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徽宗皇帝のブログ

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友達とは何か
「琥珀色の戯言」というブログから転載。
メロスとセリヌンティウスについての部分は笑ってしまったが、実に同感である。あんな迷惑な「友達」はいない。まあ、太宰治という、いかにも不実そうな人間が書いている時点で推して知るべし、だろうが、いろいろとパロディにされたりしながら長い文学的生命を保っているのだから、名作であることは間違いない。
下の文章に書かれていることにはまったく同感である。もちろん、「お前のためなら死んでもいい」という友情もあるだろうが、それはどうもホモ臭い。実際、昔の日本の衆道では刃傷沙汰がたくさんあったようだ。かと言って、友情や友人関係が、ただの感情や恩義の貸借関係でないことも確かだ。そういうのは友情ではなく、お互いを利用しあっているだけで、何だか汚らしい感じが拭えない、と思うのも古典的友情の文学的イメージに「染脳」されているのだろうか。
まあ、世間で言う友達、というのはかなり軽いもので、中にはそれを大げさに親友と言ったりするが、親友など、一生に一人か二人できるかできないかというくらいのものだろう。親友が10人も20人もいる、というのは「遊び仲間」がそれだけいる、というだけの話ではないか。

そもそも、「友達」って、言葉には、それを口にしてしまうと、もう御仕舞、という危うさを秘めているんじゃないかと思います。

これは非常に繊細な感覚だと思う。だから、この記事の筆者は友達が少ないのかもしれないがwww
当然ながら筆者(徽宗)も友達は少ない。「僕は友達が少ない」のように、友達がいない代わり、周りがハーレム状態というわけでもない。

友達は、いるに越したことはないが、いなくてもそれほど不幸だということはない。学校時代だけは、例の「二人で組んで」「友達でグループを作って」で嫌な思いをするだろうが、社会に出たら、仕事の必要上の人間関係だけで十分である。したがって、「あいつ友達いなさそう」は学校という「子供(大学生も子供である)の世界」だけで通用する罵倒や嘲笑の言葉だ、と思えば、友達のいない若者は少し気強くなれるだろう。


(以下引用)



      

「友達がいなさそう」人間の独白

雑記


参考リンク:「友達がいなさそう」が罵倒の文句になる理由:日経ビジネスオンライン


この津村記久子さんの文章を読みながら、僕も考えました。
「友達」って、何なのだろう?
ときどき、テレビのインタビューなどで、「あなたには『親友』がいますか?」なんてやっているじゃないですか。
で、女子高生が、キャーキャー言いながら、「うーん、10人くらいかな!」と答えている。


僕は友達が少ない人間で、いまこの場で「すごく困っているから、いますぐ来てくれないか」と電話したら飛んできてくれるような「友達」の顔を思い浮かべようとするのだけれど、全く浮かんでこないのです。
そもそも「友達」なら、そんなふうに迷惑をかけるべきじゃないのでは、とか考えてしまうし。


世間の人々は、「友達」って、どういうものだと解釈しているのでしょうか。
暇なときに電話でお喋りしたり、休日に一緒に遊びに行ったりするのが、「友達」?
困ったときに相談相手になってくれるのが、「友達」?
とりあえず、お昼ご飯を一緒に食べてくれるのが、「友達」?
お酒を飲んで、愚痴りあえるのが、「友達」?


いや別にいいんですよ、こういう存在がみんな「友達」でも。
僕にはこういう人たちも周囲にいないから(いや、お互いに手が空いているときに、一緒にごはんを食べてくれる同僚はいますけど……って、「食べてくれる」とか書いている時点で、僕なんかと一緒でごめんね感満載なわけですが)、ちょっと羨ましくもあります。
でも、僕はなんか、そういうのって、「友達」なのかな、とか思うわけですよ。
それは、誰かと飲みに行くよりも、ひとりで本を読んだり映画を観たり、ネットをやったりするほうが好きな人間だから、なのかもしれないけれども。


