「播州武公祠遍照院」から転載。
この「被告人意見陳述」は、「円谷幸吉の遺書」とならぶ、「時代を代表する異形の名文」ではないだろうか。被告人、渡邊博史の(本当は「氏」と、敬称をつけたいが、さすがに犯罪者に敬称をつけて呼ぶのは憚られる。)頭の良さと、犯罪そのものの稚拙さ(動機と実行内容との結びつきのいい加減さ)の乖離も興味を引くが、これは彼が「社会的自殺」として選んだ犯罪であり、自殺である以上は、適当に選んだ「自殺手段」である、と見るべきだろう。自殺というものは、発作的に、勢いでやらないとできるものではない、と私は思う。である以上は、その手段が粗雑なのは当然だろう。
この文章の内容を細かく分析するのは私程度の頭の人間の任ではないが、ここに書かれた事柄は、今の日本における「負け組」の若者たちの心理を、どんな社会評論家や専門の学者などにも勝って描き出し、分析していると思う。この文章をいい加減に見過ごすような人間は、学者や評論家の名に値しない、と断言したい。被告人、渡邊博史は、現代日本の最上の社会評論家であり、精神分析学者である、と私は思う。(他の評論家や学者の本など読んだことも無いが、私のアンテナに引っかからないのだから、私はそれらのほとんどを無価値だ、と看做すしかない。)
これほどの頭脳の持ち主が、「負け組」となるのは不思議にも思えるが、社会での「勝ち組」「負け組」を決めるのは頭脳のレベルではない。性格である。
文章を読む限りでは、渡邊博史は、性格的にもむしろ善良で、自分自身をよく客観的に見ている。客観的過ぎるほどだ。そういう人間は、しばしば自分自身を過小評価し過ぎるものだ。そこが、彼を「負け組」にした原因の一つだろう。
おそらく「専門家」たちは、この文章に幾らか見られる彼の同性愛的傾向を過大に取り上げ、社会の問題ではなく、個人の問題に矮小化するだろう。それは今から予言しておく。
だが、そういう問題ではない、と私は思う。彼自身の性格の傾向が、彼を「無意識の敗北主義」に導いたことは確かだが、それと同時に、確かに人間を「勝ち組」と「負け組」に分ける社会システムが厳然と存在し、その後者をこそ我々は何とかして変えないといけないのである。ある意味では、彼は十字架上のキリストのように、一つの象徴ともなる存在である。
(以下引用)
■篠田博之 | 月刊『創』編集長 2014年3月15日 12時56分
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033576/
2014年3月13日に東京地裁で行われた「黒子のバスケ」脅迫事件初公判で、渡辺博史被告が読み上げた冒頭意見陳述の全文をここに公開します。当初は月刊『創』の次号に掲載しようと考えていましたが、この事件について多くの人に考えてもらうために、全文を早く公開したほうがよいと思いました。
法廷では時間の関係で全文朗読されなかったのですが、読み上げなかった部分に重要な記述もあります。例えば、昨年、脅迫を受けた書店が次々と出版物を撤去していった時期の後に、被告は書店への放火を計画していたという内容です。実行前に被告は逮捕されたわけですが、これは実行されていたら、深刻な事態を引き起こしていたと思われます。
この公判の内容は新聞・テレビで報道されていますが、ごく一部のみ切り取って報じられているため、内容が正しく伝えられていない気がします。アベノミクスで景気回復などと庶民の実感と乖離したことが喧伝される一方で、格差が拡大し、自分の将来に何の希望も持てない人たちが日本社会に存在していることを、この事件は示しています。被告の短絡的な発想が目立つことは否めないとはいえ、現在の日本社会の深刻な断面も、この事件は浮き彫りにしているような気がします。
以下、渡辺被告の冒頭意見陳述の全文です。
「黒子のバスケ」初公判被告人冒頭意見陳述
「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人の渡邊博史と申します。このたびは意見陳述の機会を与えて頂けましたことに心から謝意を表させて頂きます。起訴されてない事案も含めまして「黒子のバスケ」脅迫事件とされる一連の威力業務妨害事件は全て自分が一人でやりました。全ての責任は自分にあります。そして、どのような判決が下されようとも、それを受け入れて控訴しないことと、実刑判決を受けて服役する場合には、仮釈放を申請せずに刑期満了まで服役することをこの場で宣言を致します。
取り調べについてですが、自白の強要や暴力的な言葉による威圧などは全くありません。自分は刑事さんや検事さんより望外の公平な扱いを受けています。ネット上では「喪服は恐い刑事さんからきつい取り調べを受けて涙目になっているんだろうな。ざまあwwww」などと言われているかと思いますが、そのようなことは全くありません。自分に対する取り調べは民主警察・民主検察のそれそのものです。
さらに申し上げれば、自分の国籍や民族的アイデンティティについて勝手な憶測がネット上などに氾濫しているかと思いますが、自分の両親も祖父母も曾祖父母も日本人です。帰化して日本国籍を取得した日本人でもありません。「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人である渡邊博史は残念ながら日本人です。
動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。痛みに苦しむ回復の見込みのない病人を苦痛から解放させるために死なせることを安楽死と言います。自分に当てはめますと、人生の駄目さに苦しみ挽回する見込みのない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺しようとしていたというのが、適切な説明かと思います。自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。
ですから、黙って自分一人で勝手に自殺しておくべきだったのです。その決行を考えている時期に供述調書にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました。
自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」について列挙しておきますと、上智大学の学歴、バスケマンガでの成功、ボーイズラブ系二次創作での人気の3つになります。あと、取り調べでは申し上げませんでしたが、新宿出身というのもあります。公判のために必要な事実関係は全て供述調書になっていますので、ここでその詳細については申し上げません。上智大学への自分の執着につきましては、自分が上智大学出身者だけにのみ強烈なコンプレックスを抱くようになったきっかけは、19年前にささやかな屈辱を味わったことに端を発します。バスケマンガと二次創作につきましては、色々な出来事が複雑にリンクしています。31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケのユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります。また、新宿につきましては、16年前に自殺をしようとしてJR新宿駅周辺を彷徨し、11年前にJR新大久保駅周辺を歩き回ったことがきっかけです。いずれも昨日今日に端を発することではないのです。自分にとってはとてつもなく切実であったということだけは申し上げさせて下さい。ネット上などに流れた「黒子のバスケ」の熱狂的ファンによるファン感情の暴走による犯行説は全く間違いです。 そして今さらながら申し上げますが、自分が犯行初期を中心に出した犯行声明文の中の藤巻氏への怨恨を匂わす下りは全てデタラメです。自分と藤巻氏は全く面識はありません。自分は藤巻氏より何かされたということは一度たりとてありません。藤巻氏には全く落ち度はありません。この事実ははっきりとさせておかなくてはならないと思います。
