「大摩邇」所載の「達人さん」ブログ記事の一部で、雁屋哲のこの文章は私とは意見の異なる部分も幾つかあり、誤記もあるが、そのまま転載する。(たとえば、私は「自由」を手放しで賛美する姿勢こそが「新自由主義」の跳梁跋扈を許した背景にあると思っているし、天皇関連の記載は「天皇機関説」を採る私としては、あまり賛同しない。もちろん、昭和天皇の戦争責任は疑えないが、彼を退位させなかったGHQの方針が、「ほぼ全員が戦争責任者だった」当時の日本人を社会復帰させた、と思っている。天皇の存在しない日本でどのような秩序がありえたか、私は疑っている。)
(以下引用)長すぎるので、天皇論を含め、後半はカットするかもしれない。この文章は前にも取り上げたと思うが、重要な文章なので、何度も読んだほうがいい。
雁屋哲の今日もまた
http://kariyatetsu.com/blog/1665.php
2014-03-03
自発的隷従論
最近、目の覚めるような素晴らしい本に出会った。
「自発的隷従論」という。
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Etienne de la Boétie)著、
(山上浩嗣訳 西谷修監修 ちくま学芸文庫 2013年刊)。
ラ・ボエシは1530年に生まれ、1563年に亡くなった。
ラ・ボエシは33歳になる前に亡くなったが、この、「自発的隷従論」(原題: Discours de la servitude volontaire)を書いたのは、18才の時だという。
あの有名な、モンテーニュは ラ・ボエシの親友であり、ラ・ボエシ著作集をまとめた。
今から、450年前に18才の青年に書かれたこの文章が今も多くの人の心を打つ。
この論が、「人が支配し、人が支配される仕組み」を原理的に解いたからである。
「自発的隷従論」はこの「ちくま学芸文庫」版ではわずか72頁しかない短い物だが、その内容は正に原理であって、その意味の深さは限りない。
それは、ニュートンの運動方程式
「力は、質量とそれに加えられた加速度の積である。F=am」
は短いがその意味は深いのと同じだ。
ラ・ボエシの「自発的隷従論」の肝となる文章を、同書の中から幾つか挙げる。
読者諸姉諸兄のためではなく、私自身が理解しやすいように、平仮名で書かれている部分が、返って読みづらいので、その部分を漢字にしたり、語句を変更している物もある(文意に関わるような事は一切していない)。
同書訳文をその読みたい方のために、私の紹介した言葉が載っている、同書のページ数を記しておく。
本来は、きちんと同書を読んだ方が良いので、私はできるだけ多くの方に、同書を読んで頂きたいと思う。
私がこの頁で書いていることは、同書を多くの人達に知って頂くための呼び水である。
私は自分のこの頁が、同書を多くの人達にたいして紹介する役に立てれば嬉しいと思っている。
A「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P011)」
B「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P013)」
C「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか(P014)」
D「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P015)」
E「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P015)」
F「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P022)」
ここまでの、ラ・ボエシの言う事を要約すると、
「支配・被支配の関係は、支配者側からの一方的な物ではなく、支配される側が支配されることを望んでいて、支配者に、自分たちを支配する力を進んで与えているからだ」
と言う事になる。
「支配されたがっている」
とでも言い換えようか。
それが、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」である。
支配される側からの支配者に対する共犯者的な協力、支配される側からの自分自身を裏切る協力がなければ、支配者は人々を支配できない。
このラ・ボエシの言葉は、日本の社会の状況をそのまま語っているように、私には思える。
ラ・ボエシの「自発的隷従論」は支配、被支配の関係を原理的に解き明かした物だから、支配、被支配の関係が成立している所には全て応用が利く。
「自発的隷従論」の中では、支配者を「一者」としているが、ラ・ボエシが説いているのは支配、被支配の原理であって、支配者が一人であろうと、複数であろうと、御神輿を担ぐ集団であろうと、他の国を支配しようとする一つの国であろうと、「支配する者」と「支配される者」との関係は同じである。そこには、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」が常に存在する。
