引用記事の、この質問に対する回答(省略)も、はたして「ベストアンサー」なのか、疑わしいが、私も「共和主義」や「共和政体」というのがよく分からない。republicという英語の語源もよく分からない。何かpublic的なものだろうとは思うがreとの関係が分からない。接頭辞としてのreは「再び」「~し直す」以外の意味は無さそうなので困るのである。
要するに、「君主制ではない」という曖昧な定義しかできそうもない。まあ、アメリカ独立時の英国の君主制への対抗としての政治概念がrepublicだったのではないか。つまり、「君主」に「public」を対置した気がする。この場合のpublicは人民全体を意味したと思う。しかし、democracyが本来は「人民による支配」というニュアンスを持っていたので、それを避けて「公」という概念を入れたのがrepublicだと思う。つまり、英国による「支配」にうんざりしていたので、何かの「支配」を感じさせる言葉を忌避したのではないか。ではreは何かと言えば、「回帰」を意味するというのが私の飛躍的な考えだ。つまり、本来、「君主」という存在は無かったわけで、人類の初期には合議制で集団の方針を決定していただろう。それに「回帰」するという意味が、この「re」にはある、という空想である。
下の「ベストアンサー」の「君主制と民主制は共存できる」というのは愚劣な発言で、それが形式的に可能なのは日本の「象徴天皇制」だけであり、これは「君主制」ではない。君主制とは君主に政治の主権があるのだから、民主制との共存は不可能である。「象徴天皇制」は、天皇に政治行為が不可能だとしているから、共存できるのである。ついでに言えば、最近の反天皇言説は、まるで天皇に政治的権力があるかのような言い方をするが、どこにそういう証拠があるというのか。
(徽宗追記)探したら、素晴らしい回答があったので、最初に載せた「ベストアンサー」を消去して、こちらを載せることにする。
要するに、「君主制ではない」という曖昧な定義しかできそうもない。まあ、アメリカ独立時の英国の君主制への対抗としての政治概念がrepublicだったのではないか。つまり、「君主」に「public」を対置した気がする。この場合のpublicは人民全体を意味したと思う。しかし、democracyが本来は「人民による支配」というニュアンスを持っていたので、それを避けて「公」という概念を入れたのがrepublicだと思う。つまり、英国による「支配」にうんざりしていたので、何かの「支配」を感じさせる言葉を忌避したのではないか。ではreは何かと言えば、「回帰」を意味するというのが私の飛躍的な考えだ。つまり、本来、「君主」という存在は無かったわけで、人類の初期には合議制で集団の方針を決定していただろう。それに「回帰」するという意味が、この「re」にはある、という空想である。
下の「ベストアンサー」の「君主制と民主制は共存できる」というのは愚劣な発言で、それが形式的に可能なのは日本の「象徴天皇制」だけであり、これは「君主制」ではない。君主制とは君主に政治の主権があるのだから、民主制との共存は不可能である。「象徴天皇制」は、天皇に政治行為が不可能だとしているから、共存できるのである。ついでに言えば、最近の反天皇言説は、まるで天皇に政治的権力があるかのような言い方をするが、どこにそういう証拠があるというのか。
(徽宗追記)探したら、素晴らしい回答があったので、最初に載せた「ベストアンサー」を消去して、こちらを載せることにする。
信濃路の自由人さん
民主主義も共和主義も時代や論者によって微妙に違ったニュアンスで用いられます。この二つを殆ど同じ意味合いで用いる人も多いのですが、本来は随分と異なるものであると言われます。 民主主義・共和主義がそれぞれ実現しようとしている民主政治・共和政治という政治のスタイルは古代の地中海沿岸地域で誕生しました。具体的には民主政は古代ギリシアの一部の都市(アテナイ等)で、共和政は古代ローマで成立した訳です。 初期の民主政・共和政を至極簡単に纏めると、民主政治は「非身分制の思想」であり、共和政治は「合議制の思想」であると言う事が出来ます。 デモクラシーとは元々「多数者の権力」といったニュアンスで使用されていました。詰まり、王や貴族等の特定の特権階級が権力を独占するのではなく、(政治的な権利を認められた成員である)市民が支配者にも被支配者にもなるという考えです。 実際のアテナイではこの「市民」という存在が兵役の義務を果たせる男性のみという限定付きではあったのですが、少なくとも市民同士は対等な立場であり、アテナイの政治決定は主に全ての市民が参加する民会での多数決によって決められていたという訳です。 一方、リパブリックというのは「公益への奉仕」といったニュアンスでした。共和政ローマでは貴族と平民が存在した(アテナイにも貴族はいましたが、殆ど形式的なものでした)のですが、政治決定は貴族の代表者達による「元老院」と、平民(市民)の代表による「民会」という二つの機関の中で議論され、両者が互いを牽制しつつ政治を運営していたと言われています。 実際は元老院の方が力が強かったのですが、飽くまで議場での討論によって物事を決定し、複数の機関によって異なる階層の人々の意思を反映しようとしたのが共和政ローマのスタンスでした。 共和政治は扇動者による大衆政治に反対し、熟議の必要性を強調しました。ある意味では現代の議会政治にも近いのですが、それ以上に「参加に基づく自治の思想」という性格が強く表れていた様です。 民主主義から見れば「共和政治は限られた人々の議論で決定が為されてしまう。非民主的だ」と成りますし、共和主義からすると「民主政は多数者の専横だ。一握りの扇動者が作り出す意見によって作られた多数派の利益が最優先され、少数派の意見が顧みられていない」という事になります。 ギリシアがマケドニア帝国に征服され、ローマが帝国に変わった事で、民主政・共和政は長い間日陰に追い遣られます。それが、近代の混乱の中で再評価され、様々な修正や再編を経て復活した訳です。 アメリカでは建国時にこの二つの思想が大きな役割を果たしましたが、元々の牽制し合う関係性が今でもある程度残っています。アメリカでは共和主義的要素と民主主義的要素が混在しており、時に対立・摩擦を生みながらも相互に補完し合っている訳です。 一方、フランス等では少々事情が異なり、民主主義と共和政治が深く結びつき、「互いに対等な市民による、国民国家への参加に基づく合議・自治の思想」といった意味合いを持つ様になっています。これを纏めて民主共和政治と呼ぶ向きもあります。 尤も、この様に民主主義・共和主義に複雑な意味合いを求めるのは欧米の一部の国々ぐらいであり、他の大部分の国では「非君主制」という様な曖昧なニュアンスで、特に深く考えずに使用している様です。日本もこれに近く、民主政・共和政について深く考えずに使用される事が多い様です。 長文になり恐縮です。以上になります。
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コメント
1. republic のre