自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。
しかし自分の主観ではそれは違うのです。以前、刑務所での服役を体験した元政治家の獄中体験記を読みました。その中に身体障害者の受刑者仲間から「俺たち障害者はね、生まれたときから罰を受けているようなもんなんだよ」と言われたという記述があります。自分には身体障害者の苦悩は想像もつきません。しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。自分は犯行の最中に何度も「燃え尽きるまでやろう」と自分に向かって言って、自分を鼓舞していました。その罰によって30代半ばという年齢になるまで何事にも燃え尽きることさえ許されなかったという意識でした。人生で初めて燃えるほどに頑張れたのが一連の事件だったのです。自分は人生の行き詰まりがいよいよ明確化した年齢になって、自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。
自分が初めて自殺を考え始めてから今年がちょうど30年目に当たります。小学校に入学して間もなく自殺することを考えました。原因は学校でのいじめです。自分はピカピカの1年生ではなくボロボロの1年生でした。この経緯についてここで申し上げても詮ないので、詳細については省略します。自分を罰し続けた何かとは、この時にいじめっ子とまともに対応してくれなかった両親や担任教師によって自分の心にはめられた枷のようなものではないかと、今さらながら分析しています。
自分は昨年の12月15日に逮捕されて、生まれて初めて手錠をされました。しかし全くショックはありませんでした。自分と致しましては、「いじめっ子と両親によってはめられていた見えない手錠が具現化しただけだ」という印象でした。
自分は犯行の最終目標を「黒子のバスケ」の単行本とその他の関連商品全ての販売中止とアニメの放映の中止と関連イベントの中止と定めていました。ただし永久に脅迫を続けることもできませんから、それを一瞬でも達成できたら、犯行終結宣言を出して、事件を終わらせようと思っていました。「黒子のバスケ」が自分の人生の駄目さを自分に突きつけて来る存在でしたので、それに自分が満足出来るダメージを与えることで自分を罰する「何か」に一矢報いたかのような気分になりたかったのです。それを心の糧に残りの人生を無惨に底辺で生きて行くなり、自殺して無惨な人生を終わらせるなりしようと思っていました。ですから自分はとても切実な動機で事件を起こしているのです。いじめられっ子である自分が、いじめっ子の「黒子のバスケ」の暴力から必死になって逃れようとしていたというのが、自分の主観的な意識です。
自分は都内の路上で警視庁の捜査員から任意同行を求められた時に「負けました」と申し上げました。この言葉のせいで自分がゲーム感覚の愉快犯であるという説が世間一般に流れたようですが、それは断じて違います。自分は確かに「負けました」と申し上げましたが、これは自分の人生をギブアップしたという意味で申し上げました。自分は警察に捕まった時点で人生の負けの確定を宣言したのです。一部報道で自分が「ごめんなさい、負けました」と捜査員に言ったと報じられましたが、自分は絶対に「ごめんなさい」などとは申しておりません。「ごめんなさい」の部分は完全に誤報もしくは捏造です。しつこく申し上げますが、自分はこの事件を決してゲーム感覚などでは起こしておりません。どこかの臨床心理士が新聞紙上で「好きなキャラ云々」などと真相にかすりもしないプロファイリングを披露して悦に入ってましたが、そんなしょぼい話ではないのです。専門家も人間ですから間違えることもあります。しかし、こちらが違うから、犯行声明で「違う」と言っているのに「図星だから感情的になって反論した」などと、自身の能力への懐疑と謙虚さが完全に欠如した恥の上塗り的な強弁を平然と新聞紙上にできる人物が、臨床心理士と名乗っていることに改めて慄然とします。
自分が逮捕されて2日後の朝に勾留されている警視庁麹町署から東京地検に出発しようとした時には、署の前にたくさんの報道陣が押し寄せて来ました。この時に自分の顔は笑っていました。これについて「有名になれたことに喜んでいる」というのが、世間一般の説であると聞いていますが、そんなことがあるはずがありません。カメラのフラッシュの洪水を浴びながら、「『何か』に罰され続けて来た自分がとうとう統治権力によって罰されることになったのか」と考えると、とめどもなくおかしさが込み上げて来て、それによって出た自嘲の笑いなのです。後日、弁護士さんにニュース映像をプリントアウトしたものを見せて頂きましたが、確かにあの顔は気持ち悪いです。人の怒りの感情を喚起させる気持ち悪さです。しかし、自分の心象風景とは乖離しています。自分がもう笑う資格がない人間であることぐらいは、自分も理解しています。
また一部マスコミ関係者に自分がグリコ森永事件に関与しているとの説があるようですが、それははっきりと否定します。
これだけの覚悟をして事件を起こしたのですから、反省はありません。反省するくらいでしたら、初めからやりません。また謝罪も致しません。もし謝罪するのでしたら、それこそ尾てい骨の奥から罪悪感がとめどもなくあふれ出て来て、全身から力が抜け、目の前が真っ暗になって、前後不覚に陥るような状態にならなければ、謝罪しても意味がないと考えます。残念ながら、自分は逮捕されてからそういう心理状態に一瞬たりともなったことがありません。自分はサイコパスと呼ばれるタイプの人間なのかもしれません。あと自分の犯罪の力が足りず「黒子のバスケ」というコンテンツに大してダメージを与えられなかったと自分は思っているからです。
ただ責任は取りたいと思っているのです。反省・謝罪と責任は違います。責任というとまず浮かぶのは、自分が起こした事件により生じた金銭的な被害を弁済するということです。これは単に被害金額だけではなくて、詫び料とでも言うべき金額を上乗せして初めて成り立つものであります。
これにつきましては、自分には当事者能力がありません。自分は昨年の10月に学園祭に対する襲撃予告を上智大学に送りました。これにより上智大学は警備体制の強化を余儀なくされました。約50万円の費用がかかったと聞きます。自分が起こした膨大な事件のうちの1件でこれだけです。被害総額はいくらになるか想像がつきません。自分のこれまでの人生での総収入額は1000万円に満たないです。年収が200万円を超えたことは一度もありません。月収が20万円を超えたことも数回しかないです。自分には金銭的な責任を取ることができません。
