忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

社会の遠近法
昔のフラッシュメモリーが出て来たので、その中を見ているうちに、イラク戦争(と言うか、アメリカの一方的なイラク蹂躙)の時に書いた、高校生向けの「社会の遠近法」という電子記事が出て来た。当時勤めていた予備校の小論文の教材というか、思考素材にしようかな、と思って書いたが、当然使わなかった。あまりにも危険な内容だったからだ。
かつての「陰謀論」がどんどん社会常識に近づきつつある今ならさほど危険でもない内容だと思うので、ここに載せておく。
これに近いことは何度もこのブログや別ブログで書いているのだから、今さら、ではあるが、これを書いたのが20年以上も前だというのは少し誇れるのではないか。あるいは、既にこのブログかどこかのブログに載せたかもしれない。

(以下自己引用)



社会の遠近法


 


第三回 文明の衝突(国際政治と宗教。または、推理小説としての国際政治)


 


サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」を出して、数年後に起こったのが9・11同時テロである。「文明の衝突」とは、(私は読んでないが)キリスト教文明とイスラム教文明が近いうちに衝突するという趣旨のようだから、現在の世界情勢は、彼の言葉が現実化したということになるが、ちょっと待て、である。現在の世界情勢は、「9・11事件」がイスラム過激派の仕業であるという前提で語られているが、はたしてそうなのか。実は、「9・11事件」がアメリカ政府主導で行われたことを示す無数の証拠があるのである。つまり、アメリカ政府は、現在の世界情勢を作り出すために、自国民を何千人も殺害するという、極悪非道の行為をしたということだ。まさか、そんなことはありえない、というのなら、なぜ、それがイスラム原理主義者の仕業だという主張なら信じられるのか。アメリカ政府がそう発表したから? アメリカ政府が公式声明を出せば、それはすべて真実だと言うのか? 過去の歴史でアメリカ政府がやってきたことを見ても、なお、そう言うとすれば、よほどお目出度い人間である。


 つまり、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」は、現在の世界情勢を予見したものではなく、現在の世界情勢を作り出すための布石であったというのが真実だ。もちろん、この著書が刊行された背後にいるのが、9・11事件からアフガニスタン爆撃、イラク戦争に至る出来事の真犯人である。それは、必ずしもアメリカ政府首脳陣とは限らない。彼らも操り人形にすぎないのだろう。真犯人は、常に、「それで利益を得た人間」である。つまり、アメリカ産業界や国際金融の大物たちだろう。


 アル・カイーダなどという「テロ組織」は存在しない。というより、おそらくそれはCIAの下部組織にすぎない。ウサマ・ビン・ラディンも、実体は無い。というより、イスラム原理主義者、テロリストの象徴としての名前だけの存在のようなものである。


 以上のような知識(あるいは想像)は、インターネットで情報を収集している人間にとっては常識に近いが、それが表のマスコミに出てくることはけっしてない。世の中の90パーセントの人間は、マスコミから与えられた情報を鵜呑みにして、それ以外の知識を得ようとは、けっしてしないのである。彼らにとっては、イラクで何人もの子供が殺されることよりも、芸能界の話題を知ることのほうが大事なのだ。(日本がイラク戦争に加担することで、あなたも、わたしも、その人殺しに加担しているのである。)


 もちろん、インターネット情報のどれが真実で、どれが嘘かは確定できない。だが、多面的な情報の中で、合理性のある判断ができるものが自分にとっての真実の情報なのである。多面的な情報を得ることは、真実に至る前提条件だ。


 さて、「文明の衝突」は意図的に作り出されたものであり、しかもそれはイスラム側からではなく、キリスト教世界側から作り出されたものだ、というのが私の仮説である。しかし、これは、「文明の衝突」をイスラム教とキリスト教の衝突だという前提で語ったものだ。実際には、この「衝突」にキリスト教はほとんど関係が無い。ただ、この田舎芝居の主演俳優であるブッシュがキリスト教原理主義者に近いというだけのことだ。だから、彼はイラク戦争(あるいは侵略)を「十字軍」だと口走ったのである。


 原理主義とは、政治における極左とか極右に相当する存在である。信念の中心が政治的信条か、宗教的信条かの違いだけである。


 アメリカは、イスラム社会を国際社会の敵に仕立て上げることで、世界に恒常的な戦争状態を作り出すことに成功した。それで利益を上げるのは誰か? 例によって死の商人たちである。テロリストのグループは、国家ではない。したがって、テロリストに対して戦争をするということは、本来はナンセンスである。だが、ブッシュ一味は、正体不明の「テロリスト」との戦いをイラクとの戦いにすりかえることで、イラク出兵を可能にした。それで米軍は不要な武器弾薬の在庫一掃セールができたわけである。そして、武器商人たちは新しく武器を売りつけることで、ハッピーというわけで、ハッピーでないのは、殺されるイラク人たちだけだ。だが、彼らを人間だと思わなければ、胸が痛むこともない。そして、西洋人とは、西洋人以外の人間を人間ではないと考えることについては見事な伝統を持っているのである。そもそも、同国人を殺すことに良心の痛みを感じない連中が、異人種を殺すのをためらうはずはないのである。それが、「西洋文明の常識」なのである。