日本の社会はこの「自発的隷従」で埋め尽くされている。
というより、日本の社会は「自発的隷従」で組立てられている。
日本人の殆どはこの「自発的隷従」を他人事と思っているのではないか。
他人事とは飛んでもない。自分のことなのだ。
大半の日本人がもはや自分でそうと気づかぬくらいに「自発的隷従」の鎖につながれているのだ。
読者諸姉諸兄よ、あなた方は、私の言葉に怒りを発するだろうか。
火に油を注ぐつもりはないが、怒りを発するとしたら、それはあなた方に自分自身の真の姿を見つめる勇気がないからだ、と敢えて私は申し上げる。
上に上げた、ラ・ボエシの言葉を、自分の社会的なあり方と引き比べて、読んで頂きたい。
まず日本の社会に独特な「上下関係」について考えてみよう。
大学の運動部・体育会を表わす表現に「4年神様、3年貴族、2年平民、1年奴隷」というものがある。
1年生は、道具の手入れ、部室、合宿所掃除、先輩たちの運動着の洗濯、など上級生・先輩たちの奴隷のように働かされる。
2年生になると、やはり上級生たちに仕えなければならないが、辛い労働は1年生にさせることが出来る。
3年生になると、最早労働はしない。4年生のご機嫌だけ取って、あとは2年生、1年生に威張っていればよい。
4年生になると、1年生は奴隷労働で尽くさせる、2年生は必要なときに適当に使える。3年生は自分たちにへつらい、こびを売るから可愛がってやり、ときに下級生がたるんでいるから締めろと命令して、3年生が2年生、2年生が1年生をしごくのを見て楽しむ。
これは、有名私立大学の体育会に属する学生、体育会のOB何人もから聞いた話だから確かである。
こんな運動部に絶えず新入生が加入する。
彼らは人伝えに、上下関係の厳しさを知っていて、新入りの1年生がどんな目に遭うか知っていて、それでも体育会・運動部に入ってくる。
そして、入部早々新入生歓迎会という乱暴なしごきを受ける。
毎年春になると、上級生に強要されて無茶苦茶な量の酒を飲まされて急性アルコール中毒で死ぬ学生の話が報道される。
そのしごきが厭になって止める学生もいる。
だが、運動部が廃部になることは滅多にない。
入部する新入生が減ったとか、いなくなったとか言う話も滅多に聞かない。
OBや上級生は「我が部、何十年の伝統」などと、自慢する。
この場合の自慢は、自己満足の表明である。
下級生は何故上級生の支配を日常的に受けて我慢しているのか。
そう尋ねると、例えば、野球なら野球をしたいから部に入っている。部を止めたら野球ができなくなる。だから、上級生のしごきも我慢しなければならない、と答えるだろう。
本当だろうか。しごきがなければ、野球部は出来ない物だろうか。
野球の発祥の地アメリカの大学や高校の野球チームで、日本のように上級生の下級生にたいするしごきがあったら、しごいた上級生は直ちにチームから追放されるだろう。
何故、野球をしたいがために殴られたり、無意味どころでは無く、腰に非常に有害ななウサギ跳びなどをされられるのを甘んじて受け入れるのか。
運動部のOBは卒業してからも、現役の学生の選手たちに威張っている。また、そのOBの中でも卒業年次ごとに上下関係がある。
一旦運動部に入ると、死ぬまでその上下関係に縛られる。
彼らは、支配被支配の関係が好きなのだ。支配される事が好きだから、「仕方がない」などと言って、先輩の暴力を耐えるのである。
いつも支配されつづけていると、例えば日本の野球部の新入生は上級生からの暴力が絶えたら、自分でどう動いて良いか分からなくなるのではないか。
何故、運動部・体育会について、長々と書いたかというと、この、運動部・体育会の奇怪で残忍な組織は、日本の社会だから存在する物であり、日本の社会の構造そのものを、そこに作り出していて、日本社会のひな形だと思うからだ。
日本の運動部・体育会は後輩の先輩たちに対する自発的隷従によって成立している。日本の社会がまさにそうである。
日本の会社、官僚の世界も同じである。
日本の会社に一旦入るとその日から先輩社員に従わなければならない。
それが、仕事の上だけでなく、会社の外に出ても同じである。
居酒屋や焼き肉屋で、どこかの会社の集団なのだろう、先輩社員はふんぞり返って、乱暴な口をきき、後輩社員はさながら従者のように先輩社員の顔色をうかがう、などと言う光景は私自身何度も見てきた。
「会社の外に出てまでか」と私はその様な光景を見る度に、食事がまずくなる思いをした。
高級官僚(国家公務員上級試験に合格して官僚になった人間。国家公務員上級試験に合格しないと、官僚の世界では、出世できないことになっている)の世界はまたこれが、奇々怪々で、入庁年次で先輩後輩の関係は死ぬまで続く。
その年次による上下関係を保つ為なのだろう、財務省などでは同期入庁の誰かが、官僚機構の頂上である「次官」に就任すると、同期入庁の者達は一斉に役所を辞めて、関係会社・法人に天下りする。
さらに、恐ろしいことだが、先輩が決めた法律を改正することは、先輩を否定することになるので出来ないという。