自分としては、犯罪によって一生をかけても払いきれない損害を生じさせたら、それはもう首を吊るしかないと考えております。実刑判決を受けて刑務所での服役を終えて出所して、できるだけ人に迷惑をかけない方法で自殺します。また自分の死が広く伝わるような手段も取ります。やはり「犯人が死んだ」という事実は、自分が起こした犯罪によって迷惑を被った方々に対して一定の溜飲を下げさせる効果はあるでしょうし、何より再犯がないと安心して頂けると思うのです。自分にはこのようにして「感情の手当」を行うしか責任を取ることができません。ただ同時に、自分の命の価値など絶無であって、自分の死も大して意味がないことも充分に理解しております。
自殺についてですが、自分は自己中心的な動機でも自殺したいのです。自分の連行に使用される捕縄を見るたびに首を吊りたくなります。この瞬間でも自殺させて頂けるのでしたら、大喜びで首を吊ります。動機も男として最もカッコ悪い種類の動機ですし、それが露見してしまったので、もう恥ずかしくて生きていたくないのです。それに自分は「負けました」と言って自分の人生の負けの確定を宣言したのです。つまり自分の人生は終わったのです。それなのにまだ生き永らえていることに我慢がならないのです。留置所と拘置所と刑務所は自殺が禁止された空間です。自分は下されるであろう実刑判決の量刑の長さを「自殺権を剥奪され、自殺をお預けにされる期間」と理解します。
取り調べで刑事さんや検事さんから「社会復帰」という言葉が出て来たことがあります。自分は先ほど申し上げました通りに刑務所から出所後にすぐ自殺しますので、社会復帰はしません。犯罪は程度の差こそあれ社会に迷惑をかけるものです。その迷惑が限度を超えた犯罪者を社会から永久追放するために無期懲役が、世の中から追放するために死刑が刑罰として存在します。自分は結果としては大した罪にはなりませんでした。しかし、明らかに社会の許容限度を超えた事件を起こしたと認識しています。職業窃盗犯の更生とは意味が違うのです。自分みたいなのが社会復帰しては絶対にいけませんし、それを許す甘い社会であってはならないと思います。取り調べで刑事さんから冗談めかして、「出所したら物書きにでもなったら? 喪服の死神の前歴を生かすならそれしかないよ」と言われました。自分は「冗談じゃない! 自分はもう物を言ったり書いたりする資格のない人間なんだよ」と叫びたくなりましたが、黙っていました。(以下、別稿に続く)
■篠田博之 | 月刊『創』編集長 2014年3月15日 13時7分
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033579/
以下、3月13日の「黒子のバスケ」脅迫事件初公判での被告人の意見陳述の後半を公開します。原文は大学ノートに手書きで書かれたもので、「拘留」を「勾留」に直し、「尾てい骨」の「てい」の字を平仮名にしたほかは、カギ括弧表示などを統一した以外、原文に忠実に起こしてあります。
それからこの意見陳述と別に、初公判で検察が説明した起訴内容の中にも、これまでほとんど報じられていなかった事柄があったことも伝えておきます。被告は昨年10月の2回目の脅迫状で、毒物入り菓子を置いた店の名前を明らかにしたのですが、実はこの脅迫状にはもうひとつ、その菓子以外にも、レトルトカレーなどにも細工をしたことが書かれていたのです。これは社会的影響を考え、ほとんど報道されなかったのですが、今回、検察の説明で、コンビニ側はこれについても全品検査を行うなど、大変な対応を行っていたことが明らかになりました。これも威力業務妨害に問われた3件の起訴のひとつになっています。
では、以下、被告人意見陳述の後半です。
「黒子のバスケ」初公判被告人冒頭意見陳述(後半)
少し話が変わりますが、この事件について「言論の自由に対する挑戦」という論評を逮捕前に見かけました。自分は「言論の自由」は国家権力からの自由を指す概念だと思っていました。自分は国家権力や、それを背景にした特殊な圧力団体の構成員でもありません。仮に言論の自由に挑戦する主体が私人だったとして、その私人からの自由という意味で「言論の自由」という概念があるとしましょう。それでも自分は「言論の自由」に挑戦したとは思いません。「作品内容がけしからんから本を撤去しろ」という要求であれば、それは確かに「言論の自由」への挑戦かもしれません。しかし自分は脅迫状の中で無差別殺傷を匂わせましたが、「黒子のバスケ」の作品内容については言及しておりません。これは「言論の自由」の問題ではなく、危機管理のあり方の問題なのです。一連の事件を受けて「黒子のバスケ」の単行本の販売を見合わせた書店が「言論弾圧への加担者」との批判を受け、販売を継続した書店が「『言論の自由』の擁護者」と賞賛を浴びていたことが全くもって理解できませんでした。繰り返しますが、これは頭がおかしい人間への対応を巡る危機管理の問題なのです。ちなみに逮捕により実行はされませんでしたが、自分は「『言論の自由』の擁護者」と賞賛を浴びた大手書店チェーンへの放火を計画していました。
しかし自分は「黒子のバスケ」の単行本を店頭から撤去した書店に対する脅迫事件では立件されない可能性が高いと聞きました。これはおかしいと思います。撤去した書店が立件に消極的で被害届の提出を拒んでいるとも聞きました。単行本の撤去は日本の出版の歴史に残る事件だと思います。絶対に公判の俎上に載せるべきだと考えます。検察には是非とも立件に積極的になって頂きたいと思います。
量刑につきましては、自分は厳罰に処させるべきですし、それを切望しています。半分冗談で半分本気で申し上げますが、自分が望む刑罰は死刑です。自分に対する刑罰が最高で懲役4年6ヶ月というのはおかしいと思います。自分は大学構内という公共空間で毒ガスをばらまき、コンビニの商品棚という不特定多数の人間が手を伸ばす場所に毒入りの食べ物を置いたのです。これは公共危険罪です。死傷者は出ていませんし、自分としても出ないようにやりましたが、自分を無期懲役にも死刑にも処せない日本の刑事司法には大きな欠陥があると思います。上智大学の事件は殺人未遂で、毒入りウエハスの事件はグリコ法で立件されるべきでした。ここからは完全に冗談で申し上げますが、自分としては「黒子のバスケ」というコンテンツに対する殺人未遂が、自分に最も相応しい罪ではないかと思います。またマンガ、アニメ、ゲームにおける表現規制推進の根拠に「キャラクターの人権」を挙げる論者もいますから、「黒子のバスケ」の全キャラクターを代表して主人公の黒子テツヤに対する殺人未遂を適用というのもコールドジャップもといクールジャパン政策を推進している日本らしくて面白いかなと思います。確かに自分は黒子テツヤの人権を侵害したと思います。冗談はさておき、明け透けに申し上げますと「こんなキモい奴は死刑でいいじゃないですか!」という気持ちです。
いわゆる「負け組」に属する人間が、成功者に対する妬みを動機に犯罪に走るという類型の事件は、ひょっとしたら今後の日本で頻発するかもしれません。グローバル経済体制の拡大により、一億総中流の意識が崩壊し、国民の間の格差が明確化して久しい昨今です。日本は東西冷戦下の高度成長期のようなケインズ型の経済政策を採用する体制にはもう戻れないでしょう。格差が開こうとも底辺がネトウヨ化しようとも、ネオリベ的な経済・社会政策は次々と施行されるのです。現在の刑事裁判で最も悪質な動機とされるのは利欲目的です。自分と致しましては、この裁判で検察に「成功者の足を引っ張ろうという動機は利欲目的と同等かそれ以上に悪質」という論理を用いて、自分を断罪して頂きたいのです。そして裁判所には判決でそれを全面的に支持して頂きたいのです。「不幸の道連れという動機は利欲目的と同等かそれ以上に悪質」という判例を作って頂いて、それを法曹界で合意形成して頂きたいのです。「国策捜査」という言葉がありますが、せっかくですから、この事件の判決を「国策判決」として利用して頂きたいのです。俗っぽい言い方をすれば、自分のような汚い顔のキモブサメンが成功したイケメンの足を引っ張ってはいけないのです。これからの日本社会のためにも「不幸の道連れ型犯罪は絶対に許さない」という司法の意志を判決で表明して下さい。せめて社会に役に立つような形で自分は罰されたいのです。そうでないと自分は心穏やかに刑務所で服役できませんし、出所後に心安らかに首も吊れません。
