今日は政治とも経済とも無関係の思弁的駄弁である。
下記文章によって私の夫婦生活を推定しないでほしい。私自身は、結婚しなかった人生よりも結婚した人生がはるかに幸福だっただろうと考えている。つまり結婚して良かった、ということだ。これは妻に気兼ねしてそう書いているのではない。そもそも私の妻は私のブログの存在など知りもしない。
ということで、下の文章はあくまでも一般論であり、恋愛と結婚、そして人間性についての、ある意味では哲学的な考察なのである。
下記記事は「ウォールストリートジャーナル」日本語版から転載。
一言でこの問題の本質を言えば、実は「他人とともに居ること自体がだいたいのストレスの原因である」ということだ。
人間の自己愛というものはほとんど本能に近いものであり、自己嫌悪だって「理想の自分と現実の自分との隔たりの大きさ」から来るものだから、自己愛が原因だ。その自己愛は自己防衛や自己保存のエンジンでもあるから、我々が生きていることと自己愛は切り離せない。そこで、自己愛を完全に捨て、他者への愛に生きる人間を聖人と言うのである。
おおかたの恋愛が根本的に間違っているのは、他人に対して「私のために生きてほしい、私に尽くしてほしい、私のために戦ってほしい、私を守ってほしい」という図々しい要求を無意識に行っているからである。
真の恋愛とは自分自身よりも相手の幸福を願う気持ちであるが、それを他人に要求することはできない。したがって、ほとんどの恋愛は「愛する側」と「愛されてやっている側」の「支配と被支配の関係」であるのが現実だという結果になる。
恋愛論はともあれ、人間は自己愛によって生存している存在であり、この世で自分ほど貴重な存在は無い、と我々は無意識に考えている。自分が死ねば自分にとっての世界はそこでお仕舞いなんだから、当たり前である。
さて、他人とは自分とは異なる存在である。したがって、その一挙一動が気に障るのは当然だ。他人のことが気に入るのは、それが自分と良く似た考えをし、自分をほめてくれ、自分をいい気持ちにさせてくれる場合だけである。
つまり、我々は自分をそういうように満足させる人間とだけ一緒にいたいと思う。それが友人であり、恋人であり、夫婦である。
しかし、結婚してみないと夫婦がお互いにどんな人間なのかは、本当にはわからない。
そこである時に、(家の片づけ方などを巡る精神的闘争の果てに)「ついに(夫が、妻が)分かってきた!」と叫ぶことになる。
アメリカの場合はそこから離婚までは一直線である。あの連中は馬鹿だから、結婚というのが「他人同士が一緒に住むことの不快感や不自由さも含めての結びつき」であるということが未だに理解できず、結婚すれば恋愛段階よりも素晴らしい天国が待っている、と思うわけだ。そして自分が不愉快なのはすべてパートナーのせいである、ということで離婚、となる。まったくの阿呆である。そういう親のもとで生れ育った人間もまた阿呆になるのは言うまでもない。まあ、そういう不幸の中から天才が生まれることもあるが。
書くのが面倒くさくなったから、ここまでにする。
結論。人間とは自己愛の動物であることを勘定に入れないいかなる考察も計画も無益である。マキャベリ曰く、「人間は自分の父親が殺されたことは忘れても、自分が貸した金のことは忘れないものだ」。そういうものだ。
(以下引用)
身近な片づけの悩み、実は夫婦の深い問題?
