一杯になっているような、感情的な態度では、政治家としては駄目だろう。昨日の国会中継を見ていた国民には、冷静な態度で淡々と答弁する政府側の方が立派に見えたはずだ。もちろん、その中身は表面とは真逆で、汚物で一杯なのだが、問題は国民がどう見るかなのだ。その点で昨日の森ゆうこには残念ながら落第点を付けざるを得ない。
私が森ゆうこファンであることには変わりはない。彼女が政治家として大切な信義の気持ちを持っていることも評価する。ただ、それが小沢への忠義という狭い信義で終わっていないか、心配なのである。何よりもまず国民全体の幸福を優先させるのが真の政治家である。
明治維新の大久保利通、西郷隆盛は無二の親友でありながら、政治的判断の違いによって、あえて敵対した。しかし、そのどちらも「無私」という一点では同じく聖人的な高みに達していたのである。党派などというものは「私」であって国民そのものではない。大久保・西郷レベルになれとは言わない。しかし、それを目指さないならば、最初から政治家になどならないほうがいい。
さて、原口一博は森ゆうことは逆に「小沢を裏切った男」として小沢ファンからは蛇蝎のごとく(は大袈裟か)嫌われている。「やっぱり松下政経塾出身だからな」と彼を見下している人も多いだろう。しかし、下に引用する手記を読むと、彼には彼なりの考えがあって小沢と袂を分かったことが分かる。(「分かったことが分かる」は変か。「別ったことが分かる」がいいか?、しかし、「袂」は「分かつ」ものだ)しかも、ここに書かれた考えには、小沢新党の出発に当たって重要な忠告となるものが含まれているのだ。
それは「壊し屋」と言われた小沢が、実は誠実かつ慎重そのものの人間であり、他人の意思を尊重する人間でありながら、なぜ次々に新党から新党へと破壊と創造を繰り返すのか、という謎を解明するものだ。
それは「組織は、その体制を作った瞬間から硬直化する」という原理的な問題だ。小沢がこの原理に無頓着ならば、今回の新党もまた空中分解する可能性は高い。
かつての自民党は、無定見の組織であり、そこには与党であることの利益を求める政治家が無数に集まってきた。それだけに思想的には種々雑多であり、その点、つまり、組織内部においてだけはまさしく「自由で民主的」なものもあったはずだ。それが自民党の強みであった。言っておくが、現在の自民党は国民を裏切り続けたことで国民からそっぽを向かれ、時代に取り残された敗残の政党であり、かつての自民党の栄華の夢に溺れるだけの存在だ。
話がやや逸れたが、組織がピラミッド状の階層を作ると、そこには自由な発言が生まれなくなり、寝業師が暗躍するようになる。
小沢新党がまたしてもそうなる可能性は非常に高いと思う。
そこで、下記記事の原口一博の提言
「ここで重要なのはオープンソースの誰にでも等しく開かれた、例えて言えばリナックス型の意思決定・衆智を集める運動体が重要だ。しかし、それをあえて旧来型のピラミッド型で統治しようとすれば、拒否反応がおきるだけでなく民主党の良さまでも殺してしまう。ただでさえ小沢一郎と言うカリスマは神格化される傾向が強いのに、この勉強会まで縦型の組織にしてしまえば衆智も人も集まらない。」
は、非常に大事なことを言っていると私は思う。
小沢自身は非常に謙虚に他人の言葉に耳を傾ける人間だと思う。だが、ピラミッド型の組織を作った瞬間に、自由な発言は不可能になるのである。
ここをよく考えて、旧来の政治組織とは異なる、本当の意味で民主的な、「一般国民に広く開かれた政治組織」を考えてもらいたいと思う。
ここに書かれた原口一博の考えを読んで、私は彼に対する見方が変わった。やはり、人は発言しなければその人格は分からない。発言すればするほど正体が丸分かりになっていく橋下という好例もある。
森ゆうこには、現在のところ政治家としての限界がある、ということも分かったようだし、私など、こうしたブログを書くことで世間に自分の無知無能無学を毎日アピールしているようなものだ。しかし、「思うこと言はざるは腹膨るる業なり」なので、これからも自分の馬鹿さをさらし続けるだろう。
(以下引用)
