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徽宗皇帝のブログ

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第一次大戦前後の「ユダヤ革命」のこと
「混沌堂主人雑記」所載の「Deeply Japan」記事の一部である。
私も、現代の世界の起源は第一次世界大戦にある、という見方をしていて、そのためにこの年になってそのあたりの歴史の本をあれこれ読んでいるが(最初は小説の構想として、「あのサラエボの銃弾がなければ、世界はどうなっていたか」という仮定から始まったのだが)、 

要するに現在の世界秩序はこのあたりで出来たものだから開けられない、開けたくない箱がいっぱいあるからこうなんだろうと思う。すなわち、FRB創設、第一次世界大戦、ロシア革命という名のユダヤ革命あたりが、この秩序をもたらす「決戦」だったってことですね。

という言葉は、その核心を端的に表した素晴らしい言葉だと思う。なるほど、「ユダヤ革命」とは言い得て妙である。私も、第一次大戦やロシア革命の背後にはユダ金がいると思っていたが、それらに劣らず重要なFRB創設も「革命」だったというのは目から鱗である。


(以下引用)  



前にも何度も書いているが、日本では第一次世界大戦は日本にとっては影響が小さく、むしろ儲かったぐらいでしたですましているけど、

実際には、

  • ・中国は抗日
  • ・ソ連はその後介入戦争で日本を敵視。バイカル湖以東を日本にするとか無駄に壮大なことを言ってた日本でございました。
  • ・ドイツはイギリスにくっついて利権を取って行った日本のやり方を快く思わず、後に中独合作時代が来る
  • ・アメリカは1922年のワシントン会議をきっかけに日英同盟を廃止に向かわせる。

という具合に、英仏と仲が良くても近隣は向かうところ敵だらけになった。



そして、第一次世界大戦を契機として多数の王や皇帝が失脚した。

この影響も日本では無視されていると思うな。

これは大正天皇の存在がかなり希薄に使われてきたこととパラレルなんでしょうね。つまり、見たくないので触らない、という日本の名高い(笑)沈黙作戦。

ところが、近年、大正天皇については原武史さんがまとめてらして、その中で相当大胆なことが書かれた。

大正天皇 (朝日文庫)
原 武史
朝日新聞出版


大正天皇は、宮中官僚たちの謀略的操作で、日本史的にいう「主君押し込め」にあったのだろうという説をお出しになったのだった。

この主君では「家」(血族の家ではない)が存続できないとなった場合家臣団が一致して押し込めるというある種の行動規範みたいなものが日本の武家社会にはあったので、その意味で「押し込め」と言われたのだろうと思うが、要するに、追い出した、という話。

それが正解かどうかはともかく、1921年、後に昭和天皇となる裕仁親王が摂政となったことは事実。

そして、そうしたことによって、大正天皇をそのまま存続させるべきであるとする派と、裕仁親王派が分かれて宮中はその対立構造をずっと背負って行ったと考えられている。

原さんは、4月までの天皇が、摂政を立てることに頑強に反対され、退位を望まれたのはこの事例を思い浮かべたからだろうとおっしゃっていた。

しかし、なかなか興味深い話なのにこの話は一般にそんなに流布しなかった。これは、これを認めると大正天皇の事実上の引退が、大正天皇は脳の病気だから仕方なかったのよ、といった長らく世間に流布されていた話とは食い違うからではなかろうか。つまり、開けたくないから見ない。触らない。



■ 「神ながらの道」ファクター

大正天皇からお仕事を引き継ぐ1921年11月の前に、皇太子裕仁親王は欧州を訪問している。日本の皇太子が欧州を訪問するのは初めて。そして、この洋行の中で、裕仁親王はイギリスでジョージ5世(エリザベスのおじいちゃん)から名誉陸軍大将に任じられてみたりもしてる。

この洋行は、政府の重鎮はだいたい賛成しているように見えるが(というか、画策したからこうなったのだろうが)、国内には当然のことながら反対派がいた。特に、母親である貞明皇后が大反対。