 アメリカのイラク戦争の間、沈黙を守っていた国がある。ほかならぬイスラエルである。中東におけるイスラエルの立場を考えれば、イスラエル軍がイラク攻撃に参加してもけっしておかしくはないが、それをしなかったところが逆に不自然である。つまり、アメリカの意志とは、実はイスラエルの意志ではないか、という想像ができる。アメリカによる中東の「民主化」を通して、イスラエルの近隣諸国が一つずつ潰れていき、やがて中東にはイスラエルだけが残る。そういうシナリオも想定できる。アメリカを動かしている存在と、イスラエルを動かしている存在は、同一だ、という仮説である。


 その存在とは、言うまでも無く、政治を動かすことで金を得ている人々である。アメリカ国民も、イスラエル国民も、それ以外の国々の人々も、そのほとんどは、彼らのために利用され、時には殺されているのである。いや、世界政治の上層では、彼らの意思に従うことが当たり前の事実になっていると思われる。つまり、政治的対立などというのは表向きだけであって、すべては経済を理由として動いているのである。……10年ほど前に、中国の首相が、「今から20年経てば、日本という国は地球上から消えている」と口を滑らしたことがある。これが意味するのは、その時点で、アメリカは裏で中国と手を組むことが決定済みだったということだ。日本人は日米同盟を信じている。だが、すべての軍事同盟は、簡単に破られるものなのである。これから10年後、何が起こるだろうか。日本という国は、アメリカに資金を提供することで生存を許されている国だ。すべてを貢ぎ尽くした後に、何が待っているか。


 イラクのサダム・フセインが、アメリカの手下だったことを知らない人間もいるかもしれない。イランでイスラム革命(ホメイニ革命)が起こった時、その拡大を恐れたアメリカが、フセインに援助して、イラクの政権を取らせたのである。そして、イラン・イラク戦争を起こさせ、イランの余力を失わせたのである。(中東だけでなく、中南米での政権交代のほとんどは、アメリカのシナリオで動いていることも知らない人間が、日本には多い。)そのフセインが、アメリカの手を離れてイラクの石油の決済をドル立てからユーロ立てにしようとしたのが、イラク戦争のもう一つの理由である。もちろん、イラクにアメリカの傀儡政権を作って、イラクの石油を独占するのがもう一つの理由だ。ただし、ここでアメリカと言っているのは、必ずしもブッシュ政権とは限らない。本当の指示はその背後から出ているはずだ。フセイン大統領が逮捕された後も裁判が進まないのは、フセインに思い切って喋られてはまずいことがいろいろとあるからだろう。そのうち、フセインが脳溢血か何かで倒れるという筋書きが、妥当なところである。


 さて、イスラム教がなぜ世界の敵とされたのか、考えてみよう。それは、イスラム教とは、「神の前に、すべての人は平等である」「金のある人間は、貧しい人びとに施しをしなければならない」という思想を中心とした宗教だからである。この二つは、資本主義にとっては、厄介な思想である。資本主義とは、財産の蓄積と、そのための競争を善とする思想である。それが、すべての人が平等というのでは、人びとを競争させることができず、したがって、その競争の成果を上の人間が吸い上げることができなくなる。しかも、金持ちは自分の金を貧乏人に施さねばならないとしたら、あっという間に金が無くなるだろう。つまり、イスラム教とは、共産主義に続く、「資本主義の敵」なのである。


 「自由・平等・博愛」とは、フランス革命の標語だ。しかし、「自由」を世界中に広めたのは、ほかならぬ資本家たちなのである。彼らの言う自由は王権からの自由であった。そして、自由な商行為ができることであった。その自由とは、しかし、平等とは両立しない。今の時代に自由を叫ぶ人間は後を絶たないが、なぜ「平等」や「博愛」を語る人間はいないのか。それは、すべてのマスコミも教育も、一部の人間にコントロールされているからである。自由そのものが、常に他人の自由とぶつかる、「不自由」であるのに、我々はいつまで自由の幻想に踊らされているのだろうか。実際には、頭の中身さえも無意識のコントロールを受けているロボットにすぎないのに。


 


 以上、これはすべて嘘である。しかし、思考実験として、そのように考えることも可能だという例として書いてみた。何を真実だと判断するかは、与えられた情報とその情報の合理性で決定される。我々には、少なくともすべてを疑うという「自由」だけはあるのである。もしかしたら、私が「嘘だ」と言ったその言葉自体が嘘かもしれない。


 一つ付け加えるならば、中世以来のキリスト教自体が、実はキリストの「博愛」と「施し」の教えを無視しているのである。現在のキリスト教は、「他教を信じる人間、異人種は人間扱いする必要は無い」、という、旧約聖書の世界である。キリストはしばしば旧約聖書の引用をしているが、「旧約聖書はキリスト教ではない」と考えるべきだろう。

拍手

PR

コメント

コメントを書く