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徽宗皇帝のブログ

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見えないものは「存在しない」
長い記事なので後半だけ載せる。
「あるものは見えるが、無いものは見えない」というのが私の基本思想のひとつだが、都会のベンチやゴミ箱も存在しなくなったため、それが日常化し、意識されないものになった。つまり「見えるもの」から「見えないもの」になり、誰も問題視しなくなったわけだ。社会的排除というのは実に容易であるわけだ。言葉の言い換えなども、「問題を見えなくする」手法のひとつだろう。マスコミが「問題を取り上げない(問題視しない)」のも同じである。

(以下引用)

そもそもベンチがない問題



――そこまでしても、ベンチを置きたいのはなぜですか。

ベンチに突起があることと、日本、特に東京にほとんどベンチがないという問題は、分けて考えないといけないと思います。

突起物のあるベンチを見て「誰かが排除されてかわいそう」ということは簡単です。

でも、そもそもベンチがないことは、私たちみんなが普段から、都市やまちから排除されているのだということに、ほとんどの人は無自覚です。 

「うちの前では座らないで」「コーヒーを買わない人は、ここにいないで」と、疲れてもどこにも座れず、立ったまま弁当を食べている人や、植え込みに座ってしまう人をよく見かけます。

町から排除され慣れてしまっているのは、私たちみんな、だと感じます。





江戸時代の縁台に学ぶ



――ベンチは、昔はもっとあったんでしょうか?

昔過ぎるかもしれませんが、江戸時代だったら家や店の前に縁台を出すということを当たり前にやっていました。人々は「涼みに行こう」、「話しに行こう」と町全体を「共有部」のように感じていました。

でも、高度経済成長で、車のために道路を整備し、道はそういう形で使いづらくなり、さらに、地下鉄サリン事件があって、爆弾やテロリストへの警戒として、ベンチやゴミ箱が、町からなくなっていきました。

特に東京のベンチの少なさは、世界を見ても、特殊です。



昔は軒先に縁台が置かれる風景は珍しくなかった(写真はイメージ=PIXTA)
昔は軒先に縁台が置かれる風景は珍しくなかった(写真はイメージ=PIXTA)


どんな社会になってほしいか



――ベンチが増えるとどうなるのでしょう。

2019年に京橋に置いたベンチを、田町駅前のビルの足元に置く実験をしました。普段は人が早歩きでただ通っていくビルとビルの間の通路でしたが、ベンチを置くと、すぐに座る人が現れました。

みなさん、スマホを眺めていたり、次の打ち合わせに行く前に待っていたり、ただふわぁーっと過ごしています。

実験が終わって、このビルの会社も、常設のベンチを置きたいと言ってくれました。実験中、酒を飲む人もいたけど「なんか、良い光景ですよね」と見守ってくれた。ゴミが置かれたこともあったんですが、「ゴミ箱ないですもんね」と言ったら、「そうか」とゴミ箱の設置なども検討してくれました。

その会社が社会とどう付き合いたいか、どんな社会になってほしいかという思いが、如実に表れると感じました。



田町でベンチを設置した様子=株式会社グランドレベル提供
田町でベンチを設置した様子=株式会社グランドレベル提供


――お金を払ってまでベンチを置いて、お金を落とさなそうな人でもいられる居場所を作るということですよね

座った人がお金を落とすか、が問題ではなく、長い目で見たとき、ベンチがあることで、人がこの場所に懐いてくれて、その光景をまわりで見ている人が、このエリアを好きになってくれる。

人でにぎわうところは、テナントが離れにくいし、場所の価値が上がる。オーナーにとってもメリットがあることなはずです。




「恐れていることが本当に起きるか」を知る



――フラットなベンチが置かれる社会になるまで、どんなステップを踏めばいいのでしょう。

根本的には、かなり複雑で深い問題です。

京橋や、田町のビルみたいに、ベンチを仮置きして、「恐れていることが本当に起きるか」を知るのは良いと思います。そうすると、恐れていたことよりも、いろいろな人が使ってくれる豊かさの方がはるかに大きいことを感じられるはずです。

田町のベンチの実験を見た近くの花屋さんは、「すごく感動した」と自分の店先にも木製ベンチを置いてくれました。ベンチはその光景を見た人にも影響を及ぼします。

反対に、誰かが排除されたり、「お金払わないと座らせてあげない」という町の風景は、多くの人を寂しい気持ちにさせていないでしょうか。

人が見えている風景は、みんなが触れる場所で、「半公共」だと思います。だから、ベンチがあるとか、誰もが「いてもいい」と感じられる人に優しい場所になったらいいなと思っています。



スーパー前の空間を利用したスペース。何もなかった場所にベンチを置いた=株式会社グランドレベル提供
スーパー前の空間を利用したスペース。何もなかった場所にベンチを置いた=株式会社グランドレベル提供


排除はかわいそう、の先



――今回の突起は町の人のツイッターで動きました。社会の目も、変化を起こせますね。

肯定的に捉えています。そしてもしこれは「排除」だと気づいたら、排除される側の実情にも、興味を持ってもらえると、いいと思います。

――排除される側の問題、というと?

ベンチを傷つけるとか、ゴミを散らかすとか、モラルの差が見えてしまうと、「排除」できないかとつながってしまいますが、誰しも赤ちゃんのときからモラルがないわけじゃない。育った環境の差や社会が、モラルの差を生んでいるだけです。

「あなたが選んだんだ」と自己責任論で語られがちですが、誰しもいつでもその立場になり得る。なのに、自分とモラルの違う人を、人間として扱わないということが公然としているのは怖いことです。

モラルの問題はそれとして向き合わないといけないですが、その問題がクリアされない限り「一緒には居れませんよ」ということを市民の暗黙のルールにしてしまうことは恐ろしい。

「ああなったら排除されてしまう」と思う社会は、人を萎縮させます。どっちに転んでも、それなりに良い人生が送れると思える社会は、人がのびのびと生きられることにもつながると思います。



ベンチを置く社会実験の様子=株式会社グランドレベル提供
ベンチを置く社会実験の様子=株式会社グランドレベル提供


泣きたい時に使える場所か



――公共の場の在り方としてはミヤシタパークを始め、議論がされていますね。

「公」がつく公園は、お金がかからず、年齢とか身体的な特徴にかかわらず、誰でもサクッと行け場所であるべきです。ベンチも同じで、その辺にあって、誰をもフラットに受け入れてくれるものです。

「にぎわっている」「笑顔で楽しそう」だからと、すぐに議論が止まってしまうけど、本当に「公園」としての目的を果たしているのか、考えてほしいと思います。

いい公園には泣いている人もいるはずです。泣きたいときにアクセスできる公園か。孤独とか失敗に寄り添ってくれる「公共」はどこにあるのか。





――ベンチにぼーっと座っている人の写真は、ほっとして泣いているようにも見えました。

ベンチを置くと、しばらく何もしないで、ただ座っている人がたくさんいます。

ベンチも公園も福祉。福祉というのは特別かわいそうな人をケアする、ことじゃなくて、私たちみんなが社会にどう扱われているかということです。

今見えている景色が、自分がどう転んでも大丈夫な社会だと見えているかな、と考えてみると良いと思います。


※情報を一部更新しました(7月14日)






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