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徽宗皇帝のブログ

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競争を好む人間の人間性とは
「馬鹿国民帝国日本の滅亡」の過去記事から転載。
筆者孔徳秋水氏が何年も前に言ったのと同じことを私もずっと言い続けているような気がする。競争という要素を導入しないと生産性が上がらない、という迷信を持っている人は多いだろう。だが、秋水氏が言うように、競争可能なものはくだらないもの、と相場が決まっているのではないか。
たとえば、映画を作る場合、助演者は主演俳優と競争しているか。「ガラスの仮面」のヒロインたちのようにやたらとライバルと競争しているのを想起する人もいるかもしれないが、あれはドラマ作りのための設定であり、脇役が主役を蹴落とそうとしてでしゃばるような撮影現場では、まともな作品にはならないだろう。
ほとんどの仕事では、それぞれが「自分の仕事を誠実に遂行する」ことで組織全体がうまく動くのであって、競争が組織を発展させる、というのは上の人間の思い込みにすぎない。もちろん、仕事内容によっては、競争が有効な場合もまったく無いとは言わないが、多くの経営者が考えるほど競争は有効ではないし、それによって仕事そのものが不快なものになっている場合がほとんどだろう。競争が大好き、などという人間はキチガイだ、と私などには思えるのだが。
なぜって、自分が負ければ不愉快だし、自分が勝てば相手が不愉快だろうから、その気持ちを考えれば、こちらだって愉快になれるはずが無いではないか。相手が苦しむのを見て愉快だ、という人間をサディストと言うのであり、それは立派なキチガイなのである。言うまでもなく、人間同士を競争させてそれを眺めて喜んでいる人間も同じである。いや、まあ、そう言うとスポーツなどはまったく成り立たなくなるのだが。(笑)
私は競馬はわりと好きなのだが、ムチで叩かれて息も絶え絶えになって走る競走馬になりたいとは思わない、ということである。馬の身になって考えれば、競馬を好むのも憚る気持ちになる。




(以下引用)



単純化する人間たち

テーマ:

 「競争は人間を成長させる」・・・・・そうだろうか?(切磋琢磨は否定しないが・・・)




 わたしの観察によれば、「競争は人間を堕落させる、あるいは愚かにする」である。




 そもそも、「競争可能なもの」は、くだらないものとおよそ決まっている。(愛は競えるか?)


あるいは管理者が労働者を、悪女が男たちを競わせて思いのままに操るための手段である。




 裁判官や検察官が典型的な例だが、倍率が高くなるほど質が下がるのである。




 よって、「ゆとり教育」は理念としては非常に正しいものだった。


しかし、権力闘争という「競争」のせいで、正しく修正されずに、ただ否定された。




 そのせいで、日本人はますますバカになっている。




 経済をみても、「勝ち組」とは、競争をまぬがれる武器をもっているところであり、


  まともに自由競争にはまっているところは、ワーキング・プアではないか。とくに個人は分が悪い。




 100年前に夏目漱石が、仕事がますます機械化、細分化され、不具な人間をつくっていると警告していた。


「学者なんて、不具中の不具だ。専門以外は無知。学士と博士では博士のほうが物知りだと、素人は勝手に思い込んでいる」といった趣旨の話をしていた。




 「労働がサルを人間に進化させた」とエンゲルスは言ったが、資本主義の発展により、労働は断片化し、逆に人間をサルにしてしまっている。


 さらに娯楽。芸能やスポーツは人間をバカにする。ネットの登場で、ますますバカになっていく連中と、知識を蓄えていく連中とに二分化していっているが、「バカが多数」になるものだろう。それは、2000年前から、ローマでも中国でもそうだったのである。




 人間が好きなものは獲り尽くされ、利用され、変成させられ、結局滅びる。


 人間が嫌いなものも、敵視され、狩られ、滅ぼされる。




いま、「生物多様性」なんぞが、話されているが、2000年以上前に荘子が”無用の用”をとなえていた。




競争し、あくせくすることで、ひとはひとでなくなってゆく。




すでに鬼畜と化した悪魔たちは、迷いもなく鬼畜権を行使して人権を否定する。


 その者たちは、自分が宣言した鬼畜の法に従わざるをえなくなり、早晩鬼畜として裁かれよう。





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