「原口君の意見も聞いてみたい。私たちのありかたについても提案があれば聞きたい。」
何を言っても気にくわないだろうし、反発をうけるだけだと貝を決め込んでいた私はこの言葉でハタと困りました。
昨年の代表選挙の時のこともあり 「沈黙は金」 だと考えていました。
「止めて守る」
会の発足時にまたあやふやな立地点では、まずいと思い口を開きました。
「もともと民主党は、水平型の組織であり非常にフラットな組織でもある。いくつものサークルのような緩やかな結びつきがあり、その複合体で成り立っている。ここで重要なのはオープンソースの誰にでも等しく開かれた、例えて言えばリナックス型の意思決定・衆智を集める運動体が重要だ。しかし、それをあえて旧来型のピラミッド型で統治しようとすれば、拒否反応がおきるだけでなく民主党の良さまでも殺してしまう。ただでさえ小沢一郎と言うカリスマは神格化される傾向が強いのに、この勉強会まで縦型の組織にしてしまえば衆智も人も集まらない。ピラミッド型にしてしまえば、100年経っても民主党の中では勝てない。だからグループを広くつくると言うのであればリナックス型にして誰もがその意思決定に加われる形にしなければならない。誰かがシナリオを書いてそのとおりにしなければならないと言うのであればだれも人はきません。」
一度、口を開けば日頃考えていることが堰を切ったように溢れました。
今回、私は「党首」に分断と分裂を繰り返す、これまでと同じようなことをさせたくありませんでした。
決意の固さを示すためとは言え離党届を書かせて預かるようなこともしてほしくはありませんでした。階さんや辻さんらも含めて、ここでの決起を思いとどまるように進言した人たちが一部に悪し様に言われているとも聞きます。
しかし、本当に大切なことを私心なく主張した勇気ある人たちをも遠ざけていては、政治が成り立ちません。私は、未だに民主党再生を諦めていません。「党首」 とは、また道が分かれたようにも思えますが目指す方向が違っているとは思いません。登る山が同じならば登る道は違ってもいつかは同じところに立つはずです。
「止めて守る」
守るべきは国益であり世界の平和と日本の国家です。
そのために最短距離を走る決意を固めて同志たちと次を目指します。
[ 追記 ]
先ほど「阿修羅」を見ていたら、森ゆうこ絶賛のコメントの洪水で少々驚いた。私の目がおかしいのだろうか。それとも小沢ファンの人々だから、期待の虹で目がくらんであれが良くみえたのだろうか。だが、私は前々から森ゆうこを高く評価してきた人間として、あの質問態度、質問内容はまったく期待はずれであったと繰り返しておく。つまり、私が言うのは、「一般国民の目から見て」どうなのか、ということであり、小沢ファン、森ファンがどう見るかはどうでもいいのである。
むしろ今は、小沢グループは、何が自分たちに欠けていて、何が必要なのかを深く掘り下げるべき時だと思う。小沢支持者こそ、小沢グループに対し厳しい意見をも言わねばならないだろう。もちろん、建設的意見を言う、ということだ。
何度も言ったと思うが、B層を味方につけるにはどうするかが大事なのである。国会での質疑応答もその舞台の一つだ。橋下があれほどのし上がったのも、彼にはテレビやツィッターや記者会見を駆使してのB層戦略が明確にあったからである。
だが、今の小沢陣営には、大衆心理に長けた、そのような人材がいるようには見えない。
それが小沢陣営の最大の弱点だろう。その弱点を放置していると、それが今後致命傷になる予感がする。
一つは昨日の参議院での森ゆうこについて。
もう一つは、「山科恭介のブログ」に掲載されていた原口一博の手記のこと。
この2点に共通する点もある。それは政治家を評価することの難しさだ。
まず、第一点。昨日の森ゆうこの政府への質問は、正直言ってがっかりした。彼女の誠実さは分かるのだが、現在の政治の大局を見ていない、あるいは自分の質問が国民にどういう印象を与えるかについて見えていない質問の仕方だった。