皇后は、この頃から、東京帝大教授の筧克彦が唱える「神ながらの道」に傾倒する。1924年には直接筧克彦からご進講を受けている。また、貞明皇后が一番かわいがったと言われている昭和天皇のすぐ下の弟、秩父宮もこのご進講を別途受けている。

「神ながらの道」とはなんぞやについては、いろいろ解説されているようないないようなだが、私の感触では後の「国体の本義」に繋がるような、天皇を中心にして一つになった日本を構想した、夢想した、妄想した、という感じに見える。

この人に限らず、日本の当時の法学者は混乱期のドイツで、何かこう、全体主義という言葉も温いような妄想的な一体化に非常な興味を覚えてきているようにみえる。



「神ながらの道」にからむ問題は、貞明皇后という人がエネルギッシュに政治家や軍人に関わっていったため、個人で何かを信心するという問題を飛び越えている。だから立派に政治の問題として解きほぐされるべきテーマだったんだろうと思うが、これまで知らん顔されている分野だと思う。

そして、放置してきたために、へんに触る人たちが、本当の日本、日本人はこうなのだ、みたいな密教扱いでいい加減なことを言い出す培地にもなっていると思う。



■ 外側から見ると

で、日本の内側の勢力問題は置いておくとして、これらのことを外形的に見るとどうなるのかというと、裕仁親王はイギリス王室の下につくこととなり、以来、根っからのAnglophilia (アングロ崇拝者)となったって感じでしょうか。

1919年のベルサイユ会議で、英仏と組んだ日本が中国の山東省の利権とドイツ領南洋諸島の利権をゲットした時の日本側の代表者は西園寺や牧野で、洋行を推進したり、大正天皇を追い出したりしたのもこのあたりとなれば、アングロ親近グループの存在は容易に見て取れるというものではないかと思う。

そして、国内には貞明皇后をはじめとしてそれに抗して日本を唱えるものがいた、と書くと、こっちの方が日本を重視しているのよ、と読めてしまう。

ところが、貞明皇后はそもそもご自分の学友を通じて非常に強いキリスト教人脈にも関与しており、その一部はグルー人脈とでもいったグループで、ここがつまりモルガン家人脈のようなもの。ここらへんは櫻井ジャーナルさんがよく書かれている。

総じていうなら、アングログループの影響は強いっすなぁといったところ。そして、アングロというのがポイントね。これを英とか米とか言ってしまうと、それぞれの国の利害は異なり、それぞれの国の表の政治も異なるため話が見えなくなってしまう。しかし、アングロ系統はシティとウォールストリートの両方をまたにかけているので、上の方で調整されてしまうと、下の対立は勝手に調整されてしまうという仕掛けといっていいんじゃなかろうか。



話は半端なんだが、いずれにしても日本の針路は明治維新でだいたい決まり、大正時代には動けないものになっていった感じがする。

そして、そこをほじくりたくないもんだから、大正時代といえば大正デモクラシーです、結構平和な時代でしたで終わっている。

しかし第一次世界大戦の頃の情勢の解決がおかしいのは日本だけではないです。ロシア介入戦争とか、日本のシベリア出兵+ポーランドのロシア攻撃、あるいはまたなんであんな分割のされかたをしたのかについてのドイツの異議、などというものは基本的に話がわやわやのまま。

要するに現在の世界秩序はこのあたりで出来たものだから開けられない、開けたくない箱がいっぱいあるからこうなんだろうと思う。すなわち、FRB創設、第一次世界大戦、ロシア革命という名のユダヤ革命あたりが、この秩序をもたらす「決戦」だったってことですね。

で、現在ロシアが、ソ連というマントを脱いで、いやそういうことなんですよと言わんばかりにいろんな出来事をほじくり出すもんだから、現在の既存勢力がわらわらして起こってるって感じか。




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