• 2012年 7月 11日 18:01 JST
カレン・スティールさん(43歳)がカリフォルニア州ローズヴィルの自宅の変化に気づいたのは、彼女が2年前に再婚してまもなくだった。
本や洋服、おもちゃ、赤ちゃんの品々を捨てるのは辛いと思っても、パートナーが共感できないことも。
問題は自宅にある夫のオフィス。部屋は書類とプラスチックのホテルのカードキーが詰まった「がらくた入れ」と化していた。収納箱には写真があふれ、デスクには複数の皿とコーヒーカップが常に散乱。カレンさんは、その部屋に足を踏み入れ、ひと言。「ついに(夫が)わかってきた」。彼女は、整頓が行き届いたキッチンで過ごす方が好きだ。
技術系企業の営業マネージャーであるカレンさんは、「家族の家のまんなかに独身貴族の城があるようなものだ」と話す。
ソフトウエアの営業職に就く夫のブルース・スティールさん(49歳)は、仕事中に手を伸ばせば楽に届くように、書類を積み重ねて手元に置いておくのが好きだ。「何がどこにあるのかわかるのがいい。引き出しにしまったら、もう二度と見ないよ」。彼は、他の部屋はきれいに保つよう心がけていると言う。
忙しいなか、楽しく暮らそうと努力する家族にとって「散らかし」は手ごわい問題だ。心理的にストレスがたまり、家族関係が悪化することもある。専門家によると、手がつけられない状態になって初めて問題の重要性を認識するカップルがほとんどだという。
また、カップルが問題克服を決意したとしても、その過程は主導権をめぐる争いになることがしばしばだ。「床に落ちている汚れたタオルについて口論することは、もっと言えば、責任の追及につながる」とニューヨークで開業している精神科医、エドワード・ハロウェル氏は言う。
ある程度の散らかりは気にならず、居心地がよいという人もいれば、家が片付いていないのは家と家族の生活が最優先されていない証拠だと考える人もいる。
ハロウェル氏によると、多くのカップルは、治療の過程で散らかりの問題を話し合うことに戸惑いを感じるという。たまった郵便物や寝室の椅子に脱ぎ捨てた靴下について文句を言うのはつまらないことではないか、と思うからだ。「(散らかしは)セックスやお金ほど議論の対象にならないが、同じくらい身近な問題だ」とハロウェル氏は言う。
持ち物を捨てる必要性にどう対応するかという点で、散らかし屋も潔癖症も軽度の強迫性障害かもしれないと精神科医らは指摘する。ため込み癖は、潔癖症の最も対局にある症状だ。
チャーラ・ブレガンテさん(49)と夫のポール・クレッチュマーさん(57)は、散らかしなど結婚生活の問題を解決するために、セラピストに通っている。2人とも家が雑然としがちであることは分かっている。しかし、現在の散らかりがより大きな争いの種となり、物事の優先順位をはじめ、時間の過ごし方、家でどのくらいの時間を過ごすか、他人にどうみられるかをどの程度考慮するかといった「より深い問題」を引き起こしている、とブレガンテさんは話す。
ブレガンテさんは、専業主婦だった頃は家をきれいにしておくことが自分の務めだったと話す。障害を持った学生を指導する仕事に復帰した今、家は前よりも散らかっている。しかし、夫の助けはない。
クレッチュマーさんは、行動を変えることは難しかったと言う。彼は、散らかっている状態は嫌いで、家がもっときれいであってほしいと思っている。しかし、妻が子どもと一緒に家にいた時代、彼は、家事のやり方やタイミングについて関わることをやめた。「実は、家のそうじをもっとやりたいと思っている」とクレッチュマーさん。彼は、この問題についてのいざこざは、「2人の主導権争いを示している」と付け加えた。
セラピストの指導の下、クレッチュマーさん夫婦は、彼らが住む3ベッドルーム付きコンドミニアムの各部屋の掃除の仕方についてリストを作成、大方の片づけを終える期限も日本から交換留学生が来る7月中旬とすることも決めた。留学生は、カリフォルニア州ゴレタにある彼らの家に10日間滞在する予定だ。
本や洋服、おもちゃ、こどもの物を捨てることは、カップルの片方にとって辛くても、もう片方にはその辛さが不思議で理解できない、とカップルの心理に詳しい臨床心理学者、パティ・アン・タブリン氏は指摘する。
この感情のずれは、がらくたが昔の結婚や恋人の思い出の品々だった場合に特にひどくなる。こうした持ち物を2人で一緒に整理すればストレスが和らぎ、パートナーとの間に絆が生まれやすくなる、とタブリン氏は言う。