正直に申し上げますと、今の日本の刑事司法には自分を罰する方法はないと思います。自分は現在は留置所で寝泊まりしております。他の被留置者と仲良く話をしたりもできました。自分が人とまともに長く会話をしたのは本当に久しぶりです。少なくとも過去10年にはありません。若い被留置者と話していて「こんなにかわいい弟がいれば、自分はやらかしていなかったろうな」とか「こんなに明るくて、カッコ良くて、ノリの良い友人が子供の頃にいたら、自分の人生も違っていたろうな」などと感じました。自分の人間関係は逮捕前より充実しています。食事も砂糖・塩・油脂が控えめなとてもヘルシーなものを三食きちんと頂いております。自分が三食まともに食べる生活をするのは20年ぶりくらいです。
また、刑務所での服役も全く恐くありません。少なくとも娑婆よりは、人生の格差を自分に突きつけて来る存在に出会うことはないでしょう。いじめがあっても刑務官さんたちは、自分の両親や小学校の担任教師よりはきちんと対応して下さるでしょう。刑務所の生活には自由や尊厳がないと言いますが、自分には、それは娑婆でも同じことですから、何も恐くありません。また今回の逮捕を巡る報道により、自分は全ての日本人から見下される存在になり果てましたが、自分の主観では、それは逮捕前も同じで、それが単に顕在化したに過ぎませんから、特に改めて苦痛を感じません。
逮捕の3ヶ月くらい前から自分は36歳にして、生まれて初めて芸能人が好きになりました。自分は同性愛者ですから、もちろん男性です。好きになったのは男性のグループです。逮捕前はそのグループについて書かれたブログに日参していましたし、情報を得るために新たに言語を習得しようかと思ったくらいでした。身柄を確保された瞬間も、スマートホンを使って、そのグループの曲を聞いていました。逮捕された直後は「俺の嫁の一重王子にもう会えないし、曲も聞けないし、活動の情報も追っかけられないのか」とか「あの人たちの惑星の住人になりたかった」などと思って悲しくなりましたが、心の中でお別れを済ましましたので、今はどうでもいいです。またここ10年くらい自分は重度のネット依存症状態でしたが、今は特にネットをやりたいとは思いません。事件についてのネット上の反応にももう興味はありません。つまり自分は娑婆の娯楽に未練がないのです。
そもそもまともに就職したことがなく、逮捕前の仕事も日雇い派遣でした。自分には失くして惜しい社会的地位がありません。
また、家族もいません。父親は既に他界しています。母親は自営業をしていましたが、自分の事件のせいで店を畳まざるを得なくなりました。それについて申し訳ないという気持ちは全くありません。むしろ素晴らしい復讐を果たせたと思い満足しています。自分と母親との関係はこのようなものです。他の親族とも疎遠で全くつき合いはありません。もちろん友人は全くいません。
さらに自分は生まれてから一度も恋人がいたことがありません。その道のプロにお金を払うという手段を含めても性交すらしたことがありません。恋人いない歴=童貞歴=年齢です。自分はネットスラングで言うところの「魔法使い」です。自分のデタラメな声明文を真に受けた前述の臨床心理士がtwitterで「愛する人を失って云々」などとツイートしていましたが、自分は愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。つまり自分には失って惜しい人間関係もありません。自分は留置所から借りたスウェットを着てこの場に立っていますが、それはつまり自分には公判用のおめかし用の衣類を差し入れてくれる人など誰もいないという意味です。ただ自分は自己憐憫に陥ってはいません。むしろ無用な人間関係がないことを清々しいとすら思っています。自分の帰りを待つ人も誰もいませんので、気楽で気楽で仕方がありません。
そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。また「無敵の人」の犯罪者に対する効果的な処罰方法を刑事司法行政は真剣に考えるべきです。
長々と申し上げましたが、結論は自分は厳罰に処されるべきの一言に尽きます。自分は思わせぶりなことを申し上げましたが、客観的には大したいじめを受けてませんし、両親の自分に対する振る舞いも躾の範囲に収まることで虐待ではありません。
留置所で同室になった自分と同世代の男性が、「人生が終わりかどうかは自分次第でしょ」とよく言ってました。自分がいかに自己愛が強くて、怠け者で、他者への甘えと依存心に満ち、逆境に立ち向かう心の強さが皆無で、被害者意識だけは強く、規範意識が欠如したどうしようもない人間であることは、自分自身が誰よりもよく分かっています。それでも自分は両親や生育環境に責任転嫁して、心の平衡を保つ精神的勝利法をやめる気はありませんし、やめられません。日本の国際社会における経済的地位の下降とともにやたらと「世界から称賛され、かっこいいと憧れられる日本」像が喧伝され始め、「日本は全世界から好かれているのだから、日本が国際的な批判を浴びることなどありえない。それらは全て反日カルトトライアングルたる特定アジア三国の反日プロパガンダか、それらと呼応して動く日本の反日左翼マスゴミによる偏向捏造報道が原因」という論理のみで国際関係の全てを理解しようとする精神的勝利法が国民世論に蔓延しているのと同じ現象です。自分は「海外の反応」まとめブログを見ても、ちっとも気持ち良くなれませんでした。
自分にはもうこれからはありません、自分に更生の可能性は全くありません。自分には「死もまた社会奉仕」ならぬ「死のみが社会奉仕」という言葉がぴったりと当てはまります。
ここまで書き上げて原稿を読み直しました。知性の欠片も感じられない実に酷い文章だと思いました。自分は高校は元首相やノーベル受賞者を輩出している地元一番の進学校に入学したのですが、それが間違っていたとつくづく思いました。自分の能力に見合わない学校に入ってしまったことは本当に良くなかったです。ただし、母校の恥となったことにつきまして、母校に対する申し訳ないという気持ちは全くありません。ここしばらく何かとOBに慶事が続いていたので、それに冷や水を浴びせたと思うと、むしろ心地がいいです。
繰り返し申し上げますが、自分のようなクズは何としても厳罰に処されなければなりません。
そして最後になりますが、自分の今の率直な心境を申し上げます。
「こんなクソみたいな人生やってられるか! とっとと死なせろ!」
日本中の前途ある少年たちがいじけず、妬まず、僻まず、嫉まず、前向きで明るくてかっこいいイケメンに育つことを願って終わりにしたいと思います。
本日は意見陳述の機会を頂きまして、本当にありがとうございました。
「喪服の死神」「怪人801面相」「黒報隊」こと渡邊博史
