別ブログに書いたものだが、「憲法改正」にも通じる内容なので、転載する。
なお、考察のきっかけは「マンスプレイニング」というフェミニズム用語の異常性への考察、つまり「マン」や「エクスプレイン」という普通の言葉自体がフェミニズム界隈では「否定的意味」を持つ、ということの異常性への考察である。特に、「explain」という、普通なら肯定的意味でしか使わない言葉が、「man」と結びつくと、途端に否定の意味合いになる、ということが奇妙に感じられたわけだ。これは、「相手党派に関するものはすべて悪」という思考だろう。それが昂じると、相手党派だけのものでなくても、相手党派と結びつけば悪、となる。これは政治闘争における「協調主義」や「対話での解決」の否定となり、非論理的でかつ暴力的な傾向にどんどん傾斜するものだ。
岸田総理は平和主義的な印象の顔貌だが、それが憲法改変にも手を出す理由は、「自民党」という組織(党派)の中で「弱虫に見られたくない」という心理(マッチョ主義と言えるかもしれない。これは性別に関係なく、組織の中での「性格」や「印象」の話だ。正確に言えば「他者に対する自分の印象への懸念」の話だ。)から来ているのではないか。
注:「マンスプレイニング」について調べるのが面倒な人のために、ネットから引用しておく。
マンスプレイニングとは、男性が偉そうに女性を見下しながら何かを解説・助言すること。man(男)とexplain(説明する)という言葉をかけ合わせた言葉だ。
(以下自己引用)
なお、考察のきっかけは「マンスプレイニング」というフェミニズム用語の異常性への考察、つまり「マン」や「エクスプレイン」という普通の言葉自体がフェミニズム界隈では「否定的意味」を持つ、ということの異常性への考察である。特に、「explain」という、普通なら肯定的意味でしか使わない言葉が、「man」と結びつくと、途端に否定の意味合いになる、ということが奇妙に感じられたわけだ。これは、「相手党派に関するものはすべて悪」という思考だろう。それが昂じると、相手党派だけのものでなくても、相手党派と結びつけば悪、となる。これは政治闘争における「協調主義」や「対話での解決」の否定となり、非論理的でかつ暴力的な傾向にどんどん傾斜するものだ。
岸田総理は平和主義的な印象の顔貌だが、それが憲法改変にも手を出す理由は、「自民党」という組織(党派)の中で「弱虫に見られたくない」という心理(マッチョ主義と言えるかもしれない。これは性別に関係なく、組織の中での「性格」や「印象」の話だ。正確に言えば「他者に対する自分の印象への懸念」の話だ。)から来ているのではないか。
注:「マンスプレイニング」について調べるのが面倒な人のために、ネットから引用しておく。
マンスプレイニングとは、男性が偉そうに女性を見下しながら何かを解説・助言すること。man(男)とexplain(説明する)という言葉をかけ合わせた言葉だ。
(以下自己引用)
なぜ組織ではヤクザ的人間が成り上がるか
朝起きてしばらくしてからぼんやり考えていた浮遊思考だが、フェミニズムと共産主義、いや党派的活動全体に共通する傾向の問題だ。場合によってはこれは宗教にも通じる。
それは、「協調主義」「対話での解決」「冷静な意見」が嫌悪され、戦闘的姿勢の人間がその党派の主導権を握る傾向がある、ということである。これは前の戦争での日本の政治や軍部内の派閥的闘争でも見られた傾向であり、特に軍部では、冷静な意見が「敗北主義」と見做され、あの悲惨な敗戦に至ったのである。
これは人間性の基本的傾向だと思うが、集団の中では「強い」という印象を与える人間が、たとえ強引な性格でも多くの賛同者を得る傾向がある。なぜかというと、「戦闘を好まない=弱さ」だと見做されるからであり、自分が弱いと他者から見られることを人は恐れるからだろう。これは女性集団であっても、党派というものが党派の利益を目指しての「社会的闘争の集団」であるから同じ傾向になる。
これが、なぜヒトラーやスターリンのような人間、あるいは暴力的な人間が集団のトップになるのか、という理由である。ある人物の頭の良さは頭の悪い人間には分からないし、その言うことを聞いて良い結果を出すまでは、その頭の良さの証明はできないから、戦闘が始まるまでは暴力的で好戦的な人間が主導権を握るのである。そして、戦闘で勝利を収めると、それが偶然の勝利であっても、その「暴力的人間」は「頭もよい」と評価されることになる。
たとえば、新選組の「芹沢鴨」など、なぜあのような狂人的な人間が初期新選組の隊長だったのか不思議であるが、それは彼の暴力性が他の隊員を圧倒したからだと思われる。そういう人間を相手には議論など成立しないから、従うか、相手を殺すしかない。だから、反芹沢鴨派が(芹沢鴨派に殺されないためには)徒党を組んで暗殺するしかなかったのである。
それは、「協調主義」「対話での解決」「冷静な意見」が嫌悪され、戦闘的姿勢の人間がその党派の主導権を握る傾向がある、ということである。これは前の戦争での日本の政治や軍部内の派閥的闘争でも見られた傾向であり、特に軍部では、冷静な意見が「敗北主義」と見做され、あの悲惨な敗戦に至ったのである。
これは人間性の基本的傾向だと思うが、集団の中では「強い」という印象を与える人間が、たとえ強引な性格でも多くの賛同者を得る傾向がある。なぜかというと、「戦闘を好まない=弱さ」だと見做されるからであり、自分が弱いと他者から見られることを人は恐れるからだろう。これは女性集団であっても、党派というものが党派の利益を目指しての「社会的闘争の集団」であるから同じ傾向になる。
これが、なぜヒトラーやスターリンのような人間、あるいは暴力的な人間が集団のトップになるのか、という理由である。ある人物の頭の良さは頭の悪い人間には分からないし、その言うことを聞いて良い結果を出すまでは、その頭の良さの証明はできないから、戦闘が始まるまでは暴力的で好戦的な人間が主導権を握るのである。そして、戦闘で勝利を収めると、それが偶然の勝利であっても、その「暴力的人間」は「頭もよい」と評価されることになる。
たとえば、新選組の「芹沢鴨」など、なぜあのような狂人的な人間が初期新選組の隊長だったのか不思議であるが、それは彼の暴力性が他の隊員を圧倒したからだと思われる。そういう人間を相手には議論など成立しないから、従うか、相手を殺すしかない。だから、反芹沢鴨派が(芹沢鴨派に殺されないためには)徒党を組んで暗殺するしかなかったのである。
PR
コメント