精神科医のハロウェル氏によると、相手の散らかす行動を非難するよりも、散らかしは日常茶飯事であるというジョークの方が、ムードを明るくする。たまには相手のがらくたの片づけを手伝うのも良い合図かもしれない(ただ、相手のがらくたを単に他の場所に積み上げるのは避けたい)。
ハロウェル氏は、女性が、男性よりも散らかしやすいとか散らかしにくいということはない、と言う。
散らかしに対する姿勢は、幼少期に学ぶことが多い。ハリー・ファルバー氏(66)は、母親がいつも紙くずを散らかしたままにしていたと話す。彼の妻は、小間物を彼女の母とまさに同じやり方で集めている。
「彼女の実家に入る時、横向きに歩かなければならない。でも、可愛いものだ。(ごみが散乱し荒れ果てた屋敷が舞台の)映画『グレイ・ガーデンズ』のような感じではない」とファルバー氏は話す。
結婚して16年、ファルバー氏と妻のパトリシア(54)は、コネティカット州ウェストンの自宅(4ベッドルーム、花崗岩のキッチンカウンター付き)に2人の物を置かない「中立地帯」を作った。「決められたエリアにだけ自分の物を置くという暗黙の停戦を考えついた」(ファルバー氏)
ファルバー氏、パトリシアのいずれも、散らかしがゼロになったわけではないが、彼らは互いのがらくたを分けている。そうじの時、責任の所在が明確になるからだ。「がらくたは混ざることはない」とファルバー氏は言う。
記者:ALINA DIZIK
下記文章によって私の夫婦生活を推定しないでほしい。私自身は、結婚しなかった人生よりも結婚した人生がはるかに幸福だっただろうと考えている。つまり結婚して良かった、ということだ。これは妻に気兼ねしてそう書いているのではない。そもそも私の妻は私のブログの存在など知りもしない。
ということで、下の文章はあくまでも一般論であり、恋愛と結婚、そして人間性についての、ある意味では哲学的な考察なのである。
下記記事は「ウォールストリートジャーナル」日本語版から転載。
一言でこの問題の本質を言えば、実は「他人とともに居ること自体がだいたいのストレスの原因である」ということだ。
人間の自己愛というものはほとんど本能に近いものであり、自己嫌悪だって「理想の自分と現実の自分との隔たりの大きさ」から来るものだから、自己愛が原因だ。その自己愛は自己防衛や自己保存のエンジンでもあるから、我々が生きていることと自己愛は切り離せない。そこで、自己愛を完全に捨て、他者への愛に生きる人間を聖人と言うのである。
おおかたの恋愛が根本的に間違っているのは、他人に対して「私のために生きてほしい、私に尽くしてほしい、私のために戦ってほしい、私を守ってほしい」という図々しい要求を無意識に行っているからである。
真の恋愛とは自分自身よりも相手の幸福を願う気持ちであるが、それを他人に要求することはできない。したがって、ほとんどの恋愛は「愛する側」と「愛されてやっている側」の「支配と被支配の関係」であるのが現実だという結果になる。
恋愛論はともあれ、人間は自己愛によって生存している存在であり、この世で自分ほど貴重な存在は無い、と我々は無意識に考えている。自分が死ねば自分にとっての世界はそこでお仕舞いなんだから、当たり前である。
さて、他人とは自分とは異なる存在である。したがって、その一挙一動が気に障るのは当然だ。他人のことが気に入るのは、それが自分と良く似た考えをし、自分をほめてくれ、自分をいい気持ちにさせてくれる場合だけである。
つまり、我々は自分をそういうように満足させる人間とだけ一緒にいたいと思う。それが友人であり、恋人であり、夫婦である。
しかし、結婚してみないと夫婦がお互いにどんな人間なのかは、本当にはわからない。
そこである時に、(家の片づけ方などを巡る精神的闘争の果てに)「ついに(夫が、妻が)分かってきた!」と叫ぶことになる。
アメリカの場合はそこから離婚までは一直線である。あの連中は馬鹿だから、結婚というのが「他人同士が一緒に住むことの不快感や不自由さも含めての結びつき」であるということが未だに理解できず、結婚すれば恋愛段階よりも素晴らしい天国が待っている、と思うわけだ。そして自分が不愉快なのはすべてパートナーのせいである、ということで離婚、となる。まったくの阿呆である。そういう親のもとで生れ育った人間もまた阿呆になるのは言うまでもない。まあ、そういう不幸の中から天才が生まれることもあるが。
書くのが面倒くさくなったから、ここまでにする。
結論。人間とは自己愛の動物であることを勘定に入れないいかなる考察も計画も無益である。マキャベリ曰く、「人間は自分の父親が殺されたことは忘れても、自分が貸した金のことは忘れないものだ」。そういうものだ。
(以下引用)
身近な片づけの悩み、実は夫婦の深い問題?