なにが正しいかを決めるのは、真実ではなく、先輩後輩の上下関係である。
だから、日本では、どんなに現状に合わないおかしな法律でも改正するのは難しい。
会社員の世界も、官僚の世界も、先輩に隷従しなければ生きて行けない。
自ら会社員、官僚になる道を選んだ人間は自発的に隷従するのである。
(以下略)
(以下引用)長すぎるので、天皇論を含め、後半はカットするかもしれない。この文章は前にも取り上げたと思うが、重要な文章なので、何度も読んだほうがいい。
雁屋哲の今日もまた
http://kariyatetsu.com/blog/1665.php
2014-03-03
自発的隷従論
最近、目の覚めるような素晴らしい本に出会った。
「自発的隷従論」という。
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Etienne de la Boétie)著、
(山上浩嗣訳 西谷修監修 ちくま学芸文庫 2013年刊)。
ラ・ボエシは1530年に生まれ、1563年に亡くなった。
ラ・ボエシは33歳になる前に亡くなったが、この、「自発的隷従論」(原題: Discours de la servitude volontaire)を書いたのは、18才の時だという。
あの有名な、モンテーニュは ラ・ボエシの親友であり、ラ・ボエシ著作集をまとめた。
今から、450年前に18才の青年に書かれたこの文章が今も多くの人の心を打つ。
この論が、「人が支配し、人が支配される仕組み」を原理的に解いたからである。
「自発的隷従論」はこの「ちくま学芸文庫」版ではわずか72頁しかない短い物だが、その内容は正に原理であって、その意味の深さは限りない。
それは、ニュートンの運動方程式
「力は、質量とそれに加えられた加速度の積である。F=am」
は短いがその意味は深いのと同じだ。
ラ・ボエシの「自発的隷従論」の肝となる文章を、同書の中から幾つか挙げる。
読者諸姉諸兄のためではなく、私自身が理解しやすいように、平仮名で書かれている部分が、返って読みづらいので、その部分を漢字にしたり、語句を変更している物もある(文意に関わるような事は一切していない)。
同書訳文をその読みたい方のために、私の紹介した言葉が載っている、同書のページ数を記しておく。
本来は、きちんと同書を読んだ方が良いので、私はできるだけ多くの方に、同書を読んで頂きたいと思う。
私がこの頁で書いていることは、同書を多くの人達に知って頂くための呼び水である。
私は自分のこの頁が、同書を多くの人達にたいして紹介する役に立てれば嬉しいと思っている。
A「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P011)」
B「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P013)」
C「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか(P014)」
D「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P015)」
E「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P015)」
F「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P022)」
ここまでの、ラ・ボエシの言う事を要約すると、
「支配・被支配の関係は、支配者側からの一方的な物ではなく、支配される側が支配されることを望んでいて、支配者に、自分たちを支配する力を進んで与えているからだ」
と言う事になる。
「支配されたがっている」
とでも言い換えようか。
それが、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」である。
支配される側からの支配者に対する共犯者的な協力、支配される側からの自分自身を裏切る協力がなければ、支配者は人々を支配できない。
このラ・ボエシの言葉は、日本の社会の状況をそのまま語っているように、私には思える。
ラ・ボエシの「自発的隷従論」は支配、被支配の関係を原理的に解き明かした物だから、支配、被支配の関係が成立している所には全て応用が利く。
「自発的隷従論」の中では、支配者を「一者」としているが、ラ・ボエシが説いているのは支配、被支配の原理であって、支配者が一人であろうと、複数であろうと、御神輿を担ぐ集団であろうと、他の国を支配しようとする一つの国であろうと、「支配する者」と「支配される者」との関係は同じである。そこには、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」が常に存在する。
日本の社会はこの「自発的隷従」で埋め尽くされている。
というより、日本の社会は「自発的隷従」で組立てられている。
日本人の殆どはこの「自発的隷従」を他人事と思っているのではないか。
他人事とは飛んでもない。自分のことなのだ。