この「被告人意見陳述」は、「円谷幸吉の遺書」とならぶ、「時代を代表する異形の名文」ではないだろうか。被告人、渡邊博史の(本当は「氏」と、敬称をつけたいが、さすがに犯罪者に敬称をつけて呼ぶのは憚られる。)頭の良さと、犯罪そのものの稚拙さ(動機と実行内容との結びつきのいい加減さ)の乖離も興味を引くが、これは彼が「社会的自殺」として選んだ犯罪であり、自殺である以上は、適当に選んだ「自殺手段」である、と見るべきだろう。自殺というものは、発作的に、勢いでやらないとできるものではない、と私は思う。である以上は、その手段が粗雑なのは当然だろう。
この文章の内容を細かく分析するのは私程度の頭の人間の任ではないが、ここに書かれた事柄は、今の日本における「負け組」の若者たちの心理を、どんな社会評論家や専門の学者などにも勝って描き出し、分析していると思う。この文章をいい加減に見過ごすような人間は、学者や評論家の名に値しない、と断言したい。被告人、渡邊博史は、現代日本の最上の社会評論家であり、精神分析学者である、と私は思う。(他の評論家や学者の本など読んだことも無いが、私のアンテナに引っかからないのだから、私はそれらのほとんどを無価値だ、と看做すしかない。)
これほどの頭脳の持ち主が、「負け組」となるのは不思議にも思えるが、社会での「勝ち組」「負け組」を決めるのは頭脳のレベルではない。性格である。
文章を読む限りでは、渡邊博史は、性格的にもむしろ善良で、自分自身をよく客観的に見ている。客観的過ぎるほどだ。そういう人間は、しばしば自分自身を過小評価し過ぎるものだ。そこが、彼を「負け組」にした原因の一つだろう。
おそらく「専門家」たちは、この文章に幾らか見られる彼の同性愛的傾向を過大に取り上げ、社会の問題ではなく、個人の問題に矮小化するだろう。それは今から予言しておく。
だが、そういう問題ではない、と私は思う。彼自身の性格の傾向が、彼を「無意識の敗北主義」に導いたことは確かだが、それと同時に、確かに人間を「勝ち組」と「負け組」に分ける社会システムが厳然と存在し、その後者をこそ我々は何とかして変えないといけないのである。ある意味では、彼は十字架上のキリストのように、一つの象徴ともなる存在である。
(以下引用)
■篠田博之 | 月刊『創』編集長 2014年3月15日 12時56分
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033576/
2014年3月13日に東京地裁で行われた「黒子のバスケ」脅迫事件初公判で、渡辺博史被告が読み上げた冒頭意見陳述の全文をここに公開します。当初は月刊『創』の次号に掲載しようと考えていましたが、この事件について多くの人に考えてもらうために、全文を早く公開したほうがよいと思いました。
法廷では時間の関係で全文朗読されなかったのですが、読み上げなかった部分に重要な記述もあります。例えば、昨年、脅迫を受けた書店が次々と出版物を撤去していった時期の後に、被告は書店への放火を計画していたという内容です。実行前に被告は逮捕されたわけですが、これは実行されていたら、深刻な事態を引き起こしていたと思われます。
この公判の内容は新聞・テレビで報道されていますが、ごく一部のみ切り取って報じられているため、内容が正しく伝えられていない気がします。アベノミクスで景気回復などと庶民の実感と乖離したことが喧伝される一方で、格差が拡大し、自分の将来に何の希望も持てない人たちが日本社会に存在していることを、この事件は示しています。被告の短絡的な発想が目立つことは否めないとはいえ、現在の日本社会の深刻な断面も、この事件は浮き彫りにしているような気がします。
以下、渡辺被告の冒頭意見陳述の全文です。
「黒子のバスケ」初公判被告人冒頭意見陳述
「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人の渡邊博史と申します。このたびは意見陳述の機会を与えて頂けましたことに心から謝意を表させて頂きます。起訴されてない事案も含めまして「黒子のバスケ」脅迫事件とされる一連の威力業務妨害事件は全て自分が一人でやりました。全ての責任は自分にあります。そして、どのような判決が下されようとも、それを受け入れて控訴しないことと、実刑判決を受けて服役する場合には、仮釈放を申請せずに刑期満了まで服役することをこの場で宣言を致します。
取り調べについてですが、自白の強要や暴力的な言葉による威圧などは全くありません。自分は刑事さんや検事さんより望外の公平な扱いを受けています。ネット上では「喪服は恐い刑事さんからきつい取り調べを受けて涙目になっているんだろうな。ざまあwwww」などと言われているかと思いますが、そのようなことは全くありません。自分に対する取り調べは民主警察・民主検察のそれそのものです。
さらに申し上げれば、自分の国籍や民族的アイデンティティについて勝手な憶測がネット上などに氾濫しているかと思いますが、自分の両親も祖父母も曾祖父母も日本人です。帰化して日本国籍を取得した日本人でもありません。「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人である渡邊博史は残念ながら日本人です。
動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。痛みに苦しむ回復の見込みのない病人を苦痛から解放させるために死なせることを安楽死と言います。自分に当てはめますと、人生の駄目さに苦しみ挽回する見込みのない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺しようとしていたというのが、適切な説明かと思います。自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。
ですから、黙って自分一人で勝手に自殺しておくべきだったのです。その決行を考えている時期に供述調書にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました。
自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」について列挙しておきますと、上智大学の学歴、バスケマンガでの成功、ボーイズラブ系二次創作での人気の3つになります。あと、取り調べでは申し上げませんでしたが、新宿出身というのもあります。公判のために必要な事実関係は全て供述調書になっていますので、ここでその詳細については申し上げません。上智大学への自分の執着につきましては、自分が上智大学出身者だけにのみ強烈なコンプレックスを抱くようになったきっかけは、19年前にささやかな屈辱を味わったことに端を発します。バスケマンガと二次創作につきましては、色々な出来事が複雑にリンクしています。31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケのユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります。また、新宿につきましては、16年前に自殺をしようとしてJR新宿駅周辺を彷徨し、11年前にJR新大久保駅周辺を歩き回ったことがきっかけです。いずれも昨日今日に端を発することではないのです。自分にとってはとてつもなく切実であったということだけは申し上げさせて下さい。ネット上などに流れた「黒子のバスケ」の熱狂的ファンによるファン感情の暴走による犯行説は全く間違いです。 そして今さらながら申し上げますが、自分が犯行初期を中心に出した犯行声明文の中の藤巻氏への怨恨を匂わす下りは全てデタラメです。自分と藤巻氏は全く面識はありません。自分は藤巻氏より何かされたということは一度たりとてありません。藤巻氏には全く落ち度はありません。この事実ははっきりとさせておかなくてはならないと思います。