• 2012年 7月 11日 18:01 JST
カレン・スティールさん(43歳)がカリフォルニア州ローズヴィルの自宅の変化に気づいたのは、彼女が2年前に再婚してまもなくだった。
本や洋服、おもちゃ、赤ちゃんの品々を捨てるのは辛いと思っても、パートナーが共感できないことも。
問題は自宅にある夫のオフィス。部屋は書類とプラスチックのホテルのカードキーが詰まった「がらくた入れ」と化していた。収納箱には写真があふれ、デスクには複数の皿とコーヒーカップが常に散乱。カレンさんは、その部屋に足を踏み入れ、ひと言。「ついに(夫が)わかってきた」。彼女は、整頓が行き届いたキッチンで過ごす方が好きだ。
技術系企業の営業マネージャーであるカレンさんは、「家族の家のまんなかに独身貴族の城があるようなものだ」と話す。
ソフトウエアの営業職に就く夫のブルース・スティールさん(49歳)は、仕事中に手を伸ばせば楽に届くように、書類を積み重ねて手元に置いておくのが好きだ。「何がどこにあるのかわかるのがいい。引き出しにしまったら、もう二度と見ないよ」。彼は、他の部屋はきれいに保つよう心がけていると言う。
忙しいなか、楽しく暮らそうと努力する家族にとって「散らかし」は手ごわい問題だ。心理的にストレスがたまり、家族関係が悪化することもある。専門家によると、手がつけられない状態になって初めて問題の重要性を認識するカップルがほとんどだという。
また、カップルが問題克服を決意したとしても、その過程は主導権をめぐる争いになることがしばしばだ。「床に落ちている汚れたタオルについて口論することは、もっと言えば、責任の追及につながる」とニューヨークで開業している精神科医、エドワード・ハロウェル氏は言う。
ある程度の散らかりは気にならず、居心地がよいという人もいれば、家が片付いていないのは家と家族の生活が最優先されていない証拠だと考える人もいる。
ハロウェル氏によると、多くのカップルは、治療の過程で散らかりの問題を話し合うことに戸惑いを感じるという。たまった郵便物や寝室の椅子に脱ぎ捨てた靴下について文句を言うのはつまらないことではないか、と思うからだ。「(散らかしは)セックスやお金ほど議論の対象にならないが、同じくらい身近な問題だ」とハロウェル氏は言う。
持ち物を捨てる必要性にどう対応するかという点で、散らかし屋も潔癖症も軽度の強迫性障害かもしれないと精神科医らは指摘する。ため込み癖は、潔癖症の最も対局にある症状だ。
チャーラ・ブレガンテさん(49)と夫のポール・クレッチュマーさん(57)は、散らかしなど結婚生活の問題を解決するために、セラピストに通っている。2人とも家が雑然としがちであることは分かっている。しかし、現在の散らかりがより大きな争いの種となり、物事の優先順位をはじめ、時間の過ごし方、家でどのくらいの時間を過ごすか、他人にどうみられるかをどの程度考慮するかといった「より深い問題」を引き起こしている、とブレガンテさんは話す。
ブレガンテさんは、専業主婦だった頃は家をきれいにしておくことが自分の務めだったと話す。障害を持った学生を指導する仕事に復帰した今、家は前よりも散らかっている。しかし、夫の助けはない。
クレッチュマーさんは、行動を変えることは難しかったと言う。彼は、散らかっている状態は嫌いで、家がもっときれいであってほしいと思っている。しかし、妻が子どもと一緒に家にいた時代、彼は、家事のやり方やタイミングについて関わることをやめた。「実は、家のそうじをもっとやりたいと思っている」とクレッチュマーさん。彼は、この問題についてのいざこざは、「2人の主導権争いを示している」と付け加えた。
セラピストの指導の下、クレッチュマーさん夫婦は、彼らが住む3ベッドルーム付きコンドミニアムの各部屋の掃除の仕方についてリストを作成、大方の片づけを終える期限も日本から交換留学生が来る7月中旬とすることも決めた。留学生は、カリフォルニア州ゴレタにある彼らの家に10日間滞在する予定だ。
本や洋服、おもちゃ、こどもの物を捨てることは、カップルの片方にとって辛くても、もう片方にはその辛さが不思議で理解できない、とカップルの心理に詳しい臨床心理学者、パティ・アン・タブリン氏は指摘する。
この感情のずれは、がらくたが昔の結婚や恋人の思い出の品々だった場合に特にひどくなる。こうした持ち物を2人で一緒に整理すればストレスが和らぎ、パートナーとの間に絆が生まれやすくなる、とタブリン氏は言う。
精神科医のハロウェル氏によると、相手の散らかす行動を非難するよりも、散らかしは日常茶飯事であるというジョークの方が、ムードを明るくする。たまには相手のがらくたの片づけを手伝うのも良い合図かもしれない(ただ、相手のがらくたを単に他の場所に積み上げるのは避けたい)。
ハロウェル氏は、女性が、男性よりも散らかしやすいとか散らかしにくいということはない、と言う。
散らかしに対する姿勢は、幼少期に学ぶことが多い。ハリー・ファルバー氏(66)は、母親がいつも紙くずを散らかしたままにしていたと話す。彼の妻は、小間物を彼女の母とまさに同じやり方で集めている。
「彼女の実家に入る時、横向きに歩かなければならない。でも、可愛いものだ。(ごみが散乱し荒れ果てた屋敷が舞台の)映画『グレイ・ガーデンズ』のような感じではない」とファルバー氏は話す。
結婚して16年、ファルバー氏と妻のパトリシア(54)は、コネティカット州ウェストンの自宅(4ベッドルーム、花崗岩のキッチンカウンター付き)に2人の物を置かない「中立地帯」を作った。「決められたエリアにだけ自分の物を置くという暗黙の停戦を考えついた」(ファルバー氏)
ファルバー氏、パトリシアのいずれも、散らかしがゼロになったわけではないが、彼らは互いのがらくたを分けている。そうじの時、責任の所在が明確になるからだ。「がらくたは混ざることはない」とファルバー氏は言う。
記者:ALINA DIZIK
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