大半の日本人がもはや自分でそうと気づかぬくらいに「自発的隷従」の鎖につながれているのだ。
読者諸姉諸兄よ、あなた方は、私の言葉に怒りを発するだろうか。
火に油を注ぐつもりはないが、怒りを発するとしたら、それはあなた方に自分自身の真の姿を見つめる勇気がないからだ、と敢えて私は申し上げる。
上に上げた、ラ・ボエシの言葉を、自分の社会的なあり方と引き比べて、読んで頂きたい。
まず日本の社会に独特な「上下関係」について考えてみよう。
大学の運動部・体育会を表わす表現に「4年神様、3年貴族、2年平民、1年奴隷」というものがある。
1年生は、道具の手入れ、部室、合宿所掃除、先輩たちの運動着の洗濯、など上級生・先輩たちの奴隷のように働かされる。
2年生になると、やはり上級生たちに仕えなければならないが、辛い労働は1年生にさせることが出来る。
3年生になると、最早労働はしない。4年生のご機嫌だけ取って、あとは2年生、1年生に威張っていればよい。
4年生になると、1年生は奴隷労働で尽くさせる、2年生は必要なときに適当に使える。3年生は自分たちにへつらい、こびを売るから可愛がってやり、ときに下級生がたるんでいるから締めろと命令して、3年生が2年生、2年生が1年生をしごくのを見て楽しむ。
これは、有名私立大学の体育会に属する学生、体育会のOB何人もから聞いた話だから確かである。
こんな運動部に絶えず新入生が加入する。
彼らは人伝えに、上下関係の厳しさを知っていて、新入りの1年生がどんな目に遭うか知っていて、それでも体育会・運動部に入ってくる。
そして、入部早々新入生歓迎会という乱暴なしごきを受ける。
毎年春になると、上級生に強要されて無茶苦茶な量の酒を飲まされて急性アルコール中毒で死ぬ学生の話が報道される。
そのしごきが厭になって止める学生もいる。
だが、運動部が廃部になることは滅多にない。
入部する新入生が減ったとか、いなくなったとか言う話も滅多に聞かない。
OBや上級生は「我が部、何十年の伝統」などと、自慢する。
この場合の自慢は、自己満足の表明である。
下級生は何故上級生の支配を日常的に受けて我慢しているのか。
そう尋ねると、例えば、野球なら野球をしたいから部に入っている。部を止めたら野球ができなくなる。だから、上級生のしごきも我慢しなければならない、と答えるだろう。
本当だろうか。しごきがなければ、野球部は出来ない物だろうか。
野球の発祥の地アメリカの大学や高校の野球チームで、日本のように上級生の下級生にたいするしごきがあったら、しごいた上級生は直ちにチームから追放されるだろう。
何故、野球をしたいがために殴られたり、無意味どころでは無く、腰に非常に有害ななウサギ跳びなどをされられるのを甘んじて受け入れるのか。
運動部のOBは卒業してからも、現役の学生の選手たちに威張っている。また、そのOBの中でも卒業年次ごとに上下関係がある。
一旦運動部に入ると、死ぬまでその上下関係に縛られる。
彼らは、支配被支配の関係が好きなのだ。支配される事が好きだから、「仕方がない」などと言って、先輩の暴力を耐えるのである。
いつも支配されつづけていると、例えば日本の野球部の新入生は上級生からの暴力が絶えたら、自分でどう動いて良いか分からなくなるのではないか。
何故、運動部・体育会について、長々と書いたかというと、この、運動部・体育会の奇怪で残忍な組織は、日本の社会だから存在する物であり、日本の社会の構造そのものを、そこに作り出していて、日本社会のひな形だと思うからだ。
日本の運動部・体育会は後輩の先輩たちに対する自発的隷従によって成立している。日本の社会がまさにそうである。
日本の会社、官僚の世界も同じである。
日本の会社に一旦入るとその日から先輩社員に従わなければならない。
それが、仕事の上だけでなく、会社の外に出ても同じである。
居酒屋や焼き肉屋で、どこかの会社の集団なのだろう、先輩社員はふんぞり返って、乱暴な口をきき、後輩社員はさながら従者のように先輩社員の顔色をうかがう、などと言う光景は私自身何度も見てきた。
「会社の外に出てまでか」と私はその様な光景を見る度に、食事がまずくなる思いをした。
高級官僚(国家公務員上級試験に合格して官僚になった人間。国家公務員上級試験に合格しないと、官僚の世界では、出世できないことになっている)の世界はまたこれが、奇々怪々で、入庁年次で先輩後輩の関係は死ぬまで続く。
その年次による上下関係を保つ為なのだろう、財務省などでは同期入庁の誰かが、官僚機構の頂上である「次官」に就任すると、同期入庁の者達は一斉に役所を辞めて、関係会社・法人に天下りする。
さらに、恐ろしいことだが、先輩が決めた法律を改正することは、先輩を否定することになるので出来ないという。
なにが正しいかを決めるのは、真実ではなく、先輩後輩の上下関係である。
だから、日本では、どんなに現状に合わないおかしな法律でも改正するのは難しい。
会社員の世界も、官僚の世界も、先輩に隷従しなければ生きて行けない。
自ら会社員、官僚になる道を選んだ人間は自発的に隷従するのである。
(以下略)
PR
コメント