自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。
しかし自分の主観ではそれは違うのです。以前、刑務所での服役を体験した元政治家の獄中体験記を読みました。その中に身体障害者の受刑者仲間から「俺たち障害者はね、生まれたときから罰を受けているようなもんなんだよ」と言われたという記述があります。自分には身体障害者の苦悩は想像もつきません。しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。自分は犯行の最中に何度も「燃え尽きるまでやろう」と自分に向かって言って、自分を鼓舞していました。その罰によって30代半ばという年齢になるまで何事にも燃え尽きることさえ許されなかったという意識でした。人生で初めて燃えるほどに頑張れたのが一連の事件だったのです。自分は人生の行き詰まりがいよいよ明確化した年齢になって、自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。
自分が初めて自殺を考え始めてから今年がちょうど30年目に当たります。小学校に入学して間もなく自殺することを考えました。原因は学校でのいじめです。自分はピカピカの1年生ではなくボロボロの1年生でした。この経緯についてここで申し上げても詮ないので、詳細については省略します。自分を罰し続けた何かとは、この時にいじめっ子とまともに対応してくれなかった両親や担任教師によって自分の心にはめられた枷のようなものではないかと、今さらながら分析しています。
自分は昨年の12月15日に逮捕されて、生まれて初めて手錠をされました。しかし全くショックはありませんでした。自分と致しましては、「いじめっ子と両親によってはめられていた見えない手錠が具現化しただけだ」という印象でした。
自分は犯行の最終目標を「黒子のバスケ」の単行本とその他の関連商品全ての販売中止とアニメの放映の中止と関連イベントの中止と定めていました。ただし永久に脅迫を続けることもできませんから、それを一瞬でも達成できたら、犯行終結宣言を出して、事件を終わらせようと思っていました。「黒子のバスケ」が自分の人生の駄目さを自分に突きつけて来る存在でしたので、それに自分が満足出来るダメージを与えることで自分を罰する「何か」に一矢報いたかのような気分になりたかったのです。それを心の糧に残りの人生を無惨に底辺で生きて行くなり、自殺して無惨な人生を終わらせるなりしようと思っていました。ですから自分はとても切実な動機で事件を起こしているのです。いじめられっ子である自分が、いじめっ子の「黒子のバスケ」の暴力から必死になって逃れようとしていたというのが、自分の主観的な意識です。
自分は都内の路上で警視庁の捜査員から任意同行を求められた時に「負けました」と申し上げました。この言葉のせいで自分がゲーム感覚の愉快犯であるという説が世間一般に流れたようですが、それは断じて違います。自分は確かに「負けました」と申し上げましたが、これは自分の人生をギブアップしたという意味で申し上げました。自分は警察に捕まった時点で人生の負けの確定を宣言したのです。一部報道で自分が「ごめんなさい、負けました」と捜査員に言ったと報じられましたが、自分は絶対に「ごめんなさい」などとは申しておりません。「ごめんなさい」の部分は完全に誤報もしくは捏造です。しつこく申し上げますが、自分はこの事件を決してゲーム感覚などでは起こしておりません。どこかの臨床心理士が新聞紙上で「好きなキャラ云々」などと真相にかすりもしないプロファイリングを披露して悦に入ってましたが、そんなしょぼい話ではないのです。専門家も人間ですから間違えることもあります。しかし、こちらが違うから、犯行声明で「違う」と言っているのに「図星だから感情的になって反論した」などと、自身の能力への懐疑と謙虚さが完全に欠如した恥の上塗り的な強弁を平然と新聞紙上にできる人物が、臨床心理士と名乗っていることに改めて慄然とします。
自分が逮捕されて2日後の朝に勾留されている警視庁麹町署から東京地検に出発しようとした時には、署の前にたくさんの報道陣が押し寄せて来ました。この時に自分の顔は笑っていました。これについて「有名になれたことに喜んでいる」というのが、世間一般の説であると聞いていますが、そんなことがあるはずがありません。カメラのフラッシュの洪水を浴びながら、「『何か』に罰され続けて来た自分がとうとう統治権力によって罰されることになったのか」と考えると、とめどもなくおかしさが込み上げて来て、それによって出た自嘲の笑いなのです。後日、弁護士さんにニュース映像をプリントアウトしたものを見せて頂きましたが、確かにあの顔は気持ち悪いです。人の怒りの感情を喚起させる気持ち悪さです。しかし、自分の心象風景とは乖離しています。自分がもう笑う資格がない人間であることぐらいは、自分も理解しています。
また一部マスコミ関係者に自分がグリコ森永事件に関与しているとの説があるようですが、それははっきりと否定します。
これだけの覚悟をして事件を起こしたのですから、反省はありません。反省するくらいでしたら、初めからやりません。また謝罪も致しません。もし謝罪するのでしたら、それこそ尾てい骨の奥から罪悪感がとめどもなくあふれ出て来て、全身から力が抜け、目の前が真っ暗になって、前後不覚に陥るような状態にならなければ、謝罪しても意味がないと考えます。残念ながら、自分は逮捕されてからそういう心理状態に一瞬たりともなったことがありません。自分はサイコパスと呼ばれるタイプの人間なのかもしれません。あと自分の犯罪の力が足りず「黒子のバスケ」というコンテンツに大してダメージを与えられなかったと自分は思っているからです。
ただ責任は取りたいと思っているのです。反省・謝罪と責任は違います。責任というとまず浮かぶのは、自分が起こした事件により生じた金銭的な被害を弁済するということです。これは単に被害金額だけではなくて、詫び料とでも言うべき金額を上乗せして初めて成り立つものであります。
これにつきましては、自分には当事者能力がありません。自分は昨年の10月に学園祭に対する襲撃予告を上智大学に送りました。これにより上智大学は警備体制の強化を余儀なくされました。約50万円の費用がかかったと聞きます。自分が起こした膨大な事件のうちの1件でこれだけです。被害総額はいくらになるか想像がつきません。自分のこれまでの人生での総収入額は1000万円に満たないです。年収が200万円を超えたことは一度もありません。月収が20万円を超えたことも数回しかないです。自分には金銭的な責任を取ることができません。
自分としては、犯罪によって一生をかけても払いきれない損害を生じさせたら、それはもう首を吊るしかないと考えております。実刑判決を受けて刑務所での服役を終えて出所して、できるだけ人に迷惑をかけない方法で自殺します。また自分の死が広く伝わるような手段も取ります。やはり「犯人が死んだ」という事実は、自分が起こした犯罪によって迷惑を被った方々に対して一定の溜飲を下げさせる効果はあるでしょうし、何より再犯がないと安心して頂けると思うのです。自分にはこのようにして「感情の手当」を行うしか責任を取ることができません。ただ同時に、自分の命の価値など絶無であって、自分の死も大して意味がないことも充分に理解しております。
