yahoo newsのvoiceというコラムから転載。元(?)経済官僚の意見である。ついでながら、この記事の存在は「株式日記と経済展望」で知ったが、そこに引用されている菅総理・民主党批判の部分より、私にはこの部分の方が興味深い。
この論説の趣旨は、官僚を動かすには無私の心があるかどうかだ、ということである。
西郷隆盛は、「命もいらぬ名もいらぬという人は始末におえぬものである。その始末におえぬ人でなければ大きな仕事はできぬものである」と言った。
これまでの菅総理の誤りは、彼が自分の利己的・俗世間的欲望だけで動いてきたことによる。彼が命を捨て、名を捨てて国民のために働こうと考えれば、彼は今すぐに、歴史に名を残す名宰相になれるのである。名を追うことをやめることで、逆に真の名声が得られるわけだ。
それが、日本という国を双肩に背負う総理としての務めである。
その意志がなければ総理になどなるべきではない。
(以下引用)
そして菅首相になって、財務省に対する擦り寄りは、より露骨なものになっている。それは、財務省が望む増税論者である与謝野馨氏を経済財政担当大臣に起用したことでも明らかだ。
日本国民は悲しいまでに真面目だ。震災後、東北を救うためには、消費税アップもやむなしと考えている。だが、財務省が企む増税のみによる財政再建路線では、最終的に消費税は30%まで跳ね上がるだろう。そんなことをすれば、日本経済がデフレスパイラルで破綻することは確実だ。
財務省による増税一点集中路線を抑え、震災後の新たな日本創造のために、何が求められるのか。これからの政治にいちばん重要なのは、リーダーシップだといわれる。だがそれは、今回の危機対応で示されたような「政治主導」の姿ではない。リーダーシップとひと口にいっても、さまざまな要素があるが、とくに国を率いる政治家に求められるのは、国民を説得する力であろう。
説得力の背景には、理屈でははかれないものがある。それは一種のカリスマ性だったり、その人間が醸し出す雰囲気や信頼感であるともいわれる。
しかし、今後の日本においてなにより重要なのは、「私心」なく政治に取り組めるかどうかではないか。菅首相の官僚叩きは、どこかで国民の人気取りのためのようにみえてしまっている。そうした首相の下では、逆に官僚は改革に徹底的に抵抗するし、サボタージュする。まさに「政治主導」こそが、政治を停滞させる主たる原因となってしまうのだ。
だが、「私心」なく日本のために政治を行なう政治家であるならば、官僚も一目置かざるをえない。当然、官僚側も守旧派と改革派に分かれるだろう。そこで、政治の側の「改革熱」が頓挫してしまったら、改革に立ち上がった官僚は「立ち枯れ」てしまうが、私心なく政治を進める政治がある程度の期間、続くならば、そのときこそ霞が関改革は完遂されるはずである。
「身を捨てる」――それは、言うは易く、行なうは難いことだ。私自身、そのことを実感している。だが、震災以前から続いていた大きな危機が、確実に、日本を奈落の底に突き落とそうとしているいま、政治家にも、官僚にも、そして国民にも、もっとも求められることはその覚悟ではないかと思う。
この論説の趣旨は、官僚を動かすには無私の心があるかどうかだ、ということである。
西郷隆盛は、「命もいらぬ名もいらぬという人は始末におえぬものである。その始末におえぬ人でなければ大きな仕事はできぬものである」と言った。
これまでの菅総理の誤りは、彼が自分の利己的・俗世間的欲望だけで動いてきたことによる。彼が命を捨て、名を捨てて国民のために働こうと考えれば、彼は今すぐに、歴史に名を残す名宰相になれるのである。名を追うことをやめることで、逆に真の名声が得られるわけだ。
それが、日本という国を双肩に背負う総理としての務めである。
その意志がなければ総理になどなるべきではない。
(以下引用)
そして菅首相になって、財務省に対する擦り寄りは、より露骨なものになっている。それは、財務省が望む増税論者である与謝野馨氏を経済財政担当大臣に起用したことでも明らかだ。
日本国民は悲しいまでに真面目だ。震災後、東北を救うためには、消費税アップもやむなしと考えている。だが、財務省が企む増税のみによる財政再建路線では、最終的に消費税は30%まで跳ね上がるだろう。そんなことをすれば、日本経済がデフレスパイラルで破綻することは確実だ。
財務省による増税一点集中路線を抑え、震災後の新たな日本創造のために、何が求められるのか。これからの政治にいちばん重要なのは、リーダーシップだといわれる。だがそれは、今回の危機対応で示されたような「政治主導」の姿ではない。リーダーシップとひと口にいっても、さまざまな要素があるが、とくに国を率いる政治家に求められるのは、国民を説得する力であろう。
説得力の背景には、理屈でははかれないものがある。それは一種のカリスマ性だったり、その人間が醸し出す雰囲気や信頼感であるともいわれる。
しかし、今後の日本においてなにより重要なのは、「私心」なく政治に取り組めるかどうかではないか。菅首相の官僚叩きは、どこかで国民の人気取りのためのようにみえてしまっている。そうした首相の下では、逆に官僚は改革に徹底的に抵抗するし、サボタージュする。まさに「政治主導」こそが、政治を停滞させる主たる原因となってしまうのだ。
だが、「私心」なく日本のために政治を行なう政治家であるならば、官僚も一目置かざるをえない。当然、官僚側も守旧派と改革派に分かれるだろう。そこで、政治の側の「改革熱」が頓挫してしまったら、改革に立ち上がった官僚は「立ち枯れ」てしまうが、私心なく政治を進める政治がある程度の期間、続くならば、そのときこそ霞が関改革は完遂されるはずである。
「身を捨てる」――それは、言うは易く、行なうは難いことだ。私自身、そのことを実感している。だが、震災以前から続いていた大きな危機が、確実に、日本を奈落の底に突き落とそうとしているいま、政治家にも、官僚にも、そして国民にも、もっとも求められることはその覚悟ではないかと思う。
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