要するに、彼女の質問は「小沢党首を敵から守るためにその敵を攻撃しているだけ」という印象を与えてしまったのである。少なくとも、後半の検察攻撃の質問はそうとしか見えなかった。すなわち、「国民のための質問」ではなく「党派利益のための質問」にしか見えなかったのである。国会中継を見ていた人には彼女がなぜそのような質問をしているかの意味さえ分からないような質問の仕方で、まるで重箱の隅をつつくように、検察の手続き瑕疵をくどくど追及することで貴重な質問時間の大半を費やしてしまったのだ。
小沢を守るのはいい。しかし、頭の中がそれだけで一杯になっているような、感情的な態度では、政治家としては駄目だろう。昨日の国会中継を見ていた国民には、冷静な態度で淡々と答弁する政府側の方が立派に見えたはずだ。もちろん、その中身は表面とは真逆で、汚物で一杯なのだが、問題は国民がどう見るかなのだ。その点で昨日の森ゆうこには残念ながら落第点を付けざるを得ない。
私が森ゆうこファンであることには変わりはない。彼女が政治家として大切な信義の気持ちを持っていることも評価する。ただ、それが小沢への忠義という狭い信義で終わっていないか、心配なのである。何よりもまず国民全体の幸福を優先させるのが真の政治家である。
明治維新の大久保利通、西郷隆盛は無二の親友でありながら、政治的判断の違いによって、あえて敵対した。しかし、そのどちらも「無私」という一点では同じく聖人的な高みに達していたのである。党派などというものは「私」であって国民そのものではない。大久保・西郷レベルになれとは言わない。しかし、それを目指さないならば、最初から政治家になどならないほうがいい。
さて、原口一博は森ゆうことは逆に「小沢を裏切った男」として小沢ファンからは蛇蝎のごとく(は大袈裟か)嫌われている。「やっぱり松下政経塾出身だからな」と彼を見下している人も多いだろう。しかし、下に引用する手記を読むと、彼には彼なりの考えがあって小沢と袂を分かったことが分かる。(「分かったことが分かる」は変か。「別ったことが分かる」がいいか?、しかし、「袂」は「分かつ」ものだ)しかも、ここに書かれた考えには、小沢新党の出発に当たって重要な忠告となるものが含まれているのだ。
それは「壊し屋」と言われた小沢が、実は誠実かつ慎重そのものの人間であり、他人の意思を尊重する人間でありながら、なぜ次々に新党から新党へと破壊と創造を繰り返すのか、という謎を解明するものだ。
それは「組織は、その体制を作った瞬間から硬直化する」という原理的な問題だ。小沢がこの原理に無頓着ならば、今回の新党もまた空中分解する可能性は高い。
かつての自民党は、無定見の組織であり、そこには与党であることの利益を求める政治家が無数に集まってきた。それだけに思想的には種々雑多であり、その点、つまり、組織内部においてだけはまさしく「自由で民主的」なものもあったはずだ。それが自民党の強みであった。言っておくが、現在の自民党は国民を裏切り続けたことで国民からそっぽを向かれ、時代に取り残された敗残の政党であり、かつての自民党の栄華の夢に溺れるだけの存在だ。
話がやや逸れたが、組織がピラミッド状の階層を作ると、そこには自由な発言が生まれなくなり、寝業師が暗躍するようになる。
小沢新党がまたしてもそうなる可能性は非常に高いと思う。
そこで、下記記事の原口一博の提言
「ここで重要なのはオープンソースの誰にでも等しく開かれた、例えて言えばリナックス型の意思決定・衆智を集める運動体が重要だ。しかし、それをあえて旧来型のピラミッド型で統治しようとすれば、拒否反応がおきるだけでなく民主党の良さまでも殺してしまう。ただでさえ小沢一郎と言うカリスマは神格化される傾向が強いのに、この勉強会まで縦型の組織にしてしまえば衆智も人も集まらない。」
は、非常に大事なことを言っていると私は思う。
小沢自身は非常に謙虚に他人の言葉に耳を傾ける人間だと思う。だが、ピラミッド型の組織を作った瞬間に、自由な発言は不可能になるのである。
ここをよく考えて、旧来の政治組織とは異なる、本当の意味で民主的な、「一般国民に広く開かれた政治組織」を考えてもらいたいと思う。