自殺についてですが、自分は自己中心的な動機でも自殺したいのです。自分の連行に使用される捕縄を見るたびに首を吊りたくなります。この瞬間でも自殺させて頂けるのでしたら、大喜びで首を吊ります。動機も男として最もカッコ悪い種類の動機ですし、それが露見してしまったので、もう恥ずかしくて生きていたくないのです。それに自分は「負けました」と言って自分の人生の負けの確定を宣言したのです。つまり自分の人生は終わったのです。それなのにまだ生き永らえていることに我慢がならないのです。留置所と拘置所と刑務所は自殺が禁止された空間です。自分は下されるであろう実刑判決の量刑の長さを「自殺権を剥奪され、自殺をお預けにされる期間」と理解します。
取り調べで刑事さんや検事さんから「社会復帰」という言葉が出て来たことがあります。自分は先ほど申し上げました通りに刑務所から出所後にすぐ自殺しますので、社会復帰はしません。犯罪は程度の差こそあれ社会に迷惑をかけるものです。その迷惑が限度を超えた犯罪者を社会から永久追放するために無期懲役が、世の中から追放するために死刑が刑罰として存在します。自分は結果としては大した罪にはなりませんでした。しかし、明らかに社会の許容限度を超えた事件を起こしたと認識しています。職業窃盗犯の更生とは意味が違うのです。自分みたいなのが社会復帰しては絶対にいけませんし、それを許す甘い社会であってはならないと思います。取り調べで刑事さんから冗談めかして、「出所したら物書きにでもなったら? 喪服の死神の前歴を生かすならそれしかないよ」と言われました。自分は「冗談じゃない! 自分はもう物を言ったり書いたりする資格のない人間なんだよ」と叫びたくなりましたが、黙っていました。(以下、別稿に続く)
■篠田博之 | 月刊『創』編集長 2014年3月15日 13時7分
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033579/
以下、3月13日の「黒子のバスケ」脅迫事件初公判での被告人の意見陳述の後半を公開します。原文は大学ノートに手書きで書かれたもので、「拘留」を「勾留」に直し、「尾てい骨」の「てい」の字を平仮名にしたほかは、カギ括弧表示などを統一した以外、原文に忠実に起こしてあります。
それからこの意見陳述と別に、初公判で検察が説明した起訴内容の中にも、これまでほとんど報じられていなかった事柄があったことも伝えておきます。被告は昨年10月の2回目の脅迫状で、毒物入り菓子を置いた店の名前を明らかにしたのですが、実はこの脅迫状にはもうひとつ、その菓子以外にも、レトルトカレーなどにも細工をしたことが書かれていたのです。これは社会的影響を考え、ほとんど報道されなかったのですが、今回、検察の説明で、コンビニ側はこれについても全品検査を行うなど、大変な対応を行っていたことが明らかになりました。これも威力業務妨害に問われた3件の起訴のひとつになっています。
では、以下、被告人意見陳述の後半です。
「黒子のバスケ」初公判被告人冒頭意見陳述(後半)
少し話が変わりますが、この事件について「言論の自由に対する挑戦」という論評を逮捕前に見かけました。自分は「言論の自由」は国家権力からの自由を指す概念だと思っていました。自分は国家権力や、それを背景にした特殊な圧力団体の構成員でもありません。仮に言論の自由に挑戦する主体が私人だったとして、その私人からの自由という意味で「言論の自由」という概念があるとしましょう。それでも自分は「言論の自由」に挑戦したとは思いません。「作品内容がけしからんから本を撤去しろ」という要求であれば、それは確かに「言論の自由」への挑戦かもしれません。しかし自分は脅迫状の中で無差別殺傷を匂わせましたが、「黒子のバスケ」の作品内容については言及しておりません。これは「言論の自由」の問題ではなく、危機管理のあり方の問題なのです。一連の事件を受けて「黒子のバスケ」の単行本の販売を見合わせた書店が「言論弾圧への加担者」との批判を受け、販売を継続した書店が「『言論の自由』の擁護者」と賞賛を浴びていたことが全くもって理解できませんでした。繰り返しますが、これは頭がおかしい人間への対応を巡る危機管理の問題なのです。ちなみに逮捕により実行はされませんでしたが、自分は「『言論の自由』の擁護者」と賞賛を浴びた大手書店チェーンへの放火を計画していました。
しかし自分は「黒子のバスケ」の単行本を店頭から撤去した書店に対する脅迫事件では立件されない可能性が高いと聞きました。これはおかしいと思います。撤去した書店が立件に消極的で被害届の提出を拒んでいるとも聞きました。単行本の撤去は日本の出版の歴史に残る事件だと思います。絶対に公判の俎上に載せるべきだと考えます。検察には是非とも立件に積極的になって頂きたいと思います。
量刑につきましては、自分は厳罰に処させるべきですし、それを切望しています。半分冗談で半分本気で申し上げますが、自分が望む刑罰は死刑です。自分に対する刑罰が最高で懲役4年6ヶ月というのはおかしいと思います。自分は大学構内という公共空間で毒ガスをばらまき、コンビニの商品棚という不特定多数の人間が手を伸ばす場所に毒入りの食べ物を置いたのです。これは公共危険罪です。死傷者は出ていませんし、自分としても出ないようにやりましたが、自分を無期懲役にも死刑にも処せない日本の刑事司法には大きな欠陥があると思います。上智大学の事件は殺人未遂で、毒入りウエハスの事件はグリコ法で立件されるべきでした。ここからは完全に冗談で申し上げますが、自分としては「黒子のバスケ」というコンテンツに対する殺人未遂が、自分に最も相応しい罪ではないかと思います。またマンガ、アニメ、ゲームにおける表現規制推進の根拠に「キャラクターの人権」を挙げる論者もいますから、「黒子のバスケ」の全キャラクターを代表して主人公の黒子テツヤに対する殺人未遂を適用というのもコールドジャップもといクールジャパン政策を推進している日本らしくて面白いかなと思います。確かに自分は黒子テツヤの人権を侵害したと思います。冗談はさておき、明け透けに申し上げますと「こんなキモい奴は死刑でいいじゃないですか!」という気持ちです。
いわゆる「負け組」に属する人間が、成功者に対する妬みを動機に犯罪に走るという類型の事件は、ひょっとしたら今後の日本で頻発するかもしれません。グローバル経済体制の拡大により、一億総中流の意識が崩壊し、国民の間の格差が明確化して久しい昨今です。日本は東西冷戦下の高度成長期のようなケインズ型の経済政策を採用する体制にはもう戻れないでしょう。格差が開こうとも底辺がネトウヨ化しようとも、ネオリベ的な経済・社会政策は次々と施行されるのです。現在の刑事裁判で最も悪質な動機とされるのは利欲目的です。自分と致しましては、この裁判で検察に「成功者の足を引っ張ろうという動機は利欲目的と同等かそれ以上に悪質」という論理を用いて、自分を断罪して頂きたいのです。そして裁判所には判決でそれを全面的に支持して頂きたいのです。「不幸の道連れという動機は利欲目的と同等かそれ以上に悪質」という判例を作って頂いて、それを法曹界で合意形成して頂きたいのです。「国策捜査」という言葉がありますが、せっかくですから、この事件の判決を「国策判決」として利用して頂きたいのです。俗っぽい言い方をすれば、自分のような汚い顔のキモブサメンが成功したイケメンの足を引っ張ってはいけないのです。これからの日本社会のためにも「不幸の道連れ型犯罪は絶対に許さない」という司法の意志を判決で表明して下さい。せめて社会に役に立つような形で自分は罰されたいのです。そうでないと自分は心穏やかに刑務所で服役できませんし、出所後に心安らかに首も吊れません。