そもそも、「友達」って、言葉には、それを口にしてしまうと、もう御仕舞、という危うさを秘めているんじゃないかと思います。
「オレたちは親友だよな」という言葉のあとに続くのは、「だからカネ貸して」とか「浮気のことは内緒にね」だったりすることがほとんどです。
ヘタに「友達モード」に入ると、「親友の身代わりに磔の刑にされそうになったりする」わけです。
あれもセリヌンティウスにとっては迷惑極まりない話ではありませんか。
本当の「親友」なら、身代わりにしようとは思わないだろうし、もっとさっさと帰ってくるはずじゃないですか。
ギリギリセーフだったから、「感動的な話」ではありますが、ギリギリアウトだったら、どうなっていたのか。
で、余裕をみて帰ってきたら、メロスはあっさり処刑されていたんでしょうか。


「あなたにとって、いちばん大切なものは何ですか?」
そういう質問も、けっこうテレビなんかでよく行われてますよね。
で、「お金」とか「仕事」なんて言うと、人非人のような扱いを受けるので、多くの人が「友達」って答えます。
言うほど大事にしているわけでもないのに。
まあ、そういうのは「仕事」とか「家族」でもそうなんですけどね。


実際、こうして大人になってみると、友達と遊ぶ時間なんて、本当に少ないのです。
ずっと地元にいて、狭い範囲での人間関係を維持している、いわゆる「ヤンキー化社会」では、「ずっとつるんでいる」こともありえるのかもしれないけれど。
僕にとって、「友達」と接する機会って、共通の知り合いとの冠婚葬祭くらいのものです。
でもまあ、そういう場面では、ものすごく懐かしかったり、とりあえずお互いの無事を確認するだけで安心できたりもするのですが。
僕は基本的に「淡白な人間関係」を望んでいるので、「友達」もそういう人ばかりなのかな。
それにね、考えかたを変えれば、「ベタベタしていなくても、距離が離れていても、極端な話、一度も会ったことがなくても、通じるものがあれば友達」でもいいんじゃないかな。
村上春樹さんや筒井康隆さんは、そういう意味では僕の「友達」だし、これを読んでいるあなたも「友達」かもしれません。
綺麗事じゃない話をすれば、もちろん、こういう空間(ネット上)には「相容れない人」もいます。




僕自身は、もう「こんなものだろう」と半分諦めていますし、大人というのは、それでもそんなに困りはしないものなのですが、そんな僕でも、自分の2歳になったばかりの息子が、同じくらいの年の男の子と遊んでいると、ちょっと安心するのです。
こいつは「友達」ができるのかなあ、というのが、ずっと不安なんですよね。自分のことがあるから。
「友達」って、子ども時代〜学生時代には、やっぱり「いるにこしたことはない」と思う。
学校生活って、「じゃあ、2人組をつくって」とか「みんなでグループをつくって行動しましょう」なんていう場面の連続です。
とくに体育が苦手だった僕は、「準備運動で2人組をつくる」のが、イヤでイヤで。
あれって、一人残ると先生と一緒にやったりしなきゃいけないんですよね。
それはまさに「友達がいない人間の証明」。
でも、僕と組むと相手に迷惑をかけるし……とか、もう本当にイヤだった。
息子には、ああいう経験をさせたくない。
僕はなんとか、「クラスでも少数派のマイナーグループに混ぜてもらって、生き延びていった」のですが、なんだか毎日、綱渡りをしていたような気がします。
もしここを追放されたら、もう行く場所がない、という危機感をずっと抱いていました。




「中高生時代はよかった」なんて言う人がいるけれど、僕は絶対、今のほうがいい。
自分で判断して、自分で行動できるし、「孤独であること」すら許されるから。
家族がいると、「徹底的に孤独であること」は難しいですけど。


津村さんは、


友達関係も要するに人間関係なので、普通に運不運は関わってくるものであり、友達がいないことの運のなさを、その人の人格全体に敷衍してしまうようなわたし自身の考え方は、どうかと思ったのだった。どうして友達ができない=友達運がない、ということを、男運がない、ぐらいの一般的なこととして語れないのか、どうして、友達がいないということが、人格否定にもつながるような深刻さを帯びるのか。