ここに書かれた原口一博の考えを読んで、私は彼に対する見方が変わった。やはり、人は発言しなければその人格は分からない。発言すればするほど正体が丸分かりになっていく橋下という好例もある。
森ゆうこには、現在のところ政治家としての限界がある、ということも分かったようだし、私など、こうしたブログを書くことで世間に自分の無知無能無学を毎日アピールしているようなものだ。しかし、「思うこと言はざるは腹膨るる業なり」なので、これからも自分の馬鹿さをさらし続けるだろう。
(以下引用)
「原口君の意見も聞いてみたい。私たちのありかたについても提案があれば聞きたい。」
何を言っても気にくわないだろうし、反発をうけるだけだと貝を決め込んでいた私はこの言葉でハタと困りました。
昨年の代表選挙の時のこともあり 「沈黙は金」 だと考えていました。
「止めて守る」
会の発足時にまたあやふやな立地点では、まずいと思い口を開きました。
「もともと民主党は、水平型の組織であり非常にフラットな組織でもある。いくつものサークルのような緩やかな結びつきがあり、その複合体で成り立っている。ここで重要なのはオープンソースの誰にでも等しく開かれた、例えて言えばリナックス型の意思決定・衆智を集める運動体が重要だ。しかし、それをあえて旧来型のピラミッド型で統治しようとすれば、拒否反応がおきるだけでなく民主党の良さまでも殺してしまう。ただでさえ小沢一郎と言うカリスマは神格化される傾向が強いのに、この勉強会まで縦型の組織にしてしまえば衆智も人も集まらない。ピラミッド型にしてしまえば、100年経っても民主党の中では勝てない。だからグループを広くつくると言うのであればリナックス型にして誰もがその意思決定に加われる形にしなければならない。誰かがシナリオを書いてそのとおりにしなければならないと言うのであればだれも人はきません。」
一度、口を開けば日頃考えていることが堰を切ったように溢れました。
今回、私は「党首」に分断と分裂を繰り返す、これまでと同じようなことをさせたくありませんでした。
決意の固さを示すためとは言え離党届を書かせて預かるようなこともしてほしくはありませんでした。階さんや辻さんらも含めて、ここでの決起を思いとどまるように進言した人たちが一部に悪し様に言われているとも聞きます。
しかし、本当に大切なことを私心なく主張した勇気ある人たちをも遠ざけていては、政治が成り立ちません。私は、未だに民主党再生を諦めていません。「党首」 とは、また道が分かれたようにも思えますが目指す方向が違っているとは思いません。登る山が同じならば登る道は違ってもいつかは同じところに立つはずです。
「止めて守る」
守るべきは国益であり世界の平和と日本の国家です。
そのために最短距離を走る決意を固めて同志たちと次を目指します。
[ 追記 ]
先ほど「阿修羅」を見ていたら、森ゆうこ絶賛のコメントの洪水で少々驚いた。私の目がおかしいのだろうか。それとも小沢ファンの人々だから、期待の虹で目がくらんであれが良くみえたのだろうか。だが、私は前々から森ゆうこを高く評価してきた人間として、あの質問態度、質問内容はまったく期待はずれであったと繰り返しておく。つまり、私が言うのは、「一般国民の目から見て」どうなのか、ということであり、小沢ファン、森ファンがどう見るかはどうでもいいのである。
むしろ今は、小沢グループは、何が自分たちに欠けていて、何が必要なのかを深く掘り下げるべき時だと思う。小沢支持者こそ、小沢グループに対し厳しい意見をも言わねばならないだろう。もちろん、建設的意見を言う、ということだ。
何度も言ったと思うが、B層を味方につけるにはどうするかが大事なのである。国会での質疑応答もその舞台の一つだ。橋下があれほどのし上がったのも、彼にはテレビやツィッターや記者会見を駆使してのB層戦略が明確にあったからである。
だが、今の小沢陣営には、大衆心理に長けた、そのような人材がいるようには見えない。
それが小沢陣営の最大の弱点だろう。その弱点を放置していると、それが今後致命傷になる予感がする。
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