正直に申し上げますと、今の日本の刑事司法には自分を罰する方法はないと思います。自分は現在は留置所で寝泊まりしております。他の被留置者と仲良く話をしたりもできました。自分が人とまともに長く会話をしたのは本当に久しぶりです。少なくとも過去10年にはありません。若い被留置者と話していて「こんなにかわいい弟がいれば、自分はやらかしていなかったろうな」とか「こんなに明るくて、カッコ良くて、ノリの良い友人が子供の頃にいたら、自分の人生も違っていたろうな」などと感じました。自分の人間関係は逮捕前より充実しています。食事も砂糖・塩・油脂が控えめなとてもヘルシーなものを三食きちんと頂いております。自分が三食まともに食べる生活をするのは20年ぶりくらいです。
また、刑務所での服役も全く恐くありません。少なくとも娑婆よりは、人生の格差を自分に突きつけて来る存在に出会うことはないでしょう。いじめがあっても刑務官さんたちは、自分の両親や小学校の担任教師よりはきちんと対応して下さるでしょう。刑務所の生活には自由や尊厳がないと言いますが、自分には、それは娑婆でも同じことですから、何も恐くありません。また今回の逮捕を巡る報道により、自分は全ての日本人から見下される存在になり果てましたが、自分の主観では、それは逮捕前も同じで、それが単に顕在化したに過ぎませんから、特に改めて苦痛を感じません。
逮捕の3ヶ月くらい前から自分は36歳にして、生まれて初めて芸能人が好きになりました。自分は同性愛者ですから、もちろん男性です。好きになったのは男性のグループです。逮捕前はそのグループについて書かれたブログに日参していましたし、情報を得るために新たに言語を習得しようかと思ったくらいでした。身柄を確保された瞬間も、スマートホンを使って、そのグループの曲を聞いていました。逮捕された直後は「俺の嫁の一重王子にもう会えないし、曲も聞けないし、活動の情報も追っかけられないのか」とか「あの人たちの惑星の住人になりたかった」などと思って悲しくなりましたが、心の中でお別れを済ましましたので、今はどうでもいいです。またここ10年くらい自分は重度のネット依存症状態でしたが、今は特にネットをやりたいとは思いません。事件についてのネット上の反応にももう興味はありません。つまり自分は娑婆の娯楽に未練がないのです。
そもそもまともに就職したことがなく、逮捕前の仕事も日雇い派遣でした。自分には失くして惜しい社会的地位がありません。
また、家族もいません。父親は既に他界しています。母親は自営業をしていましたが、自分の事件のせいで店を畳まざるを得なくなりました。それについて申し訳ないという気持ちは全くありません。むしろ素晴らしい復讐を果たせたと思い満足しています。自分と母親との関係はこのようなものです。他の親族とも疎遠で全くつき合いはありません。もちろん友人は全くいません。
さらに自分は生まれてから一度も恋人がいたことがありません。その道のプロにお金を払うという手段を含めても性交すらしたことがありません。恋人いない歴=童貞歴=年齢です。自分はネットスラングで言うところの「魔法使い」です。自分のデタラメな声明文を真に受けた前述の臨床心理士がtwitterで「愛する人を失って云々」などとツイートしていましたが、自分は愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。つまり自分には失って惜しい人間関係もありません。自分は留置所から借りたスウェットを着てこの場に立っていますが、それはつまり自分には公判用のおめかし用の衣類を差し入れてくれる人など誰もいないという意味です。ただ自分は自己憐憫に陥ってはいません。むしろ無用な人間関係がないことを清々しいとすら思っています。自分の帰りを待つ人も誰もいませんので、気楽で気楽で仕方がありません。
そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。また「無敵の人」の犯罪者に対する効果的な処罰方法を刑事司法行政は真剣に考えるべきです。
長々と申し上げましたが、結論は自分は厳罰に処されるべきの一言に尽きます。自分は思わせぶりなことを申し上げましたが、客観的には大したいじめを受けてませんし、両親の自分に対する振る舞いも躾の範囲に収まることで虐待ではありません。
留置所で同室になった自分と同世代の男性が、「人生が終わりかどうかは自分次第でしょ」とよく言ってました。自分がいかに自己愛が強くて、怠け者で、他者への甘えと依存心に満ち、逆境に立ち向かう心の強さが皆無で、被害者意識だけは強く、規範意識が欠如したどうしようもない人間であることは、自分自身が誰よりもよく分かっています。それでも自分は両親や生育環境に責任転嫁して、心の平衡を保つ精神的勝利法をやめる気はありませんし、やめられません。日本の国際社会における経済的地位の下降とともにやたらと「世界から称賛され、かっこいいと憧れられる日本」像が喧伝され始め、「日本は全世界から好かれているのだから、日本が国際的な批判を浴びることなどありえない。それらは全て反日カルトトライアングルたる特定アジア三国の反日プロパガンダか、それらと呼応して動く日本の反日左翼マスゴミによる偏向捏造報道が原因」という論理のみで国際関係の全てを理解しようとする精神的勝利法が国民世論に蔓延しているのと同じ現象です。自分は「海外の反応」まとめブログを見ても、ちっとも気持ち良くなれませんでした。
自分にはもうこれからはありません、自分に更生の可能性は全くありません。自分には「死もまた社会奉仕」ならぬ「死のみが社会奉仕」という言葉がぴったりと当てはまります。
ここまで書き上げて原稿を読み直しました。知性の欠片も感じられない実に酷い文章だと思いました。自分は高校は元首相やノーベル受賞者を輩出している地元一番の進学校に入学したのですが、それが間違っていたとつくづく思いました。自分の能力に見合わない学校に入ってしまったことは本当に良くなかったです。ただし、母校の恥となったことにつきまして、母校に対する申し訳ないという気持ちは全くありません。ここしばらく何かとOBに慶事が続いていたので、それに冷や水を浴びせたと思うと、むしろ心地がいいです。
繰り返し申し上げますが、自分のようなクズは何としても厳罰に処されなければなりません。
そして最後になりますが、自分の今の率直な心境を申し上げます。
「こんなクソみたいな人生やってられるか! とっとと死なせろ!」
日本中の前途ある少年たちがいじけず、妬まず、僻まず、嫉まず、前向きで明るくてかっこいいイケメンに育つことを願って終わりにしたいと思います。
本日は意見陳述の機会を頂きまして、本当にありがとうございました。
「喪服の死神」「怪人801面相」「黒報隊」こと渡邊博史
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