少し、いやかなり古い記事だが、好記事であり、「問題の問題点」を明確にしているので考察ネタとして、あるいは社会への問いかけとして論題にする価値が大きい。
一番いいのは、記事の中のコメントに、「キチガイ」と「精神障碍者」は違う、という意見のあることで、これは私が以前から何となく感じていたことを見事に言語化している。
つまり、「常識では考えられない凶悪な犯罪的行動を取るもの」が、「キチガイ」なのであり、一般の「精神障碍者」とは別と考えるべきだ、ということである。「キチガイ」という言葉を放送禁止用語にすることは、そうした犯罪者(権力側にも多い)への批判や議論を不可能にする。それがマスコミの言葉狩りの目的だろう。
そのように区別すると、銃の射撃による大量殺人ははっきりと「キチガイ」だと認識される。そして、それは「精神障碍」とは無関係な事件だ、と明白に認識され、精神障碍者への不利益も少なくなるのである。実際、精神障碍者のほとんどは無害だ、というのは多くの精神科医の言っていることだ。当然の話で、彼らは自分の精神内の問題で自己格闘しているのであり、外界に関与する気力や精神力がそのために欠乏するはずだからだ。
外界、つまり社会に対して異常に凶悪な行動を取るもの、たとえばギャングや暴力団などは精神障碍者ではない。彼らは「群れをつくる」点では優秀性を持っており、「発達障害者」の正反対なのである。つまり、暴力を武器にした優秀な「社会適応者」である。しかし、はっきり言えば、「キチガイ」なのである。そうした存在を利用し、自らは手を汚さないサイコパスもいる。ヒトラーは精神障碍者だったか? いや、明晰な頭脳の持ち主だったことは誰もが認めるだろう。(私はヒトラーを全否定する者ではないが、分かりやすい例として使っておく。)
以上のように考えると大量殺人者や凶悪犯罪者を「精神障碍者で、責任能力が無いから無罪」という異常な慣習(法制度)も明白に否定されることになるだろう。幼児が銃を玩具にして人を殺すのと、大人が大量殺人をするのは話がまったく違うのである。
ついでに言えば、私は「発達障害」という言葉こそ悪質な差別語だと思っている。これは「コミュ力の無い人間は精神病患者であり、存在価値が無い」と言っているようなものだ。
(以下引用)
一番いいのは、記事の中のコメントに、「キチガイ」と「精神障碍者」は違う、という意見のあることで、これは私が以前から何となく感じていたことを見事に言語化している。
つまり、「常識では考えられない凶悪な犯罪的行動を取るもの」が、「キチガイ」なのであり、一般の「精神障碍者」とは別と考えるべきだ、ということである。「キチガイ」という言葉を放送禁止用語にすることは、そうした犯罪者(権力側にも多い)への批判や議論を不可能にする。それがマスコミの言葉狩りの目的だろう。
そのように区別すると、銃の射撃による大量殺人ははっきりと「キチガイ」だと認識される。そして、それは「精神障碍」とは無関係な事件だ、と明白に認識され、精神障碍者への不利益も少なくなるのである。実際、精神障碍者のほとんどは無害だ、というのは多くの精神科医の言っていることだ。当然の話で、彼らは自分の精神内の問題で自己格闘しているのであり、外界に関与する気力や精神力がそのために欠乏するはずだからだ。
外界、つまり社会に対して異常に凶悪な行動を取るもの、たとえばギャングや暴力団などは精神障碍者ではない。彼らは「群れをつくる」点では優秀性を持っており、「発達障害者」の正反対なのである。つまり、暴力を武器にした優秀な「社会適応者」である。しかし、はっきり言えば、「キチガイ」なのである。そうした存在を利用し、自らは手を汚さないサイコパスもいる。ヒトラーは精神障碍者だったか? いや、明晰な頭脳の持ち主だったことは誰もが認めるだろう。(私はヒトラーを全否定する者ではないが、分かりやすい例として使っておく。)
以上のように考えると大量殺人者や凶悪犯罪者を「精神障碍者で、責任能力が無いから無罪」という異常な慣習(法制度)も明白に否定されることになるだろう。幼児が銃を玩具にして人を殺すのと、大人が大量殺人をするのは話がまったく違うのである。
ついでに言えば、私は「発達障害」という言葉こそ悪質な差別語だと思っている。これは「コミュ力の無い人間は精神病患者であり、存在価値が無い」と言っているようなものだ。
(以下引用)
小林旭が「放送禁止用語」、フジテレビが謝罪 ネットでは「正しい表現なんだから謝る必要ない」の声
2017年10月07日17時26分
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