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徽宗皇帝のブログ

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政治家と人相
「世に倦む日々」記事の前半だが、私は人相学(「学」というほどの知的蓄積は「人相学」には無いだろうが)に関心があり、人間の人格は顔を見れば分かる、という思想だ。ただ、善人でも悪人でもない「普通の(平均的な)顔」が大半であり、それは夏目漱石が言うように、「同じ人間が(状況次第で)善人にも悪人にもなる」ということなのだが、ふだん汚いことばかりやっている、あるいはやってきた人間は確実に「悪相」になる。しかし、その「悪相」というのも映画の悪役俳優の顔とはまた別なのである。たとえば前原誠司の顔などは、「嘘つき」「信頼できない人間」を絵に描いたような顔なのだが、あれを「好ましい顔」だと思い込む庶民は多いのだろう。高市早苗も同じだし、野田佳彦もそうだ。だが、彼ら松下村塾出身者は結局のところ「小物」顔である。最初から保守権力に擦り寄る目的で保守補完勢力養成塾に入った連中なのだから当然だ。馬鹿で阿呆の安倍元総理だったが、馬鹿なりに彼らよりは「格上感」はある顔だった。それは同じく悪相の岸信介が、「悪党で頭もいい」悪相だったのよりはかなり格落ちではある。枝野などは、頭が悪くはないと思うが、顔に「視野の狭さ」が現れている、というのは彼の言行からついそう見えるだけでもないだろう。いつも、視線が真正面より少し下を見ている印象だった。大空や地平の彼方を見るイメージがまったく無い。

(以下引用)なお、私は「青バッジ」が何か知らないのだが、「北朝鮮誘拐者奪回同盟」みたいなものだろうか。それとも「神道連盟」か「日本会議」か。


青バッジこそが泉健太の政治信条と政策立場 – 展望を失った立憲民主党組織

青バッジこそが泉健太の政治信条と政策立場 – 展望を失った立憲民主党組織_c0315619_15184063.png昨年の10月、辺見庸が菅義偉のことを特高顔だと言って物議を醸した一件があった。毎日の夕刊に載ったインタビューで、「菅さんっていうのはやっぱり公安顔、特高顔なんだよね。昔の映画に出てくる特高はああいう顔ですよ」と言っている。言い得て妙であり、正鵠を射ていて、傑作の政治的洞察だと思う。さすがに辺見庸の観察眼は鋭く、文学者らしい辛辣な表現で本質を捉えている。単に市民の批判的な嗅覚と表象を代弁して言語化しただけでなく、日本の政治の核心を衝き、この国の政治史の真相をよく教示している。政治学的に価値の高い寸言であり、長く参照されることだろう。その辺見庸だったら、泉健太の顔を見て何を直観してどう形容するだろうか。辺見庸を真似して遠慮なく言えば、私は率直に、泉健太の目つき顔つきに底知れぬ薄気味悪さを感じる。あの雰囲気と言葉つきが不吉で不快だ。本人や支持者には恐縮だが、これは多分に生理的で本能的で個人的なもので、私がここまで嫌悪感と警戒感を白状する政治家はあまりいない。それがなぜなのか、自分でも原因がよく分からず戸惑う部分がある。



青バッジこそが泉健太の政治信条と政策立場 – 展望を失った立憲民主党組織_c0315619_14335546.png政党の新代表に向かって、いきなり面相を問題にした批評から切り出すのは、無名異端のブログとしても不躾すぎて些か気が引ける。が、先日、NHKの歴史番組の『英雄たちの選択』を見ていたら、三浦按針(ウィリアム・アダムス)の特集を放送していて、家康が按針を接見・尋問した最初の出会いの幕が紹介され、磯田道史が興味深い解説を加えていた。家康は按針と対面すると、長い間じっと目を見つめていたというのである。何十秒か、ひょっとして1分以上、黙ったまま、按針の視線と表情を食い入るように凝視した。人物を観察して、何者か、どの程度の器量かを評価し鑑定したのである。そのくだりを説明した後、ある経営者から聞いた談話を引き、ビジネスで相手を信用できるかどうかは目を見て一瞬で決める、話の内容では判断しない、という挿話を被せて老獪な家康のスタイルを称賛した。説得力のある歴史の逸話であり、カリスマ家康の人間力を感じさせ、古今普遍的に通ずる法則性を考えさせられる。言葉以上に、目つき顔つきの情報から、その者の真相や真意や動機や思惑がキャッチされるのだ。


青バッジこそが泉健太の政治信条と政策立場 – 展望を失った立憲民主党組織_c0315619_14341157.png一つ明確に言えるのは、泉健太のルック・アンド・フィールと前原誠司のそれが重なる点だ。二人は人相が相似している。この指摘と考察は、多くの者に頷いてもらえるだろう。泉健太は立命館を卒業した後、秘書から始めてずっと政治家稼業で、社会人の職業に就いた経験が一度もない。若い頃から前原誠司の陣笠子分の人生一筋であり、前原誠司の影響を決定的に受けてきた。指南と薫陶を受けて政治家として育っている。師匠と弟子の長く深い関係だから、前原誠司の目つき顔つきが複製・転写されるのは当然で必然だろう。政治思想と政治人格は前原誠司とそっくり同じと考えていい。フル・コンパチブルだと想定できる。だが、何か、前原誠司よりも冷たく暗い闇が潜んでいるようであり、その正体が何なのか、不気味でよく掴めない。あれは確か16年4月の衆院京都3区補選のとき、前原誠司が、小池晃や穀田恵二と選挙カーの壇上に立ち、「共闘」を訴えて愛想を振りまく場面があった。例の希望の党の政変の1年半前の出来事である。「共闘」のアピールが欺瞞で偽装であることは、前原誠司の汚い目つき顔つきを見れば一目瞭然だった。


青バッジこそが泉健太の政治信条と政策立場 – 展望を失った立憲民主党組織_c0315619_15203070.png泉健太は代表選では素顔と本音を隠し、言質を取られないよう注意深く口舌を配慮して対処し、他の候補3人と大差ない政策発言で終始して、無難に代表に収まっている。極力波風を立てないように、左翼やマスコミに言葉尻を押さえられて騒動の渦を作らないように、慎重居士の安全運転に徹して他の3人と言葉を合わせていた。共産党と手を切るとは言わず、改憲に乗るとは言わなかった。だが、それが代表選を乗り切るための一時的方便であり、人を騙すフェイクであり、本心が別にあることは、胸に光らせた青バッジが明快かつ雄弁に物語っている。青バッジこそが本当の政見と政策を発信する実体だった。立憲民主党の中で右翼の青バッジを常時着用し、自己の政治的アイデンティティを示威している政治家が、果たして何人いるだろうか。そのきわめて少数の右翼グループの中に泉健太は入っていて、反共の信念の強さを衆目に印象づけている。立場をストレートに強調している。青バッジのシグナルが泉健太の基本政策の表明であり、したがって、共産党と絶縁するのは時間の問題だ。マスコミの論調や世論調査に背を押されて、少しずつ狡猾に前言撤回へ動くだろう。

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