と書かれています。


本当に、その通りだと思う。
人間って、「みんなと仲良くしよう」とすると、かえって、台風の目のように、自分だけが孤独になったりするものだし。


映画監督の押井守さんは、著書『凡人として生きるということ』に、こんなふうに書かれています。


 僕には友達と呼べる人はいないし、それを苦にしたことはない。年賀状にしても、こちらから出すのは毎年ふたりだけ。師匠ともうひとり。さすがに出さないと失礼と思われる大先輩のふたりを除いて、年賀のあいさつを出す相手もいない。
 だから、正月にうちに配られる年賀状はどんどん減ってきた。それでもいいと僕は思っている。他人とのコミュニケーションは、こんな僕でも大事だ。いや、多くの人の才能に支えられて映画を作る僕のような人間には、コミュニケーションほど大切なものはない、と言ってもいいだろう。
 だが、それはあくまでも映画を作るという目的があってのことだ。もしも僕がたったひとりでも映画を作ることができるなら、ひとり家にこもって誰とも交わらず、黙々と作業をするだろう。
 だが、実際にはそんなことはできるはずもない。だから、僕は他人を必要とする。他人を必要とするから、他人と一晩でも二晩でも、相手に自分の考えを納得してもらえるまで、とことん話す。
 その過程で、その人とどんなふうに付き合えばうまくやっていけるかを真剣に考える。仕事仲間になるのだから、映画を作る数年の間は、その人とうまくやっていきたいと自然に思うから、そうするだけのことだ。
 逆に、話す必要もない相手とは話さない。僕は別にお友達がほしいわけじゃないからだ。友人なんてそんなもの、と思ってみれば、友人関係であれやこれやと悩むこともバカらしくなってくるはずだ。
 だから、若者は早く外の世界へ出て、仕事でも見つけ、必要に応じた仲間を作ればいいと、僕は思っている。ただ、そばにいてダラダラと一緒に過ごすだけではない仲間がきっと見つかるはずだ。
 損得勘定で動く自分を責めてはいけない。しょせん人間は、損得だけでしか動けないものだ。無償の友情とか、そんな幻想に振り回されてはいけない。
 そうすれば、この世界はもう少し生きやすくなる。

鴻上尚史さんは、著書『孤独と不安のレッスン』で、こんなことを書かれていました(引用ではなく、僕が記憶しているものなので、まちがっているかもしれません。興味のある方は、原著にあたってください)。


あなたが有名なミュージシャンと知り合いになりたいとき、いちばん確実な方法は何だと思いますか?


うーん、マメにコンサートに通ったり、手紙を出すこと? つてを一生懸命たどって、そのミュージシャンの友達にたどり着くこと?


この問いに関する、鴻上さんの「答え」はこうでした。


あなた自身が有名なミュージシャンになること、です。
あなたが「一緒にステージに立ちたい」と思われるようなミュージシャンになれば、相手のほうから近づいてきますよ。


なんだそれは、と、お怒りの向きもあるでしょう。僕も最初にこれを読んだときは、正直ムカつきました。
そんなことができるなら、苦労しねえよ、と。
でも、これがいちばん「現実的な方法」であることも、たぶん間違いありません。
「自分に合った人がいる場所を選ぶ」というのは、友達づくりの重要なポイントなのでしょう。




「友達の数を増やすための友達」は、少なくとも大人には必要ないと思います。
そう言いながら、僕は自分の息子には「友達がたくさんいる人間」になってもらいたい、と願っているのです。
実際、息子に「トモダチできたか?」って尋ねないのはかなり難しそうだし、「べつに一人でもいいんだよ」とは、やっぱり言いにくい。
形だけの「友達」でも、義理で呼ばれた披露宴で話し相手がいるといないのとでは大違い、ですしね……
僕も偉そうなことを言っているけれど、3時間の披露宴での孤独に耐えられない人間が、人生において「孤独を貫くこと」ができるとは思えません。
「友達至上主義」はバカバカしい。
でも、「(どんな薄っぺらい友情であれ)友達がいない人生は、けっこうキツイ」のもまた事実。
「友達らしいこと」をやろうとすればするほど、僕にとっての理想的な「友情」とは、かけ離れていく。
「完璧な友情」っていうのは、結局のところ、想像の中にしか無いのだろうか。




さて、あなたには、本当の「友達」がいますか?




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